アイヌ民族の人権【アイヌみんぞくのじんけん】

 古くから、アイヌ・モシリ(アイヌの大地)である北海道・樺太・千島列島・日本列島北辺を生活の本拠地とし、狩猟、漁労、採集等によって自然と共生し、固有の言語や宗教などのアイヌ文化を育み、それを現在に受け継けついでいる民族集団。〈アイヌ〉は〈カムイ〉(神)に対する〈ひと〉や〈男〉、〈夫〉などを意味する。口承伝承のユーカラ(神謡)は有名。近代以降、日本政府の同化政策によって文化・生活基盤等の破壊および過酷な差別が行なわれた。人口は、1999年(平成11)の北海道庁の調査によれば北海道内に23,767人となっているが、実際はその倍以上はいると思われる。また、北海道以外にも首都圏などに数千人いると推定される。

(竹内 渉)

[人権をめぐる現状]

 日本の近代化・民主化は<明治維新>から開始されたが,アイヌ民族にとっては新たな苦難の幕開けでしかなかった。この<維新>新政府による同化政策という植民地政策によって,アイヌ民族差別がいわば国策としてつくり上げられ,100年を超える時間により国民に深く浸透し,多様な差別事象を引き起こしている。つまり,植民地法であり名称そのものから差別法でもある<北海道旧土人保護法>(1899年公布,1997年廃止)などに示されるように,侵略抑圧により弱体化したアイヌ民族を<保護>し,アイヌも天皇の赤子として日本国民に統合しながらも,<旧土人>=2級市民として扱い,法制度的にも差別してきた。言い換えれば,先住民族アイヌを差別することによって,北海道の植民地化という侵略行為を<開拓>という名のもとに合法化したのである。

 アイヌ差別などに関する公的な調査はこれまで,北海道庁が<北海道ウタリ福祉対策>という対アイヌ政策を実施するにあたって,1972年(昭和47)を最初に7年ごとに,これまで4回実施した<ウタリ生活実態調査>および,東京都庁により75年,89年(平成1)の2回<東京在住ウタリ実態調査>とが行なわれている。いずれの調査結果によっても,さまざまな差別が今日でもあること,国民一般との経済格差があることなどが明らかにされている。

 86年の北海道の調査によると,過去に本人や家族が差別を体験したと答えたアイヌは71.6%にも及んだ。差別事象は部落差別と類似し、結婚、就職、学校の場などで多くみられる。とりわけ学校での被差別体験が高校,大学進学率の格差を生じ,就職の機会均等を奪っている。93年の調査によると,86年の調査結果よりわずかながら格差は是正されているとはいえ,高校進学率で道民一般96.3%に対し87.4%,大学進学率で道民一般27.5%に対し11.8%と,大きな格差が厳然と存在している。こうして教育機会を奪われた結果,義務教育修了をもって最終学歴とする者が一般都民20.8%に対し都内在住アイヌ66.7%と際だった対比を示すことになる。<この学歴の差は,今日の在京アイヌの生活に様ざまな影響を与えている>(1989年東京都庁調査報告書)のである。

 その一方で,近年,アイヌ古式舞踊をはじめとする伝統文化継承活動などが活発化し,その影響を受け民族の誇り・尊厳を取り戻す者が増えつつあり,厳しい差別が厳然と存在する現状に打ち勝つ力をつけた若者が育ちつつあるなど新しい動きも出てきている。

 93年5月、平取町二風谷のアイヌ民族・貝澤正【かいざわただし】と*萱野茂【かやのしげる】が二風谷ダム建設のために土地を北海道収用委員会に強制収用されたことを不服として、札幌地裁に行政訴訟を起こした(二風谷ダム訴訟【にぶだにだむそしょう】)。97年3月、同地裁は判決で<先住民族【せんじゅうみんぞく】とは,歴史的に国家の統治が及ぶ前にその統治に取り込まれた地域に,国家の支持母体である多数民族と異なる文化とアイデンティティを持つ少数民族が居住していて,その後右の多数民族の支配を受けながらも,なお,従前と連続性のある独自の文化とアイデンティティを喪失していない社会集団>とまとめ,アイヌ民族は,明らかに日本における先住民族であると断定した。その先住民族であるアイヌの人権(権利保障)を論じるには,二つの側面から論考する必要がある。一方は,先述した個人の人権であり,もう一方は,集団としての民族の権利である。つまり,本来,民族対民族は数に関係なく対等であり平等であるべきだが,先住民族アイヌは,征服・被征服,支配・被支配の歴史過程において不当にも諸権利をはく奪されており,その権利の回復という意味で,自明の権利である先住民族の権利(先住権【せんじゅうけん】)を有して初めて,アイヌは日本国民一般と平等と言える。言い換えれば,侵略抑圧の歴史過程で,言語,宗教,生活習慣,土地などの使用が妨げられたり,奪われたその補償も回復もないままに<法の下の平等>が保障されているというだけでは,アイヌの人権保障はきわめて不十分である。

 97年7月<*アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律>が施行された。これまでの単一民族国家論,同化至上主義からみれば,日本においてはじめて民族(文化)についての法律が制定されたという点で画期的な変化ということができる。また,文化面においては,先住権のごく一部の回復に道が開かれたということも言えるかもしれない。しかしながら,基本的な用語や概念がきわめてあいまいで法律の目的が明確ではなく,なによりも<ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会>の『報告書』では言及されていた歴史的経緯については完全に削除されていて,侵略抑圧・同化政策への反省謝罪がなく,<先住民族>との断定を避けていて,大きな不満が残る法律である。しかし,国際先住民年(1993)を契機として,アイヌ民族<問題>に対しての国民の関心は高まり,複数の民族が共生する社会をめざす相互理解に向けての取り組みが,さまざまなところで行なわれるようになってきた。これらの動きが加速され,国民の理解が深まっていけば,結果として今回の法律の不備は埋められていくことになろう。

(竹内 渉)

[歴史]

〈アイヌの集団形成〉

 アイヌ文化形成の母体となったのは擦文文化【さつもんぶんか】である。この文化は12世紀半ばに激変し,土器文化としての擦文文化は消滅するが,擦文文化の担い手が消えたのではない。鉄製品や漆器などが交易によって移入され,土器に代わる容器を用いた新たな用具内容と儀礼様式をもつ文化が生まれたのである。活発な交易を契機に,自らと他者との言語・風俗・習慣などの違いを意識し,文化や利害を共有する強固な仲間意識による集団結合が地域単位に編成され,〈民族〉としてのアイヌとその文化の大枠が形成された。アイヌの生活地であるアイヌモシリのほぼ全域が,東アジアの諸国家で活発化する本格的な商品経済活動圏に組み込まれて,積極的に交易を開始した13〜15世紀の時期に,アイヌ社会は自家消費的な生活様式を基礎とする経済から脱却し,あらたな商品経済社会へと転換した。そして集団の組織化を進行させ,海浜を含む大きな河川の流域ごとに強力な結束力をもつ地域集団を形づくり,首長制的性格の社会を成立させたとみられる。

〈交易の展開と内外の闘争〉

 商品経済を軸にした社会に転換したアイヌは,自ら海洋を航行できる交易船を造って対外交易をも展開した。大陸のアムール経由で中国と結ばれた仲介交易では,毛皮を交換財の主体にして中国製の絹やガラス玉などを入手し,和人とは海産物を,漆器や鉄鍋・小刀など鉄製品と交換した。しかし,不当な交換レートやアイヌに対する和人の侮蔑的態度などによって,両者の間には数多くの武力闘争が起きた。その代表的なものが,長禄1年(1457)に起きたコシャマインの戦い【こしゃまいんのたたかい】である。以後100年間にわたって和人との武力抗争は続き,天文19年(1550)〈夷狄の商船往還の法度〉(『新羅之記録』)により,本州から渡海の商船より徴収する税(夷役)の一部をアイヌ側に分配するという、一種の条約が結ばれた(この法度は1551年の説もある)。

〈和人による支配〉

 文禄2年(1593),蛎崎慶広【かきざきよしひろ】(後に松前と改姓)は豊臣秀吉より朱印状を与えられて蝦夷島の支配権を公認され,さらに慶長9年(1604)には家康から黒印の制書を受けて蝦夷島一円でのアイヌとの交易の独占権を得た。松前藩のとった商場知行制によってアイヌが自由な経済活動の場をせばめられたことに対して,寛文9年(1669),シブチャリ(現在の静内地方)の首長シャクシャインは抵抗闘争を起こし,アイヌと和人間最大の戦争となった。しかし和睦の席でアイヌの指導者たちは松前藩の謀略によって殺され敗退した。以後,アイヌに対する搾取は強化されていき,享保5年(1720)前後に一般的になった場所請負制度において極限にまで達し,寛政1年(1789)のクナシリ・メナシ地方の戦い【くなしりめなしちほうのたたかい】にまで至った。しかし,最近の研究によると,イシカリやヨイチでは漁の最盛期を除いて、アイヌが自家消費を上まわる量のサケを捕獲でき,自由に売却してアイヌ自身の稼ぎにすることも可能であったことが明らかにされている。近代日本国家成立までは,アイヌのある程度の経済的主体性と自立性が持続しており,アイヌ社会に対して,和人の収奪・支配だけがあったとする従来の見解は修正されなければならないことも確かである。

〈近代日本のアイヌ同化政策〉

 1868年,明治と改元した新政府は翌年開拓使を設置し,蝦夷地を北海道と改めた。広大な原生林と豊かな資源をもつ北海道には,先住者であるアイヌの土地や資源に対する権利を無視したまま、本州方面から多数の日本人移住者が送り込まれて,急速かつ大規模に農業・鉱業・林業・漁業などを経営する〈開拓〉が行なわれた。明治4年(1871),アイヌに農具などを付与して農民化させ,入墨などのアイヌ伝統の習俗を禁止,日本語の習得を定めるなど,先住民アイヌの生活や権利をまったく無視した〈同化政策【どうかせいさく】〉が強行された。72年には戸籍法を実施して,アイヌを日本国民に編入,76年,〈創氏改名【そうしかいめい】〉を布達,獣を獲るための仕掛け弓を禁止。さらに77年,アイヌが長い歴史をきざんできたアイヌモシリを〈無主の地〉として官有地に組み入れ,78年,アイヌの呼称を〈旧土人〉に統一。根底から破壊されていったアイヌの生活はいよいよ困窮し,その救済を目的に99年(明治32),〈北海道旧土人保護法〉が制定された。

 日本文化への同化を強いられて,アイヌの文化は自立性・独自性を急速に失うことになった。ことに,母語であるアイヌ語が公教育の場で禁止され,日常生活においても民族語を用いる機会は失われていった。しかし,開拓が一段落し,アイヌの生活がもっとも窮乏した時期から始まった北海道の観光は,〈原始的アイヌ風俗〉が売り物にされ,同化政策によって否定されたはずのアイヌ文化のある部分が,観光地で継承されるという皮肉な現象を生んでいる。

 とはいえ,民族的権利回復や民族の心を表現する文学など,今日に続くアイヌ自身によるさまざまな運動が行なわれてきたことも忘れてはならない。

(大塚和義)

[解放運動]

〈近代〉

 1899年(明治32)<北海道旧土人保護法【ほっかいどうきゅうどじんほごほう】〉が制定され,明治近代国家の成立から30年経って初めてアイヌは法律によって<保護>されることになった。<北海道旧土人ニシテ農業ニ従事スル者又ハ従事セムト欲スル者ニハ一戸ニ付土地一万五千坪以内ヲ限リ無償下付スルコトヲ得>(1条)に始まる同法は,1968年(昭和43)までに5回の改正を経たが,制定当初の内容は<農業従事(希望)者への土地の給付><児童への就学援助と小学校の新設><困窮者への医療援助>であった。19年(大正8)の第1回改正以降,改正の度に制定時の内容を失い、ついには死法と化してからも,97年(平成9)に廃止されるまで存在し続けた唯一のアイヌ関連の法律である。この法律の問題点としてゝ鐔暫蓮職業の制限,給与地に農業不適地が多かった,5詬臣鷲嬪燭里燭瓩了務手続きの煩雑さ,け椎世虜て颪機きァ禝詬臣蓮畛簍地>にはならなかった,戦後,農地調整法と自作農創設特別措置法により給与地が失われた,Ю験菠欷酲 て段明農など,他の法律による<北海道旧土人保護法>の死法化などが挙げられる。そして〈ウタリ問題懇話会〉報告によれば、87年3月31日現在,当初3635戸のアイヌ世帯に給与された9061ha(1戸平均2.5ha)の給与地でアイヌの所有地として残っているのは,1518ha(16.8%)にすぎない。

 <北海道旧土人保護法>の適用から外された旭川地方で,旭川旧〈土人〉給与地紛争が起きたのを契機としてアイヌの解放運動が芽生えた。さらにその後,同法を積極的に受け入れ生活の改善をはかろうとする動きは,<十勝旭明社>(1922年設立,1948年社団法人として再出発)や,<北海道アイヌ協会【ほっかいどうあいぬきょうかい】〉(1930年設立)として現れ,官の指導と援助に大きく拠っていった。また同法をアイヌを捕縛するものとして受けとめ給与地からの解放を求める動きは,<解平社【かいへいしゃ】〉(1926年結成)や<全道アイヌ代表者会議>による<旧土人保護法撤廃同盟>(1932年結成)に現れ,同法の廃止運動を展開した。名称から推測されるように全国水平社の創立(1922)から影響を受けて結成された<解平社>は,旭川を中心に,労働運動や農民運動と結びついたアイヌによる運動の端緒であった。23年発刊された『アイヌ神謡集』【あいぬしんようしゅう】の序文に知里幸恵【ちりゆきえ】(1903〜22)が<激しい競争場裡に敗残の醜をさらしてゐる今の私たちの中からも,いつかは,二人でも三人でも強いものが出て来たら…>と記したのも,全国に広がっていった水平社運動と無縁とは思われない。

 しかし37年の2回目の同法改正によって,これに依拠あるいは反対する動きは,ともに終息することになった。同法がこの改正により当初の主要目的を失い,従来の勧農策が勧業策に転じられたことや教育面の同化策が廃されたからで,アイヌが和人同様に<国民化>したことを基本的に認めたものであったからである。

〈戦後〉

 第2次世界大戦後,46年<社団法人北海道アイヌ協会>が設立された。<北海道旧土人保護法>による給与地を農地改革の対象外とすることが当面の最大目標だったが,同法の2回目の改正によって給与地が特別に扱われる根拠を失った状況下では実現は困難だった。結局1年遅れで給与地にも農地改革が実施されるに及んで,同協会の活動は休眠状態になる。60年<社団法人北海道アイヌ協会>再建総会が開かれ,翌61年,名称を<社団法人*北海道ウタリ協会【ほっかいどううたりきょうかい】>と変更して,主に行政の福祉対策の窓口機関として活動を開始して今日に至っている。

 68年に行なわれた<北海道百年記念祝典>に前後して,開拓賛美の北海道史観に抗議するアイヌの運動が盛んになると同時に,アイヌがアイヌとしての自己認識を強め,自らのアイデンティティを確立しようとする活動が展開されるようになった。旭川アイヌ協議会(1972),アイヌ解放同盟(1972),ヤイユーカラ・アイヌ民族学会(1973)などが結成され,アイヌによる新聞『アヌタリアイヌ』(1973)が発刊された。<全国アイヌ語る会>(第1回)が開かれたのも73年である(第2回は87年)。

〈現代〉

 1970年代以降盛んになった世界の先住民族の解放運動に刺激され,アイヌの個人や団体が交流を目的に海外へ出る機会が増えるとともに,情報や活動のエネルギーを持ち帰るようになった。その蓄積で,84年<北海道ウタリ協会>は総会において<アイヌ民族に関する法律(案)【あいぬみんぞくにかんするほうりつあん】〉を採択し,北海道や国に対して同法実現の要請活動に取り組み始めた。内外の状況を無視できなくなった国は,97年<*アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律>を成立施行させた。結果的にウタリ協会の当初目的とは異なる内容の法律となったが,現存するアイヌにかかわる唯一の法律であり,課題も含めて同法がアイヌに及ぼす影響は大きい。

 70年代以降のさまざまなアイヌの活動は,その時々において必要かつ効果的であったとはいえ,それらを統合あるいは取捨してさらに前進させるという意味で<運動>になり得たものは少なかった。単発的,個人的な行動を,いかに広くアイヌの中に浸透・持続させ共有できるかが,解放の課題である。とくに90年代以降目立って活発になってきた世界の先住・少数民族の活動は,オーストラリア,ニュージーランドや,カナダにおいて,先住民の権利を認め、回復させる法律や判決を勝ち取っている。先進国といわれる国に生活するアイヌが,その先住民族としての権利をどのようなかたちで取り戻すことになるのか,世界から注目されている。(計良光範)

[教育]

〈伝統的社会の子育ての習俗〉

 アイヌ民族の伝統的社会は自然的地縁関係で結ばれ,狩猟・採集や交易などによって生計を維持していた。そこでの子育ての習俗は自然と共生する固有の世界観に基づいていた。子どもは成年期(男子17〜18歳,女子15〜16歳)までに,父母などからコタンの成員として自立するための技能を習得した。その内容は男女によって異なり,一般的に男子は祭祀,狩猟・漁労,生活用器具の製作,弁論,女子は食物の採集,農耕,織物,育児などに関することであった。また,子どもはユカラ,ウウエペケレ,ウパシクマを〈教材〉として,日常生活の指針や社会規範などを学んだ。

〈北海道旧土人保護法とアイヌ教育〉

 伝統的社会の子育ての習俗=コタンの教育機能を崩壊させ,〈日本人〉への同化を強制し,民族的他者であるアイヌ民族の尊厳と主体性を否定したのが,近代学校の教育である。北海道では,1880年代以降,佐瑠太学校平取分校をはじめ,多くの近代学校がコタンの所在地に設置された。これを契機として,アイヌ民族の教育はインフォーマルな子育ての習俗から近代学校のそれへと大きく変化していった。1899年(明治32)には,先住アメリカ人(いわゆる〈インディアン〉)の合衆国市民への同化を目的とした〈ドーズ法〉(1887)をモデルに〈北海道旧土人保護法〉が制定された。同法は*社会ダーウィニズムの影響を受けたもので,初等教育の普及施策を重要な柱として位置づけ,アイヌ民族の子どもと〈日本人〉の子どもを分離して教育する,〈アイヌ小学校〉を主要なコタンに特設した。〈アイヌ小学校〉は1901年に開校した平取尋常小学校などをはじめとして,27年(昭和2)までに24校が設立された。また同法では,一般の尋常小学校に就学するアイヌ民族の学齢児童中の〈貧困ナル者〉を対象とする,授業料の給付制度を設けている。

 北海道庁は1901年に〈アイヌ小学校〉の教育内容と教授法を定めた(〈旧土人児童教育規程〉など)。その意図は教育の中からアイヌ民族の言語や歴史,文化を追放し,〈帝国臣民〉としての最低限の〈教養〉を付与することにあった。〈普通ノ尋常小学校ノ凡第三学年迄ノ程度ヲ四学年間ニ修了セシムル〉という教授要旨は,それを端的に示している。教科目は修身・国語・算術・裁縫(女子)・農業(男子)の各科であった。1908年にはこれらの規定を廃止し,就学年限を日本人の子どもと同様に6カ年とした。また,教科目に日本歴史・地理・理科を加えた。16年(大正5)にはアイヌ民族の子どもは〈心性の発達和人の如くならざる〉という差別的理由に基づき,前述の〈旧土人児童教育規程【きゅうどじんじどうきょういくきてい】〉などが復活。22年に廃止されるまで,アイヌ民族の子どもの就学年齢を1歳繰り下げて満7歳とするとともに,教科目から日本歴史・地理・理科を省いた。また,就学年限も日本人の子どもより2年間短縮して4カ年とした。〈アイヌ小学校〉は制度上では37年の〈北海道旧土人保護法〉改正で廃止となり,アイヌ民族の子どもの教育形態は別学制から日本人の子どもとの共学制に移行し,今日に至っている。この共学制導入は,アイヌ民族に対する同化政策の強化に加えて,現代にもつながる学校の中での差別と迫害が日常化していく大きな要因となった。こうした近代天皇制国家のアイヌ教育政策に対して,柳宗悦は42年に〈アイヌを今の日本風に変えて了ふこと〉は〈浅薄な教育〉であると述べ,批判を展開した。

〈解平社の結成と水平社運動〉

 1920年代後半から30年代前半は,アイヌ民族自身が近代学校で強制された日本語・日本文字を逆用して,民族的な自覚や自立を促すとともに,それを実践する運動が高揚した時期で,違星北斗【いぼしほくと】(1901〜29)の遺稿集『コタン』(1930)などが出現した。26年には水平社運動に影響を受け,近文コタンの砂澤市太郎,松井國三郎ら4人の青少年が解平社【かいへいしゃ】を結成した。解平社の運動は〈日本人〉への近文アイヌ給与予定地の払い下げや近文コタンからのアイヌ民族の追放を阻止するとともに,給与予定地の〈無償下付〉の実現によって,生活不安を解消することを直接的な目的としていた。

〈小学校社会科用教科書のアイヌ民族記述〉

 現行の小学校社会科用教科書(1996〜99年度版)は5社(各社1種類)から発行されており,近代の北海道〈開拓〉政策に起因するアイヌ民族の生活破壊,アイヌ同化政策と差別問題については各社とも記述がみられる。たとえば,近世の〈シャクシャイン戦争〉は4社の教科書が記述している。しかし,現代史のなかでアイヌ民族の存在を記述しているのは1社のみである。こうした記述内容は,小学生に対して歴史上の,それも抑圧される対象としてのアイヌ民族の姿だけを浮き彫りにし,差別と偏見を再生産していくことにつながる。教科書のアイヌ民族記述を質量ともに充実することは,〈日本人〉の正しいアイヌ認識の確立はもとより,真の多民族共生の社会を実現するうえで重要な課題であるといえよう。

〈アイヌ文化振興法と副読本の作成〉

 97年(平成9)に〈北海道旧土人保護法〉に代わる新法として〈アイヌ文化振興法〉(略称)が制定された。同法は〈アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現〉と〈我が国の多様な文化の発展に寄与すること〉を目的としているが、そこにはアイヌ民族の〈先住性〉という歴史的視点が欠落し、アイヌ民族の存在を〈伝統〉と〈文化〉の世界に押し込めるなど、多くの問題点が含まれている。上記の目的を達成するための事業の一つとして、現在、同法の指定法人である〈アイヌ文化振興・研究推進機構〉によって、小・中学生用の『アイヌ民族に関する副読本』の作成が進められている。副読本の作成に際して、歴史分野ではアイヌ民族の〈先住権〉を明記したうえで、現行教科書には欠落している〈近文アイヌ給与予定地〉をめぐる闘いをはじめとするアイヌ民族の解放運動の実態や現代日本の生活者の一員としてのアイヌ民族の実像を詳述する必要があろう。(竹ケ原幸朗)

[文化]

 アイヌの文化は、大きく無形文化と有形文化に分けられるが、さらにそれらを包括した精神文化がある。精神文化は、すなわち、アイヌの精神世界を表すものであり、アイヌの生活文化の基底をなすものである。

〈精神文化〉

 アイヌの精神世界は、基本的にはアイヌ(人間)を中心とした世界であるが、そこにはつねにカムイ(神)が対置している。アイヌの考え方では、神々が住まう国――カムイモシリと、人間が住まう国――アイヌモシリ、そして人間が死後住まう国――ポクナシリと、大きく三界がある。それらの国は、人間が住まう国――アイヌモシリを基点に、カムイモシリははるか上空の彼方(北海道内の各地、あるいは伝承者によってその位置はさまざまであるが、ここでは古くから一般的にいわれている東方の上空の彼方とする)に位置するといわれ、ポクナシリはアイヌモシリの下、地の底にあるとされている。アイヌはこの三界を創出し、日々の生活を営んでいたのであるが、またアイヌモシリにある森羅万象すべてはカムイがそれらの姿に化身して存在しているものと考えてきた。アイヌはこうしたカムイに対して、畏敬の念とともに、儀式・儀礼の実施をもって、カムイとの交流をもった。

 その一例として、アイヌの最大かつ最重要な儀礼であるイオマンテ(クマの霊送り)がある。アイヌは先述したように、人間をとりまくすべてのものは神々がその姿に化身し、それぞれの役目をもって人間世界に存在すると考えている。こうした神々のなかで、動物神はもっとも身近な存在であるとともに、重要な神でもあり、扱いも非常に丁重である。とくに、クマとシマフクロウはもっとも位の高い神とされ、さらに丁重な扱いを受ける。

 ふだん、カムイは、カムイモシリにおいて、アイヌと同様の姿で、アイヌと同様の生活を営んでいるのであるが、そのカムイがある種の義務をもって、アイヌモシリを訪れてくる。その際、カムイはそれぞれアイヌモシリ滞在用の姿かたちにハヨクペ(扮装)するのであるが、たとえば、キムンカムイ(山の神=クマ)であれば、カムイモシリの自分の家の壁にかけてある毛皮と爪をつけてクマの姿となり、毛皮と肉を土産としてアイヌモシリを訪れるのである。アイヌはこうしてアイヌモシリを訪れたカムイを賓客として丁重にお迎えするわけであるが、これを現実にとらえてみると、キムンカムイがクマの姿となってアイヌモシリを訪れるということは、アイヌが山でクマを射止めるということになる。

 次に、迎えたカムイ――射止めたクマは、その場かあるいは狩猟小屋にて簡単な儀礼をもってその霊をカムイモシリに送り帰すが、その際、子グマが一緒であると生け捕りにして集落に連れ帰り、親のカムイ(親グマ)から養育を託されたとして、1年ないし2年、集落をあげて育てる。そうして、時期がくると、滞在していたカムイをカムイモシリに先に帰っている親のカムイのもとに送り帰す儀礼――送別の宴が執り行なわれ、カムイはたくさんの土産をもらって帰国するのである。この儀礼――送別の宴がイオマンテである。帰国したカムイは、さっそく仲間のカムイを家に招待して宴をひらき、土産を分配するとともに、アイヌモシリでの見聞――アイヌモシリがいかにいいところであるかを話して聞かせる。すると、仲間のカムイは自分もその恩恵にあやかろうとして、翌年、アイヌモシリを訪れる。つまり、たくさんのカムイがアイヌモシリを訪れ、アイヌに賓客として迎えられるわけであるが、現実にみると、たくさんの獲物――食糧を獲得することができるということになるのである。

 このように、食糧獲得が自然条件に左右される狩猟採集民にあっては、恒常的に食糧を獲得するということは、日々の生活において最重要なことである。そうした観点から、動植物をはじめとして、アイヌが生きていくうえで必要とするものすべてを神格化し、たとえば、狩猟で獲物を得ることを、カムイ自らがその獲物となりアイヌモシリに食糧をもたらすと見、さらに、そのカムイを霊となしてカムイモシリに送り帰すことにより恒常的な神々の来訪=食糧の獲得を求めるという、イオマンテにアイヌの狩猟採集民としての基本的な観念をみることができるのである。

〈無形文化〉

 アイヌの無形文化に代表されるのは、口承文芸と歌舞(伝統芸能)である。口承文芸は、大きく神々の物語、英雄の物語、散文の物語に分けられる。神々の物語は、動物神や自然神が自分の身の上話を体験談として語るもので、神々の自叙のかたちをとっている。大きな特徴としては、語りに節やリズムがつき、さらに、サケヘ(折り返し)といわれる繰り返し句が、物語個々に固有なかたちで挿入されている。カムイユカラ、トゥイタク、オイナなどと呼ばれ、とくに女性が語る物語をマッユカラ、メノコユカラともいう。英雄の物語は、空を飛び、水面を駆け抜けたりする超人的な主人公が、敵討ちや人質奪回などを目的として幾度も闘い、必ず勝利して帰村するという内容で、神々の物語と同様に節やリズムがある。ユカラ、サコロペ、ヤイラプ、ハウキなどと呼ばれる。散文の物語は、節やリズム、サケヘがつかずに、語り口調で話されるもので、神々の身の上話や超人の活躍話、神と人間との恋愛話、さらには故事来歴、先祖の体験談など、多趣に富んでいる。物語の内容により、ウエペケレ、トゥイタク、イソイタッキ、ウチヤシクマなどと呼ばれる。文字をもたなかったアイヌは、こうした物語を語り聞くことにより、時には娯楽のひとときとし、時には人生の教訓を教授するひとときとしたのである。

 歌舞は、地域に伝わり集団で演じられるものと、個々人が演じるものとに大別される。集団で演じられるものは、漁狩猟の豊猟の祈願を表現しているもの、魔払いなど呪術的な行為を表現しているもの、山菜採取など日々の労働を表現しているもの、さらには、動物の動きを表現しているものなど、さまざまな種類がある。これらは、儀式・儀礼の際などに演じられるものであるが、基本的にはその場に集まった人間が歌い踊って楽しむものであり、同時にその場に居合わせた神々もまた人間の歌舞を楽しむといわれている。個々人が演じるものには、恋慕や悲哀の想いなど個人の感情を即興的に歌で表現したものや、子守歌などがある。かつて、歌詞やメロディは個々人のものであったが、時代とともに特定の個人のものが集団のものとなり、現在では地域に伝承されるものとして歌われている。なお、同一の名称の歌舞が北海道内各地にあるが、形態はそれぞれ異なる。現在、北海道内には20の古式舞踊保存会があり、そのうち、17保存会が伝承・保存する歌舞は国の重要無形民俗文化財に指定されている。

〈有形文化〉

 有形文化は、日常の生活に用いる用具類と、儀式・儀礼に用いる用具類、宝物類に分けられ、さらに、それらは自製品と移入品とに分けられる。日常の生活に用いる道具類の多くは自製品であり、身近にあるものを素材としている。儀式・儀礼に用いる用具類、宝物類、日常の生活に用いる用具類のなかの装飾品類等は、一部、木幣、捧酒箸等の木製品を除いて、本州を中心とする近隣諸地域からの素材、あるいは完成品としての移入品で、鉄や真鍮、ガラス製品、漆器類が大半を占める。移入品のうち、本州からのものは古道具、あるいは粗悪なものが大半で、和人商人はこれらの品々をアイヌの求めに乗じて法外な値をもって売りつけ、搾取をほしいままにしていた。アイヌの有形文化の大きな特徴は、自製品に加えて、移入品を外来のものとして区別することなく、自文化の一つとしているところにある。

(秋野茂樹)

参考文献

  • 結城庄司『チャランケ』(草風館,1997)
  • 手島武雄「先住民族の権利,アイヌ,そして日本」(『論集いぶき』11号,1991)
  • 上村英明『知っていますか? アイヌ民族一問一答』(解放出版社,1993)
  • 小笠原信之『アイヌ差別問題読本』(緑風出版,1997)
  • 菊池勇夫『アイヌ民族と日本人』(朝日新聞社、1994)
  • 大塚和義『アイヌ 海浜と水辺の民』(新宿書房、1995)
  • 海保嶺夫『エゾの歴史』(講談社、1996)
  • 河野本道『アイヌ史/概説』(北海道出版企画センター,1996)
  • 竹ヶ原幸朗「虚構としての〈あいぬの風俗〉」(『教育学研究』61巻3号,1994)
  • 小川正人『近代アイヌ教育制度史研究』(北海道大学図書刊行会,1997)
  • 竹ヶ原幸朗「『解平社』の創立と近文アイヌ給与予定地問題」(永井秀夫編『近代日本と北海道』河出書房新社,1998)
  • 藤村久和『アイヌ、神々と生きる人々』(ベネッセコーポレーション、1985)
  • 別冊宝島編集部編『アイヌの本』(宝島社、1993)
  • アイヌ民族博物館監修『アイヌ文化の基礎知識』(草風館、1993)
  • 中川裕『アイヌの物語世界』(平凡社、1997)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:29 (1294d)