調査研究

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2005.12.26
部会・研究会活動 <歴史部会>
 
歴史部会・宗教部会 合同学習会報告
2006年10月14日
水平社の支援者・三浦参玄洞
−真宗信仰を中心に−

浅尾篤哉(ひょうご部落解放・人権研究所研究員)

浅尾さんは今年の6月に『三浦参玄洞論説集』を編まれた。本報告は、それを基礎資料として、三浦の著作にかいま見られる、水平運動に対する思いを紹介したものである。その中から印象的なものをまとめてみたい。まず西光万吉との関係である。

水平社発足の1・2年前の西光はただ死を望んでいたという。その西光に対し、「僕は知らぬ、知らぬが信ずる、出生は決して偶然の所産ではなく或大きな意識によつて自ら選んだ結果であることを」と語り、命の尊厳を諭している。

また水平社の創立趣意書が配布されて以降も肉親からの反対を受けていた西光に「親鸞の弟子たる宗教家?によつて誤られた運命の凝視、あるひは諦観は吾々親鸞の同行によつて正されねばならない」と語り、水平運動の精神に理解を示した。

このようなやりとりからも、三浦が西光に思想的影響を与えたことは否定できない。次に水平社創設前後の真宗に対してだが、いわゆる「真俗二諦」の教義を真宗信仰の変質と捉え、変質した教団を鋭く批判をしている。そして「苟も末は御浄土で同一味の証りを開く事を信楽する位の道連れが不合理な差別観念によつて同朋を虐げて居るといふやうなむごたらしい事を平気で見逃しておくのは、第一あなた方の信仰そのものをも正さねばならぬ事柄だと思ひます」と述べ、信仰に生きる者であるが故に現実の差別に向かい合わねばならないと主張している。

さらに水平運動にも期待をかけ、頻発する糾弾運動への批判を、「水平社の運動は最初から目的を定めて立つたものでもなければ結果を予想して始めたものでもない、否そんな余裕やゆとりがない程に切迫した内外の事実に激発されて生起した生命の団体であることを知らねばならなぬ」として一蹴した。

このように、不合理な現実の差別構造に対して「人間礼賛」を唱えた三浦だったが、日中戦争が始まると、その発言は国家の政策と一体化していく。記者として自由に記述ができなかった苦悩があったのではなかろうか。


『僧侶の水平運動』黒衣同盟と三浦参玄洞

松根鷹(宗教部会幹事)

近年、三浦参玄洞が注目されており、「水平運動の協力者」という側面が強調されている。しかし、具体的な実践としての黒衣同盟についてはあまり語られることはない。

黒衣同盟とは「僧侶の水平運動」とも評され、1922年10月に奈良県の明西寺住職、広岡智教により提唱された。先行研究により、おおよその活動内容は紹介されているのだが、肝心の宣言文さえ今日確認されておらず、詳細については不明な点が多い。

そして1925年、「水平本願寺」設立以降の動向は不明である。松根さんは、黒衣同盟の研究が進まなかった理由として、<1>体制内での不徹底な運動という評価、すなわち水平運動を絶対視する見解から、融和運動を切り捨ててしまう傾向が主流であったこと、<2>直接的資料の不足、活動期間が短く、新聞などの断片的な報道に頼らなければいけないこと、<3>黒衣同盟員の宗教者としての主体性への無関心、をあげている。そしてそれを補うためにもフィールドワークの必要性と、聞き取りの再検証の必要性を主張している。

松根さんが黒衣同盟の研究を始めたのは30年程前のことで、実際に僅かな記事を手がかりに遺族の消息を探し求めたという。おおむね遺族、関係者との連絡はついたが、取材は全体として難行をきわめたそうである。「話す事は何もない」などと取材拒否される場合もあったそうである。

しかし限られた資料からも主唱者広岡の人間観をかいま見ることができる。例えば広岡が設立したとされる「護信会」は、実際には「獲信会」が正しく、「正信偈」にちなんだ名称に込められた信仰に対する熱い思い、武士の子でありながら部落寺院の住職としての自覚を持ち続けた姿勢などから、黒衣同盟へと続く彼の一貫した思想を確認することができる。

 以上、2報告の概要を述べてきた。浅尾さんは膨大な資料をもとに、松根さんは多年に及ぶ入念な聞き取りをもとに、説得力のある報告であったと思う。

(文責:藤原 豊)