障害者の人権【しょうがいしゃのじんけん】

[日本における障害者差別の実態]

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 1975年(昭和50)の国連総会で採択された<*障害者の権利に関する宣言>によると,<障害者【しょうがいしゃ】〉という用語は,<先天性であると否とを問わず,その身体的又は精神的能力の不全のために,通常の個人的及び(又は)社会的生活の必要性を全部又は一部,自分自身で確保することができない,すべての人間を意味する>とされている。一方,日本においては93年に改正された<障害者基本法>の2条で,<身体障害,精神薄弱又は精神障害があるため,長期にわたり日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける者をいう>と定義づけられている。99年度の『障害者白書』によると,日本の障害者人口は身体障害者【しんたいしょうがいしゃ】約317.7万,知的障害者【ちてきしょうがいしゃ】41.3万,精神障害者【せいしんしょうがいしゃ】217万で,合計576万人と報告されている。また人口1,000人に対する身体障害者数は、65年に15.7人であったのに対し、96年には28.9人に増加し、この傾向は高齢社会の進展や交通事故、労災事故等による中途障害者の増加により、さらに続くと思われる。ただし,この数字はあくまで推計に過ぎず,とくに知的障害者と精神障害者に関しては法制度の未確立等の理由で,正確な数は把握されていないと思われる。

 81年の<国際障害者年【こくさいしょうがいしゃねん】〉を契機に,日本においても障害者と健常者が共に地域で生活することをめざす<*ノーマライゼーション>の理念が徐々に普及し,その結果、障害者問題の解決を障害者個人の努力や医学の力に頼る従来の考え方から,障害者を取り巻く周囲の環境の改善を重視する方向へと変化しつつある。すなわち<障害からの解放>にかわって<差別からの解放>が強調され,いわゆる<四つのバリア(障壁)>の除去(*バリアフリー)が課題とされることとなった。すなわち)\度上のバリア,∧理的バリア,J顕修肇灰潺絅縫院璽轡腑鵑離丱螢◆きた瓦離丱螢△任△襦

 日本の障害者施策は障害の種別ごとに作られており,法の目的や施策内容などの面でも著しい格差がみられる。たとえば<身体障害者福祉法【しんたいしょうがいしゃふくしほう】〉(1949.12制定)については,幾度かの改正によって,法の目的に<自立と社会経済活動への参加>が明記されているのに対し,<精神薄弱者福祉法【せいしんはくじゃくしゃふくしほう】〉(1960.3制定)では,隔離,収容を主目的とした<更生>と<保護>が依然として残されている。また<精神保健及び精神障害者福祉に関する法律【せいしんほけんおよびせいしんしょうがいしゃふくしにかんするほうりつ】〉は95年の改正で,ようやく福祉施策がわずかばかり加えられたものの,その内容のほとんどは社会防衛の立場からの医療処遇に限られているといってよい。さらに理念のうえでは<ノーマライゼーション>が掲げられているにもかかわらず,具体的施策の面では*ホームヘルパーなど*在宅福祉サービスや地域での自立を支えるための施策はきわめて乏しく,多くの障害者が<親がかりか施設収容か>のいずれかの選択肢しか用意されていないのが実態である。一方<高齢社会>の急速な進展とともに<福祉のまちづくり〉が強調され,駅舎や公共建築物へのスロープやエレベーターの設置が普及しつつあるが,道路の段差や駅の階段に象徴されるように,さまざまな物理的バリアが障害者の移動の自由と生命の安全を脅かしている。

 このほか労働行政の遅れと企業の無理解のため,障害者の雇用は容易に改善されず,さらに文部省は世界の流れに逆行して障害児と健常児を分離する教育体制(*分離教育)をとり続けている。また,障害者に対する一般市民の理解も深まりつつあるが,その一方で根強い差別意識や偏見も存在し,そのことが障害者に対する積極的なかかわりを妨げる大きな要因ともなっている。このように障害者差別を撤廃するための課題は山積しているのが現状である。

(楠 敏雄)

[国連と障害者]

〈国連の決議・宣言〉

 障害分野での主な国連の宣言や決議には、〈精神薄弱者の権利宣言〉(1971)、〈障害者の権利宣言〉(1975)、国際障害者年(IYDP、1981)、障害者に関する世界行動計画(1982)、国際労働機構(*ILO)の、障害者の職業リハビリテーションと雇用に関する条約(第159号、1983)、国連障害者の10年(1983〜92)、障害をもつ人々の機会均等化に関する基準規則【しょうがいをもつひとびとのきかいきんとうかにかんするきじゅんきそく】(1993)、国連教育科学文化機構(*ユネスコ)の、特別なニーズ教育に関するサラマンカ声明(1994)がある。

〈国際障害者年〉

 1981年の国際障害者年【こくさいしょうがいしゃねん】(IYDP)は〈完全参加と平等【かんぜんさんかとびょうどう】〉をテーマに、各国にIYDP推進の手段と計画を確立させ、任意の拠出による基金を制定した。障害者のための(for)年として提唱されたが、最終的に障害者自身による(of)年とされたことで、障害者自身のニーズに基づいた国際的運動の転機となった。この1年間で障害者の権利擁護運動は大きく前進し、先進国、途上国を問わず種々の行事が企画され人々の意識が変化した。日本ではテーマソングも作られ、マスコミは終始関連の番組を流し、お祭り騒ぎにも似た1年ともなった。

 障害の定義において、障害が環境によってつくられることが強調され、障害者を含むすべての市民のニーズに対応するために社会を改造するとの世界的哲学へと運動の方向が変わり、さらに運動を進めるために〈国連障害者の10年【こくれんしょうがいしゃのじゅうねん】〉が提唱された。  

〈世界行動計画〉

 〈国連障害者の10年〉のための行動計画として〈障害者に関する世界行動計画【しょうがいしゃにかんするせかいこうどうけいかく】〉が策定された。障害予防、*リハビリテーション、機会の均等化が基本的概念となっている。

*リハビリテーションは一定期間のプロセスとされ、障害者が医療リハビリテーション、教育リハビリテーション、職業リハビリテーション、社会リハビリテーションの名のもとに生活をずっと管理されるのではなく、自己管理、自己決定の権利をもつことを認めた。機会の均等化とは、社会の制度や環境がとくに障害者を中心とするすべての人に利用できることを指す。

〈機会の均等化に関する基準規則〉

 〈国連障害者の10年〉のもっとも重要な概念であった機会の均等化がさらに推進されるように、障壁の除去を焦点としている。国連は特別報告者に元スウェーデンの社会大臣である視覚障害のベンクト・リンドクビストを任命し、世界中で実施のプロセスをモニタリングしている。アジア太平洋地域ではESCAP(国連アジア太平洋経済社会委員会)が独自に1993〜2002年を〈アジア太平洋障害者の10年【あじあたいへいようしょうがいしゃのじゅうねん】〉としたために、全般的に基準規則への関心が薄い。

(中西由起子)

[障害者基本法と行政施策]

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 第2次大戦前の日本の障害者施策は、傷痍軍人や視覚障害者への特別の施策を除けば、独自の法制度はなく、救貧対策の一環として処理されていた。敗戦後から1955年(昭和30)までの施策は、特権的施策を失った戦傷病者により先導されたもので、初めての障害者福祉法である身体障害者福祉法【しんたいしょうがいしゃふくしほう】(1949.12.26)も傷痍軍人対策を一般化したものだったので、そのほかの障害者の要求に適合するものではなかった。つづく高度成長期には、国民年金法(1959.4.16)、身体障害者雇用促進法【しんたいしょうがいしゃこようそくしんほう】(1960.7.25)、精神薄弱者福祉法【せいしんはくじゃくしゃふくしほう】(1960.3.31)が制定された。それらを含めた各種法律の調整法として心身障害者対策基本法【しんしんしょうがいしゃたいさくきほんほう】(1970.5.21)が制定された。一方、重度心身障害児問題が注目を集め、コロニー構想や収容施設建設への流れとなった。この時期においては、高度成長を支える労働力を確保するために、軽度障害者については<更正>、重度障害者には<保護>、施設への収容、それによる介護者の労働現場への復帰という経済的指向が貫徹していた。

 70年代に入り<福祉なくして成長なし>と政策の方向は変更されたが、さらに73年のオイル・ショックで高度成長政策は破たんし、自助と相互扶助を強調する<日本型福祉社会論>が登場した。これは本質的には福祉のコストを国民に負わせようとするものだが、その半面、*ノーマライゼーション思想の台頭によって運動の前面へ障害当事者が登場し、<国際障害者年><国連障害者の10年>など世界的規模での障害者福祉理念の定着があった時代でもある。政府も内外からの要求を受けて、<完全参加と平等>を取り入れた基本法制定を考えざるをえなくなり、93年(平成5)11月26日、心身障害者対策基本法を改正し障害者基本法(資料編B-10)が制定された。

 障害者基本法の評価点としては、法の目的として<自立の促進と社会、経済、文化その他あらゆる分野の活動への参加の促進>がうたわれたこと、精神障害者を<障害者>として明確にしたこと、国に障害者施策に関する基本計画の策定を義務づけたこと、国・地方公共団体に対して障害者のために必要な施策を義務づけたこと、などである。しかし同法では、障害者の権利と差別の禁止に関する規定がほとんどなく、罰則規定や当事者による争訟権についての規定がまったくない。アメリカ障害者法ADAはこれらの点を明確にしている。<当事者主体の原則>があいまいなこと、国際的基準からみると<障害者>に含まれる範囲が非常に狭いこと、基本法は障害者関連個別法の上位法であるが、障害者関連個別法規が統一性を欠き、障害種別の間に著しい格差がみられること、など残された課題も多い。

(白田幸治)

[障害者の雇用]

 障害者は一般労働市場で被雇用者であろうとするとき不利なことが多い。しかし,環境条件を変えることで就労は可能であり,かつ,一般労働市場での就労を希望する障害者も多く存在する。現在,障害当事者団体および地域就労支援活動や,意欲的な事業所,自治体などにおける新しい取り組みにおいては,障害者に対する社会的偏見の除去,住宅・社屋・道路・交通機関・情報などのアクセス可能化,345種にのぼる職業への障害者就業禁止法制度や最低賃金適用除外規定の撤廃によって,被雇用を望む障害者個々人の就労可能性を実現することが,障害者雇用の目標とされている。あわせて,就労後も権利を侵害されないためのシステムづくりが課題となっている。

〈経過と現状〉

 近代以降,主な就業形態が被雇用に移行したが,大部分の障害者は労働不能者として救貧対策・家族内扶養に封印されてきた。1997年(平成9)労働省統計では,63人以上規模の事業所で雇用されている障害者実数は18万7668人,国および地方公共団体では3万8090人,雇用率1.47%で,被雇用障害者実数は過去10年ほぼ同数である。一般労働者と身体障害者の比較では産別・性別で1〜4割の賃金格差がある。知的障害者は主に零細事業所が雇用している。

 身体障害者を対象に*障害者雇用促進法【しょうがいしゃこようそくしんほう】が制定された1960年代以降は,盲ろう養護学校など*分離教育の延長上に,障害者を分離集中した事業所設置も促進された。その例として99年7月現在,第3セクター方式の重度障害者雇用企業が37社、また特例子会社【とくれいこがいしゃ】(事業主が障害者雇用に特別な配慮をした子会社を設立するとき,一定の要件をもとに,子会社の労働者を親会社に雇用されているとみなして,親会社の法定雇用率を計算できる制度。従業員数千人以上規模の大企業が設立しているケースが多い。障害者雇用促進法第14条の2による)による小規模事業所が101カ所ある。また,雇用に至る訓練の場として,<授産施設>が1344カ所(実人員約5万5000人)存在するが,一般雇用への移行率は3%ときわめて低い。このほか<無認可作業所>は4500カ所(7万人)と推定される。雇用関係のある<福祉工場>(55カ所)を除く<授産施設>(平均月額工賃1万5600円)と〈無認可作業所〉は,<福祉的就労>と総称され,厚生省の管轄である。

〈国際的な動向〉

 世界の流れは分離から統合へ,恩恵・保護から差別禁止へ,障害者一括扱いから個々人のニーズに対するサービス提供へと確実に動いている。たとえば,施設のような模擬的職場での訓練ではなく統合的な雇用環境のもとで,人的な援助を受けながら被雇用者として働く<援助つき雇用supported employment>が欧米各国で採用されている。米国は,権利・差別・差別禁止を定義したうえで,障害者が雇用機会を得る障壁となる差別を撤廃することで,障害者の働く権利の実現をめざしている(アメリカ障害者法【あめりかしょうがいしゃほう】=ADA,1990年公布)。英国でも,労働権の平等を基本に障害者の仕事確保と賃金補てんのための政策を進めてきたが,近年はADAの理念を積極的に取り入れている(障害者差別禁止法=DDA,1995年公布)。  

(臼井久実子)

[教育・保育]

 障害児は長い間教育の対象とみなされてこなかった。近代に入りまず視覚障害者や聴覚障害者の教育が,続いて知的障害者の教育が始まったが,健常者と分離したかたちで特殊教育【とくしゅきょういく】として実践されてきた。現在の日本国憲法下の学校教育でも障害児の教育は特殊教育として位置づけられ別学体制になっている。

 第2次大戦後の新教育においては,知的障害,肢体不自由,病虚弱の*養護学校の義務化【ようごがっこうのぎむか】が延期されてきたが,親や教師たちの運動で1979年(昭和54)に義務化が実現した。それまでは就学猶予・免除というかたちで,とくに障害が重度の子どもは学校教育を受ける権利を奪われてきた。養護学校の義務化によりすべての子どもが学校教育を受けられるようになった。しかし,この制度の完成をもって別学体制が定着したともいえる。

 ちょうどこのころから北欧諸国やイタリアなどヨーロッパを中心として人権確立の運動がわき起こった。そしてこれらの国々においては障害児と健常児を分けないでいっしょの教育をするという*統合教育【とうごうきょういく】が制度化され実践が模索され始めた。日本では義務化の前後から,障害者自身や障害児の父母らより,別学体制の差別性が指摘され,限られた地域であったが共生共学の実践が試みられるようになった。また全国各地で地域の学校への就学を求める運動が高まりを見せ,それを認めようとしない行政への糾弾行動も行なわれた。

 81年の国際障害者年を機に,障害を障害者個人の属性ではなく、まわりの社会のあり方との関係としてとらえる考え方が主流になった。国連では障害者の権利確立のための決議が積み重ねられてきた。93年には国連で<障害者の機会均等化に関する標準規則【しょうがいしゃのきかいきんとうかにかんするひょうじゅんきそく】〉が採択され,統合教育があるべき姿として再確認された。94年日本でようやく批准された<*子どもの権利条約>においては,2条で人種,性,出生などによる差別の禁止とともに障害による差別の禁止が明記された。このことは重要な意味を持っている。

 またユネスコは<特別のニーズ教育に関する世界会議>を94年にスペインのサラマンカで開催し,<サラマンカ宣言〉を採択した。この宣言はこれからの障害児の教育を障害に注目する特殊教育ではなく,個々の子どものニーズに応じた教育(スペシャル・ニーズ・エデュケーション)へと転換すべきだと述べ,一部の子どもを排除するのではなく,すべての子どもが共に学ぶ教育(インクルーシブ・エデュケーション)の推進が決議された。ここでは一人ひとりの子どもの違いを認め合い人間の尊厳を重視する教育が志向されている。

 これらの一連の決議や宣言にみられる基本的な理念は,今後の教育のあり方として単に障害児教育のみを改革するのではなく,障害児教育を含む教育の枠組み全体を変革し新たな教育を創造する必要性を明確に述べている。

 日本では現在の*分離教育【ぶんりきょういく】を一日でも早く統合教育へと制度的に転換させたいとする運動が地道に繰り広げられているが,いまなおそれは実現していない。

(堀 智晴)

[交通・まちづくり]

 交通・まちづくりは,障害者の自立と社会参加の基礎的条件であり,障害者解放運動の中では,その初期から重要な人権課題として取り組まれてきた。1973年(昭和48)には障害者の生活圏拡大を目的に<車いす市民全国集会【くるまいすしみんぜんこくしゅうかい】〉がスタート。<そよ風のように街に出よう運動>等の障害者の外出運動も全国各地で展開され,在宅や施設といった社会の片隅に追いやられてきた障害者が,さまざまな障壁を乗り越え街に出始めた。だが,鉄道やバスの乗車拒否,レストランや映画館等での入店拒否が相次いだ。77年には,川崎市でのバスの乗車拒否に対する抗議行動が取り組まれ,大きな社会的反響をもたらした。また,<大原訴訟【おおはらそしょう】>など,国鉄のプラットホームから転落した視覚障害者による裁判も起こされた。

〈国際障害者年と交通・まちづくり〉

 81年の国際障害者年以降,*ノーマライゼーションの理念が日本でも広く紹介され,大きな影響を与えた。また,自立生活センターや作業所運動の広がり,電動車いすの普及は,障害者の外出の機会を広げた。88年以降,<誰もが使える交通機関を求める全国大行動>が毎年取り組まれている。1970年代に,町田市などで制定された<福祉のまちづくり要綱>は要綱や指針として各地に波及したが,法的な強制力はなく実効性に乏しかった。そのため,市役所や図書館等公共建築物の分野では改善が進んだが,交通機関やスーパー,レストラン等では目立った改善はみられなかった。

〈ADAと福祉のまちづくりの進展〉

 ADA(アメリカ障害者法,1990)は,雇用や公共サービス・公共建築物,情報通信等での障害者差別を禁じ,日本の障害当事者や関係者に衝撃を与えた。障害者運動の高まりとも相まって,福祉のまちづくりに関する政策は急速に展開することになる。一つ目は,大阪府・兵庫県(1992)から始まった<福祉のまちづくり条例【ふくしのまちづくりじょうれい】〉制定の動きである。以降各地の自治体で同様の条例が制定されている(1998年7月現在38都道府県)。

 二つ目は,<高齢者,身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律【こうれいしゃしんたいしょうがいしゃとうがえんかつにりようできるとくていけんちくぶつのけんちくのそくしんにかんするほうりつ】>(ハートビル法,1994)と,建設省の<生活福祉空間づくり大綱>である。三つ目は,運輸省の<鉄道駅におけるエレベーターの整備指針【てつどうえきにおけるえれべーたーのせいびししん】>(1993)である。これと並行して,リフト付きバスやノンステップバス(超低床バス)の運行も始まっている。

 さらに、2000年5月には〈高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律【こうれいしゃしんたいしょうがいしゃとうのこうきょうこうつうきかんをりようしたいどうのえんかつかのそくしんにかんするほうりつ】〉(交通バリアフリー法【こうつうばりあふりーほう】)が成立。新規の駅や車両には改善を義務づけ、既存物に対しても努力義務を課し、バリアフリー化を進めようとする法律である。

 これらの施策の展開の中で,社会の意識も障害者・高齢者を<特別な存在>とするのではなく,権利を持った市民として共に参加・利用できることを前提とした考え方へと変化してきている。*バリアフリー(障壁除去)や,ユニバーサルデザイン(だれもが利用できることを想定したデザイン)は,商品開発等にも取り入れられている。

 このように<福祉のまちづくり>にかかわる施策や市民の意識は近年目覚ましい進展がみられるが,*阪神・淡路大震災における約6000人の死亡者のうち,6割が障害者・高齢者で占められていたことに象徴されるように,障害者・高齢者が日常的に社会に参加し,安心して暮らせるための〈まちづくり〉は,まさに全市民的課題である。

(尾上浩二)

[自立生活]

 だれからも管理されたり,抑圧されたり,強制されることなく,障害者が自らの生き方を自分自身で定め,その結果派生する責任は自ら引き受けて生きる生き方。ならびにその生き方を障害者の普遍的な生活スタイルとしようとする運動を自立生活運動【じりつせいかつうんどう】という。

 わが国の障害者の自立の考え方は,障害を克服し,社会復帰を果たすという自立更生の考え方で貫かれており,主として障害者に関係するリハビリテーション専門家によって広められてきた。この考え方では,障害が重く,生活するうえで多くの介助を必要とする障害者は,自立することが困難であると決めつけられることになり,そうした障害者は家族の介助が困難になった時点で,地域での生活から切り離され,施設入所に追い込まれることになってしまう。これに対して,障害当事者,とくに障害が重く,生活の多くの場面で第三者の援助を必要とする人々から,専門家が作りあげた自立の概念を打ち破り,自分自身の生き方を自分で決め,独立した個人として生活していこうとする動きが高まってきた。

 わが国の自立生活の追求ならびに自立生活運動は,アメリカの自立生活運動に強い影響を受けてきた。アメリカでは1970年代初頭に重い障害をもつ人が,地域や大学で独立した生活を送ろうとしたところから運動が始まった。脱施設,脱医療を唱え,それまで保護や管理の対象とみなされていた障害者を,社会の中で正当な権利を行使して生きるべき存在として位置づけ,そうした生活が可能となるような社会的条件整備に向けた運動を,組織的,体系的に行なっていった。

 自立生活の追求にとって重要な役割を果たすものに自立生活センターがある。自立生活センターの活動もアメリカで起こったもので,自立生活を営もうとする障害者に対して必要なサービスを提供すると同時に,自立生活のための社会的な条件を作り出すことを目的に活動する団体である。日本では,アメリカの手法を取り入れる形で,86年(昭和61年)にヒューマンケア協会(東京・八王子)が第1号の自立生活センターとしての活動を開始した。自立生活センターの活動原則は,”堝団蠡真瑤両祿下圓防要なサービスを提供すること。運営の主体である組織(運営委員会など)の構成メンバーの51%以上が障害者であり,組織の代表ならびに実務責任者は障害者であること。自立生活をサポートする基本的な四つの事業,すなわちケア・アシスタント・サービス,自立生活プログラム,ピア・カウンセリング,権利擁護活動を行なうこととなっている。自立生活センターの全国組織である〈全国自立生活センター協議会【ぜんこくじりつせいかつせんたーきょうぎかい】〉は,91年(平成3)に結成され,自立生活センターを社会的に認知させ,制度的保障を求める運動を行なっている。

(三澤 了)

[障害者解放運動の流れ]

 日本の障害者運動が組織的に取り組まれたのは,第2次大戦の直後からである。最初の運動は,1947年(昭和22)の<国立療養所患者同盟【こくりつりょうようじょかんじゃどうめい】〉のものである。次いで日本聾唖連盟【にほんろうあれんめい】や日本盲人会連合【にほんもうじんかいれんごう】など,障害種別ごとの組織が次々と結成され,それらの団体の連合体として,51年に日本身体障害者団体連合会【しんたいしょうがいしゃだんたいれんごうかい】(日身連)が発足した。当初これらの運動を良心的に推進したのは,戦争で傷ついた傷痍軍人で,彼らは自らを<国のために傷ついた障害者>と位置づけ,他の障害者と異なる特別な処遇を求めた。また,彼らの運動は権利の主張に乏しい融和的傾向が強く,その結果49年に制定された<身体障害者福祉法【しんたいしょうがいしゃふくしほう】〉や,60年制定の<精神薄弱者福祉法【せいしんはくじゃくしゃふくしほう】〉など,いずれの法律も<更生と保護>を目的とする内容にとどまる結果となった。

 一方,1960年代を前後して障害者(児)を持つ父母や,障害児学校の教職員らによる運動も盛んとなり,52年には全日本精神薄弱児育成会(現・全日本知的障害者育成会【ぜんにほんちてきしょうがいしゃいくせいかい】)が,さらに67年には〈障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会【しょうがいしゃのせいかつとけんりをまもるぜんこくれんらくきょうぎかい】〉(障全協)などが結成された。これらの団体はいわゆる<親なき後>の観点から,安定した収容施設やコロニーの建設を政府に強く働きかけ,政府や各自治体の手によって人里離れた場所に大規模な施設が数多く建設されることになった。

 60年代末になると障害を持つ当事者の反差別・人権の確立をめざす運動が開始される。これらの運動は,部落解放運動やアメリカの公民権運動などの影響を受けて急速な広がりをみせる。なかでも,70年に横浜市で起きた母親の<障害児殺し>に対する<減刑嘆願運動>をめぐる,脳性まひ者の団体<青い芝の会【あおいしばのかい】〉による<殺される側からの告発>は,それまでの障害者観を根本から問い直すものとして,社会に大きな波紋を投げかけた。またそのころから盲,聾,養護学校への就学を拒否し,地域の小中学校への就学を希望する障害児とその父母の運動も強まり,文部省の打ち出した<*養護学校義務化>の方針と真っ向から対立することとなった。

 全国各地に広がった障害者自身による運動は,全国的統一組織をめざす動きへと発展し,76年の*全国障害者解放運動連絡会議【ぜんこくしょうがいしゃかいほううんどうれんらくかいぎ】(全障連)の結成をみる。さらに70年代中ごろからは,共同作業所や働く場,生活の場などが数多く作られ,またアメリカの自立生活運動の影響を受けた<自立生活センター〉の取り組みも広がり、現在に至っている。また,82年には障害者による世界組織である国際障害者年推進協議会【こくさいしょうがいしゃねんすいしんきょうぎかい】(現DPI日本会議)も組織され,国際連帯の輪が広がっている。

(楠 敏雄)

[知的障害者の人権]

 知的障害は,わが国では精神病,神経症などと並んで広義の精神障害の一部に入れられているが,狭義には,後の二つが広く精神機能の障害を示す状態であるのに対して,知的障害はそのうちの主として知的能力の発達遅滞を示す障害とされる。

 知的障害者は,大多数の人々が読み書きや計算をそれほど必要としなかった近代以前の農業社会ではそれほど目立つことはなかったと思われるが,近代以降においてこの人たちの人権に対する抑圧がよりいっそう強まった。

〈知的障害者観〉

 明治から大正期にかけて,内村鑑三をはじめ少数の先覚者が知的障害児に対する教育の必要性を説いたが,これらの先覚者たちの知的障害者観は〈人類中の廃棄物〉〈社会の妨害物〉(内村)〈社会の頚架〉(乙竹岩造)〈社会の美観を傷つけるもの〉(樋口長市)といった,きわめて非人間的なものであり,知的障害児の教育は社会防衛上,また治安政策,経済政策の一環として必要性が説かれたにすぎなかった。敗戦直後の1946年(昭和21),〈近江学園【おうみがくえん】〉を創設した糸賀一雄が初めて知的障害児の人間としての尊厳を説き,関係者に大きな影響を与えたが,社会意識の大勢を変えるまでには至らなかった。戦後も11年経った56年に発表された最初の『厚生白書』には,知的障害児について〈これらの児童はそのまま放置しておけば非社会的あるいは反社会的行動をとるようになりがちであり…〉と,あたかも犯罪者予備軍とみなすような記述があり,同様の記述が60年代初頭に至るまでみられた。こうした見方が一般社会の知的障害者への伝統的な偏見を固定化し強化したことは否めない。

〈教育〉

 明治5年(1872),〈学制〉によってわが国の近代学校教育制度はスタートしたが,1886年(明治19)に制定された〈小学校令〉で就学猶予【しゅうがくゆうよ】規定,90年の同令改正で就学免除の規定が設けられ,貧窮家庭の子どもと並んで障害児も〈疾病ソノ他巳ムヲ得サル事故ノ為〉というかたちで学校教育の場から排除された。さらに1900年,〈瘋癲白痴又ハ不具廃疾〉〈病弱又ハ発育不全〉が就学猶予・免除の理由として挙げられ,障害児の学校教育からの締め出しははっきりとしたかたちとなって現れた。

 1947年(昭和22)に制定された戦後学校教育法のもとで6歳から15歳までのすべての子どもの教育が義務教育(保護者の子どもを就学させる義務および市町村の学校設置義務)とされたが,障害児が通う*養護学校【ようごがっこう】の義務制はそれから遅れること,じつに32年後の79年になってようやく実施された。ただ,この養護学校義務制については,障害児をその障害の種類と程度によって選別し,文部省が定めた程度より障害の重い子どもはすべて盲・ろう・養護学校へ就学させるという,いわゆる別学【べつがく】体制であり,〈統合された環境での教育〉を原則とする世界の潮流に逆行するものとして批判されている。このため,文部省の強力な就学指導にもかかわらず,地域の普通学校での共育・共生を求める動きが全国各地で広がっている。

〈知的障害者の福祉法制〉

 知的障害者の福祉施策が法律で定められたのも遅く,〈精神薄弱者福祉法【せいしんはくじゃくしゃふくしほう】〉が制定されたのは〈身体障害者福祉法〉の制定から11年後の60年であった。また,〈身体障害者福祉法〉の目的が制定当時の〈更生・保護〉から幾度かの改正を経て,90年(平成2)の改正で〈自立と社会参加を促進する〉と,*ノーマライゼーションの方向に沿って大きく変えられたのに対して,〈精神薄弱者福祉法〉では依然として制定当時のままの〈更生・保護〉を法の目的に掲げており,こうしたところにも知的障害者を一人前の人間とは見ない障害者観が存続している。なお,同法は1998年に成立した精神薄弱の用語を知的障害と改める法律によって〈知的障害者福祉法【ちてきしょうがいしゃふくしほう】〉と改称された。

〈国際的な動き〉

 59年,デンマークで,施設で生活している知的障害者の生活条件を可能な限り同年配の他の市民と同等にする法律が制定され,その基本的理念としてのノーマライゼーションが,60年代から70年代にかけて欧米諸国に広がった。68年には世界各国の親の会や関係団体が集まって開かれた国際知的障害者援護団体連合会の会議で〈知的障害者人権宣言【ちてきしょうがいしゃじんけんせんげん】(エルサレム宣言【えるされむせんげん】)〉が採択された。このエルサレム宣言の精神は,71年に国連総会で採択された〈知的障害者の権利宣言【ちてきしょうがいしゃのけんりせんげん】〉に引き継がれ,さらに75年の〈障害者の権利宣言〉,93年の〈障害者の機会均等化に関する基準規則〉などへと発展していった。

〈国内における知的障害者の人権状況〉

 残念ながら日本国内においては,こうした国際的な宣言・規約の精神が社会に浸透しているとはとてもいえない状況である。95年の厚生省の調査によると,わが国には約41万3000人の知的障害者(児)がいるとされているが,そのうちの4分の1以上,18歳以上では3分の1以上が家庭や地域から切り離されて施設での生活を余儀なくされている。その施設において,また知的障害者が働く職場において近年,虐待をはじめとする人権侵害事件が頻発している。その典型が95年に明るみに出た水戸パッケージ事件(水戸市),96年のサン・グループ事件(滋賀県五個荘町)などで,いずれも経営者による知的障害従業員への虐待と賃金不払い,特定求職者雇用開発助成金不正受給,年金詐取などの事件である。養護学校や障害児(者)の通園・通所施設,さらには家庭や地域社会での虐待や人権侵害,差別事件も後を断たない。

〈知的障害者の人権擁護〉

 現在の法制度では施設や職場,学校をはじめ市民生活においても,知的障害者の権利を守るものがまったくといっていいほど整備されておらず,わずかに民法の禁治産・準禁治産制度があるのみである。しかも,この制度はもともと財産の保全や取引の安定のための制度であって,人権擁護を目的としたものではない。このため,*法務省*日本弁護士連合会などの関係諸団体の間で成年後見法について検討が進められ,その結果,2000年4月関連4法案が施行された。また,自治体レベルでは91年に東京都が〈知的障害者・痴呆性高齢者権利擁護センター・すてっぷ〉を開設したのをはじめ,現在,各地の自治体でも知的障害者や痴呆症高齢者の権利擁護機関を設立する動きが広がっている。一方,欧米諸国では70年代から知的障害者自身によるセルフ・アドボカシー(知的障害者自身による権利擁護)の運動が展開されており,そのスローガンであると同時にグループ名称ともなっている〈ピープル・ファースト(私たちは障害者であるより前にまず人間だ)〉運動は近年,日本でも盛んになりつつある。

(杉本 章)

[精神障害者の人権]

〈精神障害者とは〉

 精神病は,大まかにみて外因性精神疾患(外傷性てんかん,アルコール依存など),内因性精神疾患(精神分裂病,そううつ病など),心因性精神疾患(神経症,心因反応など)の三つに分けられる。精神障害者とはこうした精神疾患を起因として,さまざまな<生活のしづらさ>といった障害を有する者をいう。疾病と障害を併せもつことが精神障害者の特徴である。精神科に入院または通院している精神科患者数は1996年(平成8)現在で217万人と推定されており,精神病は日本人の約60人に1人がかかっている病気である。

〈精神障害者に関する法律〉

 精神障害者を無期限で強制的に監禁できる法律が<精神保健及び精神障害者福祉に関する法律【せいしんほけんおよびせいしんしょうがいしゃふくしにかんするほうりつ】>(以下,精神保健福祉法)である。同法では,精神科医は患者を強制的に入院させ,監禁できる権力をもっており,原理的に医師――患者間の対等な医療的関係は存在し得ない。強制医療は治癒への流れを逆行させるものであり,反医療そのものである。とりわけ措置入院は<自傷他害のおそれ>を根拠に精神障害者を予防拘禁する制度であり,今日の保安処分制度といえる。また地域においても通報制度による監視体制が敷かれており,精神障害者は強制入院におびえながら暮らしている。同法は50年(昭和25)に公布された精神衛生法を起源とし,戦前の私宅監置(座敷牢に精神障害者を監禁すること)の廃止を定め,かわって精神病院への強制入院の手続きを定めた。64年にライシャワー駐日アメリカ大使が精神病院に入院歴のある少年に刺されるという事件が起きたことから,同法はより治安的に強化され,緊急措置入院制度の新設,通報制度の拡大,地域での精神障害者管理の側面もある通院公費負担制度が導入された。

 入院患者が看護人によって殴り殺された宇都宮病院事件【うつのみやびょういんじけん】(1983)を契機に,86年同法は精神保健法に改定され,患者の人権擁護のためとして強制入院の定期審査や,処遇や強制入院への不服申立機関である精神医療審査会が新設された。しかしこの審査会は,通信および面会の自由の実質的保障がないこと,退院請求をしても行き場がないことなどから実効性が乏しい。現実にこの法改定後も大和川病院【やまとがわびょういんじけん】(大阪府の私立精神病院),山本病院(高知県の私立精神病院)などで患者の暴行死,虐待などの人権侵害が明るみに出た。一方,この改定において患者の同意に基づくという任意入院(ただし、退院を申し出ても退院制限が可能)の新設による,他科への入院と同じ形態である自由入院の制限,措置入院の解除の厳格化など治安的強化もみられる。実際に87年の精神保健法施行以降、顕著に新規措置入院が増加した。

 93年に改正された障害者基本法において精神障害者がその対象となったことから,精神障害者にも福祉法が必要となり,95年に精神保健法に<福祉>が加えられ精神保健福祉法となった。<福祉>の主な内容は精神障害者手帳の創設,社会復帰施設(援護寮,福祉ホーム,授産施設,福祉工場)の法定化などである。この一連の法改定のなかで社会復帰施設が各地で作られるようになったが,その多くは私立精神病院の運営するものであり,精神科病床削減政策による私立精神病院の減収を補うものともいえよう。

〈差別と人権侵害〉

 97年6月現在,精神病院への入院患者数は約34万人であり,そのうち約30%が10年以上の長期入院となっている。また24時間鍵のかかった病床は全病床の53%にも上っている(1997年6月30日現在)。このように日本における長期入院率と閉鎖率は,国際的に例をみない高さである。こうした実態を生み出した背景には,法としては精神保健福祉法,政策的には1960年代の精神病院増床政策と,それを支えいまなお残っている精神科特例(医療法上他の科に比べ医師は3分の1,看護人は3分の2でも,さらにはそれ以下でも精神病院を病院と認めるもの)による職員不足がある。

 他にも法的差別がある。国家資格の取得に関して精神障害を絶対的欠格事由としているものは9(運転免許,通訳案内業など),また相対的欠格事由としているものは24(医師,調理師など)ある。労働安全規則68条,労働安全衛生規則61条は<自傷他害のおそれのある精神障害者>の就労を禁止しており,これを根拠に解雇される精神障害者は多い。最低賃金法では,精神障害者はその適用を除外されている。民法770条1項4号では離婚理由の一つとして<配偶者が強度の精神病にかかり,回復の見込がないとき>が挙げられている。こうした法的差別に加えて社会的差別が存在する。地域における作業所の立地等への反対運動,アパートからの追い出し,解雇,退学,離婚などさまざまなかたちで精神障害者が地域で生きることを妨害する差別が存在する。また違法行為を行なった精神障害者に対する特別な施策や施設を要求する保安処分策動は近年再浮上している。

〈福祉施策〉

 精神障害者への福祉施策は強制入院法である精神保健福祉法に組み込まれているため,精神障害者に対する管理監視の側面を免れ得ない。精神障害者への福祉の充実には,まず広範な人権侵害状況を解消するため,精神障害者復権法とでもいうべき特別時限立法により,精神病院への収容と医療中心の施策から,地域で精神障害者が生きるための施策に転換する財政的政策的援助,および当事者も含めた精神障害者へのサービスを監視する第三者機関の設立が必須である。そのうえで,全障害者を対象とした総合的障害者福祉法の制定が求められている。精神障害者に関する福祉施策,とくに,退院後の受け皿であり,社会参加を達成する基盤となる社会資源は絶対数も少なく,当事者の望みに沿ったものは少ない。

 精神保健福祉法により導入された手帳制度は、メリットが少ないため取得者が少ない。今後メリットが増え取得者が増えれば,通院公費負担制度同様,地域での精神障害者管理強化に使われる側面もある。無年金者の解消,障害年金の増額,生活保護の障害加算の増額,長期入院患者に対する国の責任を認めた賠償金制度といった所得保障,公営住宅への優先入居と単身精神障害者が公営住宅に入居できないという差別条項の撤廃,民間住宅の借り上げ,地域でのグループホームの建設といった住宅保障,当人の指名した介護人の介護料の保障,地域で精神障害者が交流できる場の保障などが求められている。

〈当事者運動〉

 差別と反医療的精神医療に対して,70年代より当事者による闘いが始められた。当事者の決起による悪徳病院の告発,病院内における自治会の結成,地域患者会の結成,そして全国組織としては70年に<友の会>が,74年に<全国「精神病」者集団【ぜんこくせいしんびょうしゃしゅうだん】〉が結成され,89年にクリスチャンを中心とした<心の泉会>, 93年には<全国精神障害者団体連合会【ぜんこくせいしんしょうがいしゃだんたいれんごうかい】>,また同時期に世界の精神障害者との連携を求めて<世界精神科ユーザー・サバイバー・ネットワーク・ジャパン>も結成された。しかしいまだ地域に根ざした当事者主導の地域患者会の数は少ない。地域で精神障害者が生きていくためには仲間同士の支え合いを中心とした地域患者会は必須であり,また精神病院や施設その他精神障害者へのサービスを監視するためにも,当事者主導の地域患者会は今後より活性化されねばならない。

(長野英子)

[部落の障害者]

 被差別部落は部落外に比して障害者が多く,重度障害者の占める割合が高い傾向にある。これは部落差別に起因するかつての劣悪な生活環境と生活実態が影響しているものと考えられる。かつて部落には,劣悪な衛生環境のなかでトラコーマ【がまん延した時期があった。生活改善と保健衛生対策が進むなかで,トラコーマ自体はほとんどみられなくなったが,高齢者の中にはその後遺症としての視覚障害が多くみられる。また,不安定就労や厳しい労働条件のなかでの労働災害や職業病,貧困と生活苦のなかでさまざまな疾病とその後遺症,母体の健康破壊による異常分娩や障害児の出産等々,部落差別との関係がみられる。

〈部落の障害者の自立と機会の平等〉

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 部落の障害者の自立と機会の平等を考える際,その社会的背景としての部落問題と関連づけて考える必要がある。とくに成人後,障害者になったケースでは部落差別の影響が大きい。

 現在,国の障害者対策推進本部が定めた<障害者プラン>(1996〜2002年度までの7カ年計画)に基づいて,自立支援のための施策整備が行なわれている。障害者の自立支援のためには社会全体の*バリアフリー化を進めていくと同時に,個々のケースに合わせたゞ軌虔歉磧き⊇∀保障,生活支援のための福祉サービスの提供等の自立支援プログラムが提供されなければならない。

 <障害者プラン>では,こうした自立支援のための拠点施設としての<地域生活支援センター【ちいきせいかつしえんせんたー】〉をおおむね人口30万人あたり2カ所ずつ整備することになっているが,整備は遅れている。障害者にとってアクセスしやすい距離・生活圏に身近な相談機関としての〈地域生活支援センター〉の整備を急ぐ必要がある。

 これまで,部落住民の身近な相談機関ならびに生活支援のための拠点施設として,*隣保館が整備されてきた。隣保館には地域福祉事業や継続的相談援助事業など,より身近な相談機関としての機能があるが,部落の障害者にとって<身近な隣保館>になっているとは必ずしもいえない状況にある。今後,部落の障害者にとって,何でも気軽に相談できる<よろず相談>機能を発揮するとともに,必要に応じて専門機関につないでいくなど,<地域福祉の拠点>としての機能拡充が求められている。

〈住環境とまちづくり〉

 1969年(昭和44)以降,同和対策事業が精力的に実施された結果,環境改善については一定の成果を収め,部落の物理的環境は一変した。しかし,障害者にとって生活しやすい環境になったかというと,必ずしもそうとはいえない。高齢化が進行していくなかで,高齢障害者の急増が予想されるだけに,よりいっそう,バリアフリーのまちづくりを進めていく必要がある。とくに部落では環境改善事業の結果,公営賃貸住宅の占める割合が27.1%(1993年総務庁<同和地区実態把握等調査>)と高く,バリアフリー住宅やエイジレス住宅の整備が望まれる。

 隣保館の設置数は968館(1998年度全国隣保館連絡協議会加盟館)となっている。点字ブロックや障害者用トイレ,エレベーターの設置など,徐々にバリアフリー化が進んできたが,十分とはいえない。障害者がアクセスしやすいようにいっそうバリアフリー化を進める必要がある。

〈部落の障害者運動〉

 部落の障害者運動は,1970年代以降<障害児を地元校区の学校に>をスローガンに,教育権保障の取り組みとして発展した。当事者運動としては,大阪の部落単位に組織された<障害者要求組合>の連絡組織として,81年2月<部落解放障害者(児)組合大阪府連絡協議会【ぶらくかいほうしょうがいしゃくみあいおおさかふれんらくきょうぎかい】>が結成された。また,これを契機に,同年9月,部落解放同盟中央本部の主催で<部落解放全国障害者交流集会【ぶらくかいほうぜんこくしょうがいしゃこうりゅうしゅうかい】>が開催された。同交流集会は以降,毎年1回開かれている。

(東野正尚)

参考文献

  • 全国障害者解放運動連絡会関西ブロック編『知っていますか?障害者問題一問一答』2版(解放出版社、1998)
  • 中野善達『国連と障害者問題』1・2巻(筑波大学教育研究科カウンセリング専攻リハビリテーションコース、1995・97)
  • 楠敏雄編『わかりやすい・障害者基本法』(解放出版社,1995)
  • 八代英太・冨安芳和編『ADAの衝撃』(学苑社,1991)
  • 丸山一郎『障害者施策の発展』(中央法規出版,1998)
  • 『アメリカ障害者法全訳』(斎藤明子訳,現代書館,1991)
  • 全国社会福祉協議会・全国社会就労センター協議会『日本の社会就労センター』(1997)
  • 総理府編『障害者白書』(大蔵省印刷局,1994年から毎年刊行)
  • 北村小夜『一緒がいいならなぜ分けた』(現代書館,1987)
  • 堀正嗣『障害児教育のパラダイム転換』(明石書店,1997)
  • ユネスコ監修『ユネスコがめざす教育』全3巻(落合俊郎他訳、田研出版,1997)
  • 光野有次『バリアフリーをつくる』(岩波新書,1998)
  • E&Cプロジェクト編『バリアフリーの商品開発』(日本経済新聞社,1994)
  • 日本住宅会議『住宅白書〈1996年版〉阪神・淡路大震災とすまい』(ドメス出版,1996)
  • 安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也『生の技法』(藤原書店、1995)
  • アドルフD.ラツカ『スウェーデンにおける自立生活とパーソナル・アシスタンス』(河東田博・古関-ダール瑞穂訳、現代書館、1997)
  • 江草安彦・小出進編『教育と福祉』(『講座・発達障害』7巻,日本文化科学社,1989)
  • 堀正嗣・曽和信一編『人権問題キーワード』(明石書店,1993)
  • 中井久夫『精神科治療の覚書』(日本評論社,1982)
  • 長野英子 文、一の門ヨーコ イラスト『精神医療』(現代書館,1990)
  • ジュディ・チェンバレン『精神病者自らの手で』(中田智恵海監訳、解放出版社,1996)
  • メリー・オーヘイガン『精神医療ユーザーのめざすもの』(同前、1999)

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Last-modified: 2012-02-22 (水) 12:20:01 (1005d)