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昭和初期から、水平運動・農民運動に携わった岡本精郎(1898〜1938)の生涯が報告された。岡本は1898年、高知県秋山村に地主の子どもとして生まれる。県立第一中学校卒業後、画家を志し寺田季一、岸田劉生に師事を仰ぐものの、健康上の理由により2年足らずで東京から帰高する。
そして、聖書、トルストイ、カント、ロマン・ロラン、西田幾太郎、倉田百三、武者小路実篤、西田天香、二宮尊徳らの影響を受け、宗教的実践生活を営むことになる。この時期を、実弟である和郎氏は「精神的彷徨の時代」と呼んでいる。
岡本と部落問題との関わりは、1926年頃、水平運動家との出会いに始まる。1932年4月には高知県差別撤廃期成同盟を結成し、その委員長に就任、また1934年4月、京都で開催された全国水平社第12回大会では代議員として参加するなど積極的に運動を展開した。岡本自身の部落認識は、雑誌『生命』(唯神社叢書第一篇 1927)に、部落問題との出会いを含め、その一端が示されている。
そこでは「(略)私は貴方方が、水平運動を起こされたことを感謝する。私はこの運動のお陰で、永い虚偽と罪悪の眠りから目が醒めた」と記されている。その他、岡本の部落認識を知る資料としては、「融和問題概論」(岡本のメモ書き)、高知新聞社宛の原稿(掲載の有無は不明)がある。「融和問題概論」については、『特殊部落一千年史』に触発されたと推測される。
岡本は水平運動と平行し、農民運動へも深く関与している。1932年7月には、全国農民組合高知県連合会(全農県連)結成大会において委員長に選出されている。1935年当時、全農県連は16支部(計1107名)から組織されており、そのうち4支部が被差別部落を含んでいた。
全農県連の部落問題認識は、例えば、全農県連の第2回大会(1934.3.1 高岡町)で「因襲的差別絶対反対の件」が可決された理由から見えてくる。全農県連が作成した『第2回大会議案並報告』では、その理由を「同じ貧農として同じプロレタリアートとして同じ同志として吾々はこの解放運動を積極的に斗はねばならぬ」としている。なお、全農第13回全国大会(1934.3.11〜13 東京)では、岡本が高知県連とし「因襲的差別反対の件」を提案し、原案通り可決された。
また、岡本には水平運動、農民運動を展開しながらも、同時に政治家としての側面があった。簡単に議員になるまでの経緯をみると、1929年(県会議員補欠選挙)、1931年(県会議員選挙)、1935年(県会議員選挙)の計3回、選挙に立候補するが、いずれも落選した。
だが1936年、繰り上げ当選(1935年の選挙では次点)により、岡本は議員職に就くことになる。しかしながら、その2年後(1938)、若干39歳の若さで岡本はこの世を去った。
県内でもあまり知られていない運動家であるが、人道主義を貫き、芸術、部落問題、農民運動、政治と多岐にわたる活動をした岡本について、今後、農民運動で部落問題がどのように議論されてきたか等、さらに詳しく調査する必要あると考える。