福島県【ふくしまけん】

[現状]

 部落数は1935年(昭和10)の*中央融和事業協会の調査によると8部落998人となっている。うち2部落は戸数1戸のため,全国実態調査に伴って実施された67年精密調査では除かれ,9市町10部落となっている。現在確認できるのは15市町17部落である。同対審答申に記載された〈東北2部落〉は会津坂【ばん】下【げ】町・会津若松市の部落であり,行政は62年全国実態調査に応じている。63年に会津坂下町で国庫補助を導入,初めて同和対策として排水溝事業を実施した。ところが70年,町当局は部落に相談せず同和事業を導入して、*と畜場建設を実施。発覚して地元で反対されたため,以後は同和事業を実施していない。部落解放同盟のオルグが契機となって,72年に会津若松市で部落の集会所として児童館が建設された。県当局は現在〈部落も差別もない〉と主張し,同和事業に取り組んでいないため,課題が確認されても一般施策の予算措置しかできず,改善は遅々として進んでいない。

 部落は周辺地域とは別扱いされ,国土調査や区画整理事業から除外された。道路は部落を迂回し,排水溝は狭く設定され,護岸も未整備のまま放置されている。職業は皮革関連・精肉関連・飲食業などが特徴的である。不安定就業者層もあるが,公務員・議員も存在するといった多様性を示し、経済階層は分化している。部落出身を理由に離縁されるなど,差別の状況は厳しい。83年福島市で部落解放同盟県連(準)を結成したが,同盟員が少なく組織としての活動はできていない。

[前近代]

 『新編会津風土記巻二十四』は陸奥国若松の蚕【 こ】養【かい】宮【のみや】村付町分として穢多町とイタカ町を載せ,簗【やな】田【だ】家文書で蘆【あし】名【 な】盛氏時代にその存在を確認している。したがって,成立は天正18年(1590)以前にさかのぼる。穢多支配頭の下に統率され,*旦那場、斃牛馬取得権、*勧進場権をもち,竹細工などを生業とした。役目は牢番・仕置き・見回りなどで,十手や脇差を所持して行なった。*弾左衛門の回状が棚倉町の穢多頭に届けられていることから、近世後期には県南の棚倉町は弾左衛門支配下にあったことがわかる。ルルド鋳造のマリア像・メダイ・キリシタン塚など,隠れキリシタンとの関連が注目される。

参考文献

  • 野本武一『全国同和地区実態調査抽出地区精密調査報告――農山漁村型』(1967)
  • 大内寛隆「近世における被差別部落の実態――三春藩とその周辺」(東日本部落解放研究所編『東日本の近世部落の具体像』明石書店,1992)
  • 長島正夫「腰浜賤民住居跡のキリシタン・メダイについて」(福島県史学会編『福島史学研究』復刊6号,1968)
  • 和田献一「区画整理からも除外され――福島県会津若松市」(『部落解放』382号,1994)
(和田献一)

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Last-modified: 2012-02-22 (水) 12:20:55 (1005d)