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2012.05.18
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第42回部落解放・人権夏期講座 課題別講演2-③

近代日本社会の部落問題

朝治 武(大阪人権博物館)

1 韓国歴史ドラマの魅力
  今、私は韓国歴史ドラマにはまっています。私が初めて観た作品は多くのみなさんと同じように曰本名が「宮廷女官チャングムの誓い」、韓国での原題は「大長今(テジャングム)」です。全56話にわたる「大長今」の舞台は15世紀末から16世紀初頭の李氏朝鮮で知られる朝鮮王朝であり、主人公の女性は幾多の苦難を乗り越えながら宮廷の料理人を経て第11代王である中宗(チュンジョン)の主治医となりました。1990年から現在まで韓国歴史ドラマは約110作品が制作されていますが、私が観たのは「大長今」をはじめ日本でも人気を博した「朱蒙室(チュモン)」や「大王四神記(テワンサシンギ)」「善徳女王(ソンドクヨワン)」「ホジュン(許俊)」「不滅の李舜臣(プルミョレ イスンシン)」「大王世宗(テワンセジョン)」「推奴(チュノ)」など約40作品に過ぎません。
  韓国歴史ドラマは高句麗(コグンヨ)や新羅(シルラ)、百済(ペクチェ)などの古代の国家から統一国家としての高麗と朝鮮王朝までを描き、歴史的事実を素材としながらフィクションとして構成されたエンターテインメント性が強いものです。
  全150話の「女人天下(ヨインチョナ)」のような100話を超える作品でさえハラハラ・ドキドキ・ワクワクの連続である奇抜なストーリー展開をはじめ、善玉と悪玉という境界を越えた人物設定、主役級だけでなく脇役級・端役級きえもが魅力的な個性的俳優の演技、絢爛(ケンラン)豪華な衣装やセット、迫力ある戦闘シーンや奇麗な映像などの作品が多いのが特徴です。
  しかし最大の魅力は内容にあり、「大長今」を例にとると人間の命や生活に不可欠な料理や医術の重要性のみならず、朝鮮王朝内の熾烈(シレツ)な権力闘争と派閥抗争、特権商人と結びついた賄賂政治、宗主国としての中国の大国的対応、済州島(チェジュド)への倭冠の襲来など日本との関係、厳しい身分制の桎梏(シッコク)、儒教社会のもとでの女性の社会進出、複雑な背景を持つ出生の秘密、身分の違いを越えた禁断の愛、多様な被差別民衆の登場などです。これらの内容的な魅力は、そのほとんどが前近代社会を貫いていた身分制や身分と直接的にも間接的にも密接に関係しています。
  洋の東西を問わず前近代社会は基本的に身分制社会であり、朝鮮においても例外ではありませんでした。高句麗から朝鮮王朝に至るまでは王を中心とした専制君主制といえる国家形態でしたが、その専制君主制を支えていたのが身分制でした。また身分制は経済や社会のみならず、人の存在様式なども規定していました。とくに朝鮮王朝における身分制は厳格であり、人は生まれを基本とする身分によって社会的地位や居住地、職業、婚姻、衣服などが決定づけられていました。
  韓国歴史ドラマを観ていて強く感じぎせられることは、人が生きるうえで身分制と身分がいかに重荷となっていたかということ、つまり身分制と身分の桎梏ではないかと思われます。まず身分制と身分は、支配原理に基づいて人に優劣や価値の階層的序列をつける差別の体系でした。また人の身分は生まれという血縁の連続性によって決定づけられていたため、上に位置づけられていた者であっても身分制を越えて社会的地位や職業、居住地、恋愛、婚姻などを自由に選びとることは基本的に許きれず、とりわけ下に位置づけられた身分の者ほど過酷な身分差別によって苦痛を強いられることが多かったということです。
  身分制と身分が人にいかなる影響を与えたかを知るうえで必見の作品は、賤民(チョンミン)身分である白丁(ペクチョン)を主人公とした全36話の「済衆院(チェジュンウォン)」です。済衆院は1885年に朝鮮王朝によって初めて設立された西洋医療機関であり、白丁の主人公は朝鮮人初の西洋外科医師になりました。白丁による食肉のための牛の解体や厳しい差別の場面などが描かれ、朝鮮王朝における身分差別の深刻ざを知ることができます。関心ある方は、レンタルショップで借りて是非とも観ていただきたいと思います。

2 前近代身分制の中の賤民制
冒頭から韓国歴史ドラマの話になりましたが、これは部落差別を考えるうえで参考になると考えたからです。いわば韓国歴史ドラマに描かれた身分制と身分を鏡として、日本の身分制と身分、そして部落差別との関係を考えてみようという試みです。ある物事を知ろうとすれば、類似した物事と比較するという方法が重要ではないかと思います。
朝鮮王朝において身分制は基本的に、王や王族を頂点として両班(ヤンバン)、中人(チュンイン)、常民(ソンミン)、賤民の諸身分によって構成されていました。両班は科挙という試験を受けることによって官僚となり、国から土地を支給されて経済的にも豊かな生活を営む支配身分でした。中人は両班のもと役所で行政事務を担い、また通訳や医術などの技術で国家に奉仕する身分でした。常民は農業や商業、手工業など生産活動に従事する身分でした。賤民は奴隷としての奴婢、僧侶、祈祷(キトウ)師、芸人、葬送に携わる人、日本では芸妓にあたる妓生(キセン)、そして牛の解体や皮革業などに携わる白丁などによって構成きれた被差別身分でした。
日本で最も身分制が厳格であったのが、徳川幕藩体制や江戸時代と呼ばれる近世という時代です。かつて近世の身分を表すのに、「士農工商穢多非人」と呼ばれました。これ自身は誤りではありませんが、厳密には士の武士身分、農の百姓身分、工と商の町人身分、「穢多」と非人などを含めた賤民身分と呼ぶほうが適当かと思います。これらは基本的身分といえるもので、他にも貴族や僧侶、医師などさまざまな諸身分もいました。
身分制と身分ということでは日本の近世と朝鮮王朝は似ていますが、とくに被差別身分である「穢多」と白丁の関係は興味深いものです。日本の近世では肉食が禁止されていたため「穢多」は牛の解体こそおこなっていませんが、白丁とは皮革業という職業や同一身分間での婚姻、制限された居住地、最も厳しい卑賤視や身分差別などという意味では共通していました。
「穢多」は、文字どおり穢れが多いという意味です。ここには、古代から死などに関係することが穢れだとする穢れ意識が深く関係しています。つまり「穢多」は死んだ牛馬の処理を生業の一つとしていたので、穢れ意識から「穢多」と呼ばれたのでしょう。あくまでも「穢多」は権力から押しつけられた身分名でしたので、「穢多」とされた人びとは自らを「穢多」と呼ばずに西日本ではかわたと呼んでいました。かわたは漢字で皮多あるいは皮田と書き、皮革の仕事に携わっているという自負心が込められていたのです。「穢多」は極めて差別的な賤民身分としての呼称なので、これからは基本的に自らが名乗ったかわたを使うことにしましょう。
かわたは賤民身分の「穢多」として厳しい身分差別を受け、刑の執行や皮革の上納など権力から役目を果たすという意味の役を負担していました。また皮革の生産や雪駄(セッタ)の製造だけでなく農業もおこなうなど、さまざまな生産活動に従事していました。かわたに対する身分差別を見ていくことも大事ですが、かわたが身分制社会の中で担っていた生産活動や社会的役割に目を向けることも重要といえます。

3 賤民制廃止による平民身分化
近世における部落差別の状況を大きく変えたのは、いわゆる「解放令」です。これは旧暦の明治4年8月28日に出された法令であり、「穢多非人等ノ称被廃候条、自今身分職業共平民同様タルヘキ事」という極めて短いものでした。ここから分かることは、「穢多非人等」すなわち賤民身分とされた者の呼称を廃止すること、身分と職業を平民と同じにすること、この2点です。つまり「穢多非人等」は賤民身分ではなくなり、平民という身分に編入されたということです。
この「解放令」は「穢多非人等」という賤称を廃止したものであるから、賤称廃止令というべきだという主張があります。これは一定の妥当性をもつものといえますが、私は賤称を含む賤民制を廃止したものであると考えていますので、厳密には賤民制廃止令と呼ぶべきだと考えています。ましてや解放という文字はまったく使われず、実質的にも「穢多非人等」を解放するという手放しの肯定的評価を下すことはできないので、「解放令」とは呼べないものでした。
問題となるのは、「穢多非人等」の平民身分への編入です。平民とは明治維新以後に設定された華族や士族と同じく近代的身分ともいうべきものであり、実態的には前近代における農工商などの百姓身分と町人身分だったのです。つまり近代曰本は、人を天皇を頂点に華族、士族、平民という階層的身分秩序に編成替えしたのです。一般的に「四民平等」などとも呼ばれますが、人は前近代的身分による区分から近代的身分による区分を受けることになったのです。したがって私は、生まれの連続性を基本とする身分は近代日本社会の編成においても重要なキーワードの1つであると考えています。
賤民制廃止令をもたらしたものとして戸籍法や地租改正などとの関連が指摘されていますが、いずれにせよ日本の近代化と大いに関連していたことは重要でしょう。日本の近杙化の前提には、幕末の開国から明治維新に至る一連の動向をふまえる必要があります。すなわち国際社会に強制的に投げ出きれた日本は欧米列強による植民地化の危機にあり、近代化政策を強行して欧米並みの近代国家にならなければ生き残れないという切迫した状況がありました。つまり「穢多非人等」は平民身分として近代日本国家の国民に編入され、平民身分と同様に納税や徴兵、教育などの義務を負うことになったのです。
賤民制廃止令に至る過程では、かわたの動きも見過ごせません。明治維新を契機とした近代化政策に歩調を合わせるように、かわた村の有力者から維新政府に「穢多」という賤称を廃止する要求が出されました。しかし維新政府は身分差別を撤廃するための積極的な姿勢を示さず、あくまでも近代国家の桎梏となる前近代身分制と賤民制を廃止したに過ぎませんでした。
ともかくもかわたは平民身分になりましたが、その喜びは想像を絶するほど大きいものでした。職業は平民身分と同様となったため、死んだ牛馬の処理を止める者が出てきました。また近世において百姓の本村の枝村として差別を受けていたかわた村の中に、本村から独立しようとする動きも生まれました。しかし賤民制廃止令は平民身分から好意的に受け止められることは少なく、西日本では自分たちより下の身分であった「旧穢多」もしくは「新平民」が増長しているとしてかわた村を襲撃する事件さえ起きています。

4 近代部落問題の成立
賤民制廃止令によって「穢多」などの賤民身分は廃止され、かわたと自称する必要もなくなりました。したがって、ここからは旧「穢多」身分の人びとを近代曰本社会における民衆であることを明確にするために部落民衆、旧「穢多」身分の人びとの集住地区を部落と呼ぶことにしましょう。
ここから近代の部落問題について述べようとしますが、その性格や内容については今日まで議論が戦わされ続けていて明確な定説に至っていないのが現状ではないかと思われます。私自身が近代の部落問題について本格的に研究を進めたわけではありませんので、従来の有力な研究に基づいて部落差別を基軸とした近代部落問題の成立について試論的に概略を述べるだけになることを断っておきます。以下に近代部落問題の成立に関して7点にわたって指摘しますが、これらは位相は異なるものですが密接に関連していたと思われます。また7点は単独で機能するか、もしくは複数が同時並行的に関係して機能することによって、近代部落問題を成立させていたと考えられます。
まず第1は、前近代的身分遺制と前近代的身分意識の継承です。近代日本は前近代的身分制を廃止しましたが、社会的には前近代的身分制は遺制の秩序として残存し、また前近代的身分意識は継承されました。前近代的身分遺制と前近代的身分意識の継承によって部落民衆は賤民制のもとでの「穢多」と見なされ続けました。
第2は、近代天皇制と新たな身分秩序です。日本の近代国家は天皇制国家として成立し、新たに天皇を頂点としつつ華族、士族、平民という近代的身分ともいうべき秩序に編成きれました。この近代的身分秩序は前近代的身分制とは性格を異にしていましたが、前近代的身分意識と結びついて部落民衆を平民身分の最下層と見なすようになりました。
第3は、国民国家による国民の序列化です。近代国家は、領域内に居住する人びとを国民とすることで成立しました。そのもとで国民は国家に対して権利と義務を負っていましたが、経済的地位や性別の違いによって序列化きれました。この国民国家による国民の序列化は、部落民衆を劣位な国民として位置づけることになりました。
第4は、資本主義の発展による貧富の発生です。近代とは資本と労働を基本とする資本主義社会の本格的成立を意味し、貧富という経済的格差を生みだしました。部落民衆は資本主義社会に投げ込まれて全体として経済的に劣位な職業に就くことになり、また貧困を背員わされてざさまざまな生活的困難を抱え込むことになりました。
第5は、地域社会における階層的秩序です。近代の地域社会は行政村を基本としていましたが、その運営は経済的・社会的有力者が担うことになり、集落間の階層的秩序を形成しました。そのもとで経済的・社会的困難を抱える部落は行政村から排除されたり、劣位な地位に位置づけられるようになりました。
第6は、近代的価値観による人間の序列化です。近代は学校制度と一体となった学力の獲得や経済的な富の蓄積、労働などに耐えうる体力の育成などの価値観によって人間を序列化しました。このように近代的価値観による人間の序列化のもとで、部落民衆は全体として近代的価値が欠如した人間と見なされるようになりました。
第7は、優生主義と人種的・民族的視線です。近代は遺伝的要素を重視して人間に優劣をつける優生主義を生みだし、また人種や民族という視線によって人間を序列化しました。このような影響を受けて部落民衆は遺伝的に継承される劣った人間や人間以前の存在、また異種の人間や劣ったとされる人種的・民族的存在と見なされるようになりました。

5 部落改善と融和の登場
賤民制廃止令が出されたにもかかわらず部落民衆は部落差別を受けることになったので、部落差別に抗する取り組みを始めなければなりませんでした。最も初期の部落差別に対する抵抗は、自由民権運動において見られるようになります。自由民権運動は政治的自由を求めた民衆の政治運動ですが、中江兆民のように部落民衆の苦悩をふまえて部落解放を主張する者がいました。また部落民衆の中には部落差別の撤廃を主張し、不当な部落差別を裁判などで闘う者もいました。
資本主義が発展してくると、部落の貧困が顕著になってきました。部落民衆の貧困は、環境の劣悪さや教育における不就学などの生活上の困難と結びついていました。また生活の困難は、部落差別をも強める役割を果たすようになりました。このような過酷な生活状況から、部落民衆の中には生活上の意欲を失い、部落差別の厳しさから自暴自棄になる者もいました。
1900年頃になると、部落内部から生活や環境の改善を求める部落改善運動が起こってきました。部落には改善団体が結成され、倹約をはじめ貯蓄、納税の励行をはじめ風俗の矯正、児童就学率の向上や、女性への家庭教育の充実、賭博の禁止などが取り組まれるようになりました。これらは半ば強制的なもので、決められたことを守らない者は厳しく罰せられることもありました。
部落改善運動は、部落民衆の自発的な運動から、次第に府県や市町村の統制による部落改善政策に変質させられていきました。また部落改善運動は部落差別の原因を部落民衆に求めていたため、改善の効果が上がらなければ部落民衆の責任とされ、かえって部落差別を肯定する結果となりました。そのため部落改善運動は、部落民衆から批判が出されるようになりました。
1910年頃になると、部落内外から一般社会との融和を求める融和運動が起こってきました。融和運動では部落民衆と一般民衆によって融和団体が結成され、一般社会に部落差別の反省を求めると同時に一般社会との融和を図ろうとしました。また官製的な部落改善政策を批判し、天皇制を前提とした赤子(セキシ)一体のもとでの平等を説くようになりました。また部落民衆の北海道への移住を奨励し、一般民衆に対しては部落民衆への同情融和を説き、部落民衆には同情されうる人格の形成を求めました。
1918年の米騒動を契機として、従来の同情融和を基本とする融和運動に批判が集まるようになりました。そして同情融和ではなく部落差別の不当性を訴えた部落民衆と一般民衆の同志的結合によって、各府県単位で自主的融和団体が結成されるようになりました。自主的融和団体は明確に一般民衆に対して部落差別の反省を主張し、愛に基づく人道主義的な啓もう活動をおこなうようになりました。
部落改善運動と融和運動は部落解放を実現しないと断定され、長きにわたって低い評価しか与えられませんでした。しかし部落改善は部落民衆の生活に意味があり、一般民衆との融和も部落差別を克服していくためには必要なものでした。ましてや部落改善運動も融和運動も部落民衆の主体的活動の1つであり、限界を有しつつも部落解放に一定の役割を果たしたものとして歴史的意義が認められるようになってきました。

6 水平運動の成立と展開
部落改善運動と融和運動を恩恵的かつ慈恵的であるとして批判しつつ登場したのが、1922年3月に創立された全国水平社による水平運動でした。全国水平社は創立の際の綱領で端的に示されたように、部落民衆による自主的な部落解放を基本としていました。また創立にあたって示された宣言は西光万吉や平野小剣らによって作成され、その思想的核心は人間主義と部落民意識ともいうべきものでした。
全国水平社創立は、国際的には初めての社会主義革命であるロシア革命や植民地からの解放運動、そして世界を席巻していた民族自決などに大きな影響を受けていました。また全国水平社創立は、国内的には大正デモクラシーといわれる民主主義的な風潮や労働運動や農民運動、女性運動などの民衆運動や民衆の立ち上がりに刺激されたものといえます。そして何よりも全国水平社創立は部落民衆による初めての自主的かつ組織的な部落解放運動の成立を意味し、曰本における民主主義と人権を発展させる大きな歴史的意義を有する画期的な出来事でした。
水平運動の基本的闘争形態の1つが、部落差別事件に対する差別糾弾闘争でした。これまで部落民衆は横行する部落差別事件に泣き寝入っていましたが、差別した個人に反省を迫り、謝罪を求めるようになりました。この差別糾弾闘争によって部落差別は社会的悪であることが明確になりましたが一般民衆との溝を深めることもあり、また暴力に訴えることもあって刑事事件に発展することもありました。やがて差別糾弾闘争は、その対象を差別した個人から社会的な部落差別の仕組みに目を向けるようになりました。その典型が1933年に闘われた高松結婚差別裁判糾弾闘争であり、大きな成果を得ました。
全国水平社は部落差別の1つとして職業と経済の不自由を重視し、生活擁護闘争を展開しました。部落民衆の多くは都市においては労働者であり、農村においては小作農民でした。そこで部落民衆は労働組合や農民組合に加盟し、自らの権利を守ろうとしました。また政府や府県、市町村によって部落の生活を改善する融和事業がおこなわれていましたが、全国水平社は部落民衆の権利として融和事業の獲得に目を向けました。この生活擁護闘争を発展させたのが1930年代前半に展開された部落委員会活動であり、全国水平社は政府の融和政策と厳しく対立しました。
全国水平社は部落差別を温存するのが資本主義であると認識するようになり、なかには社会主義運動もしくは共産主義運動に接近する者も出てきました。資本主義社会では部落民衆も経済的には労働者・小作農民と同じく無産階級であるとして階級的政治闘争に進出し、また資本主義体制を打破するために無産政党に参加しようとしました。しかし全国水平社の中には社会主義もしくは共産主義の勢力に反対の立場から、基本的に政治に関与しない無政府主義の立場をとる勢力もいました。
やがて1930年代後半にアジア・太平洋戦争が始まると、全国水平社は従来の方向を大きく転換するようになりました。部落差別は従来の社会的仕組みにあるとする認識から国民間の感情の摩擦であるという認識になり、差別糾弾闘争を抑制するようになりました。生活擁護闘争は進められたものの、その推進にあたっては融和団体と共同歩調をとるようになりました。何よりも全国水平社はアジア・太平洋地域への侵略戦争を支持するようになり、戦争に勝つことと部落差別の撤廃を一体化させていきました。そして1942年1月、政府の強制もあって全国水平社は消滅してしまいました。
来年の2012年は、全国水平社創立90周年という記念すべき年に当たります。部落の完全解放を掲げて創立きれた全国水平社による水平運動は大きな成果を得ましたが、少なからぬ問題点を有していることも事実です。あたかも来年は、部落問題に大きな影響を与えた同和対策関連法が切れて10周年でもあります。今日の転換期における厳しい部落問題の状況を深く理解して部落解放の新たな展望を切り拓くためにも、全国水平社創立の歴史的意義と水平運動の歴史的経験に学ぶことが重要ではないかと考えています。