1867年に発生した「浦上四番崩れ」は、1870年に浦上村のキリシタン約3400人を全国20藩に流刑するという、明治新政府による大規模な弾圧であった。当時の行政文書を取り上げた『長崎部落解放研究』に掲載された先行研究では、被差別部落を中心に預けるということがいわれている。しかし、太政官は流配先を決めるだけで精一杯であり、被差別部落に特定して預けることはなかったであろう。ただし、20藩の中で、鳥取藩の椿谷の牢獄、土佐藩の赤岡の牢は、いずれも「非人」の管理下にあった。
浦川和三郎(ローマ・カトリック仙台司教、1876〜1955年)による『切支丹の復活』(1927年)、また『浦上切支丹史』(1943年)のいずれにも、1867年の「浦上四番崩れ」について描写がある。そこでは、「部下の手附(部落民)」、「大勢の捕吏(部落民)、」「祭服のごときは無知の部落民等が雨具として」等の差別的な表現がある。浦川は、『切支丹の復活』は、パリ外国宣教会のフランス人司祭F・マルナス(のちにフランス・クレルモン・フェラン司教、1859〜1932年)による『日本キリスト教復活史』(パリ、1896年)に、聞いていたことを加えて多少の肉付けをしたもの、としている。
浦川自身は、両親が鹿児島に流配されており、また、生まれ育ったのは、浦上村の中の坂本町である。この坂本町は、浦上村の南端にあり、被差別部落と接している。『切支丹の復活』には「坂本の青年等は岩河山に隠れて遠見をしていると、案に違わず幾百名とも知れぬ部落民が眼下の田圃路を」という、「坂本」が出てくる部分もある。被差別部落と接近する地域で育ち、両親をはじめとした流配の経験者から聞いていたことにより、「浦上四番崩れ」の記述が、マルナスの『日本キリスト教復活史』とは異なり、ドキュメント風の差別的な表現になったのであろう。