報告は、近世の関東において長吏の身分的特権としてみとめられていた草履・・砥石などの商品の生産・販売の実態、とくに商いについて考察したものである。この権利は斃牛馬取得権や勧進権のような長吏身分に固有の権利でもなければ、必ずしも旦那場に帰属する権利でもなかった。
なお、史料に出てくる「長吏」は役人としての長吏と身分としての長吏の二つの場合がみられる。
関東の在方長吏は、弾左衛門の配下に旦那場を単位に小頭がそれぞれを支配していた。旦那場は勧進権・番人役といった「役」と斃牛馬取得といった「権利」の二重構造になっているが、その内部構造は弾左衛門が上から編成したものでないだけに多様である。
在方長吏の市商いは次のようなものであった。その商いは一般の市で行い、その商い権の認可権は町人や役人にあり、従来から在地で承認されてきたものもあった。市商いの権利は勧進権・番人役に見合うものであったと思われるが、しかし商い権が旦那場と関連づけられていない場合があり、そのため足利町の砥商いのように町人や砥売人との権利争いが生じてきた例もある。
十八世紀はじめまでの市商いでは商い権は不安定で、旦那場基盤でなかったと推察される場合もあったが、享保期に弾左衛門支配が確立すると身分・支配組織としての旦那場が基盤となる。
しかし天保期の足利市の草履商い一件のように、近隣の他組長吏が競争者として足利場に出入して草履商いを行っていることや、組下が小頭を介さずにそれぞれが勝手に地代を払って商いを行っていることからもわかるように、小頭が統率する旦那場制度が変容するに至る。これは当時の村落共同体の崩壊や身分制度の動揺の反映と見ることができよう。
最後に今後の課題として、部落で生産された草履がどういう流通経路を経て市に出されたのか、特権品とは何か、なぜ草履や砥石が特権品であったのか、地方に立つ市の実態、その商い権や構造、市商いなどから見えてくる在地の長吏の位置付けなどがある。