アパルトヘイト【apartheid】

 アフリカーンス語(オランダ語の起源とする南アフリカの公用語の一つ)で〈隔離〉を意味し,南アフリカ共和国【みなみあふりかきょうわこく】で行なわれた人権差別・人種隔離政策を指す。南アフリカにおける人種差別は17世紀の白人入植に始まるが,19世紀後半にダイヤモンド鉱や金鉱が発見されると,その割譲をめぐって起きた南ア戦争(ボーア戦争)や,急速な工業化に伴って都市に流入したプアホワイト層の増大を背景に,白人労働者を保護し非白人を差別するさまざまな人種差別法が制定された。とくに,第2次世界大戦後の反植民地主義,アフリカ民族主義の高まりに対し,1948年,オランダ系白人のアフリカーナー民族主義を掲げる国民党政権が誕生すると,アパルトヘイトは完全に制度化された。58年から66年まで首相の座にあったフェルヴールトはアパルトヘイトの完成者といわれた。

 アパルトヘイトは政治・経済・社会のすべての分野にわたって法律化された。その中身は,“麈鮨佑了伽権剥奪,∩換馘擇13%をアフリカ人居住地域とし,言語・文化によって10のバンツースタン(ホームランド)に区分,名目上の自治と将来的な〈独立〉を付与するバンツースタン政策,人種別教育,で鮨佑藩色人種間の結婚・性交渉を禁止する雑婚禁止法・背徳法,デ鮨諭Εラード・インド人・アフリカ人に分ける人口登録法などである。また,16歳以上のアフリカ人すべてにパスブック(身分証明書)の常時携帯を義務づけるパス法は,アフリカ人取締法として利用された。

 これに対し,*アフリカ民族会議【あふりかみんぞくかいぎ】(ANC)は不服従運動を展開,55年には南アフリカ・インド人会議,南アフリカ・カラード機構などとともに人民会議を開催し,自由憲章を採択した。60年,ANCから分裂したパン・アフリカニスト会議(PAC)がパス法に反対して組織したデモ隊に白人警官が無差別発砲するシャープビル事件が起きた。政府は多くの指導者を逮捕,ANC,PACを非合法化し,運動は解体したかにみえたが,76年,中・高校へのアフリカーンス語強制に抗議する2万人の学生デモに警官が発砲,多数の死傷者を出したソウェト蜂起は,南アフリカ全土で労働者・市民が立ち上がる反アパルトヘイトの一大抗議行動に拡大した。

 政府はアフリカ人労働組合を制限付きで合法化したり,カラードとインド人に名目的な参政権を与える人種別三院議会制を導入するなど部分的な改革を行なったが,反アパルトヘイト運動は激化する結果となった。国際社会においても,国連のアパルトヘイト非難決議,武器禁輸決議,経済制裁強化など,アパルトヘイトへの批判が高まるなか,雑婚禁止法やパス法が相次いで廃止された。89年に誕生したデクラーク政権によって,ANC,PAC,共産党などの非合法化が解除され,27年間獄中にあったANC指導者,ネルソン・マンデラの釈放が実現。91年の人口登録法の廃止をもってアパルトヘイトは終結した。

 94年,全人種参加の総選挙によって生まれたマンデラ新政権は,アパルトヘイト体制下の政治的抑圧や人権侵害を究明し,被害者の復権と民族和解を目指す真実和解委員会を設置,98年には3500頁におよぶ最終報告書を発表。しかし,アフリカ人の生活水準向上を図って新政権が打ち出した復興開発計画にもかかわらず,白人層とアフリカ人層の所得格差は5対1以上,アフリカ人の失業率は40〜50%ともいわれる。また,ポートヒータースラス小学校でのアフリカ人の子ども入学拒否事件(1996年,最高裁は違法とする判決)など,アパルトヘイトの傷が癒えるまでにはかなりの時間がかかると思われる。

参考文献

  • レナード・トンプソン『新版・南アフリカの歴史』(宮本正興他訳,明石書店,1998)
  • エリス・キャッシュモア『世界の民族・人種関係事典』(今野敏彦監訳,同前,2000)
  • 峯陽一『南アフリカ−「虹の国」への歩み』(岩波新書,1996)
(今野敏彦)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:29 (1417d)