ハンセン病と人権【ハンセンびょうとじんけん】

〈ハンセン病とは〉

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 ハンセン病は,らい菌の感染による慢性感染症であるが,感染しても発症(病)することの極めてまれな病気である。そのことは1909年(明治42)日本に〈癩療養所〉が開設されて以来,医師・看護婦などの職員から一人の罹患者も出なかった事実が証明している。しかし一般には,その症状が身体の異形・変形を伴うことや,この病気とわかると生涯療養所に隔離されることなどもあって,人々に恐れられていた。

 感染から発症までの期間(潜伏期)は長く,なかには20年にも及ぶケースもあり,この場合はいつどこで感染したかの確認は困難だが,一般的には疫学的研究の結果,幼児期家庭内で患者と長期にわたって生活をともにした場合に発症の多いことが判明している。

 症状は千差万別であるが,初期症状としては知覚マヒを伴った皮疹が一般的で,進行に伴って顔面や手足に結節が隆起し,やがてそれが潰瘍となり化膿する。毛髪の脱落,鼻の陥没,四肢の欠損,失明などの症状が加わる場合もあった。

 治療法として大風子油の筋肉注射が用いられてきたが,多くの場合,完全治癒はみられなかった。アメリカで化学療法剤プロミンの有効性が報告されたのは43年(昭和18)であったが,日本でこの薬による治療が開始されたのは戦後2,3年たってからであった。その薬効はすばらしく,ハンセン病は治癒する病気となり、患者たちを非常に喜ばせた。学会でも治癒の症例が次々と報告され,55年頃からは社会復帰者もあった。80年頃になると,多剤併用療法(リファンピシン,ダプソン,クロファジミン)がさらに有効な治療法として確立。しかし、治療薬の効果以上に、社会的経済的条件の改善によりハンセン病は減少することが知られている。現在の日本における発症は年間10例以下で,近い将来なくなることが推測されている。

 かつては〈癩病【らいびょう】〉と呼ばれていたが、この呼称には古来からの偏見・差別の印象が強いので,患者団体(全国ハンセン病患者協議会=全患協)が,らい菌の発見者にちなんだハンセン病に変えることを提唱し,それを受け96年(平成8)日本らい学会が検討し,病名をハンセン病に変更するとともに同学会も日本ハンセン病学会とした経緯がある。

〈ハンセン病の近代史〉

 ノルウェーの医師アルマウエル・ハンセンがらい菌を発見した1873年(明治6)を境にして,ハンセン病の疾病観は大きく変貌した。それはハンセン病の発症が同一家族に多かったため,遺伝病だと考えられていた社会通念が,根底から崩壊したからである。病原菌によって感染する病気となれば,人々はいつ自分が感染するかもしれないという恐れから,患者を危険な存在と見なし,その結果,感染を免れるために,患者を社会から排除し始めた。

 わが国においても,1907年,社会全体の安全を守るという理由で,〈癩予防ニ関スル件【らいよぼうにかんするけん】(法律11号)〉(1931年に癩予防法と改正)を制定,放浪する患者の救護と病毒の伝播を防ぐ措置を目的とした。2年後の1909年,患者収容の受け皿として全国5カ所に府県連合立の癩療養所を開設し,法による患者の隔離を開始。

 30年になると,岡山県に国立療養所第1号として長島愛生園【ながしまあいせいえん】が開設され,隔離政策の推進者であった光田健輔【みつだ】が園長に就任し,強制収容は一段と厳しさを増していった。官憲による患者収容と患家の徹底した消毒に加えて,政府は恐るべき伝染病であるかのごとき誇大宣伝をしたため,ハンセン病はコレラやペスト以上の恐るべき伝染病にされてしまった。36年頃に〈無癩県運動〉が〈祖国浄化〉の旗印をかかげて展開され,いわゆる〈患者狩り旋風〉という,患者にとっては恐怖暗黒の時代を迎えることになる。国立療養所は次々に開設され,府県連合立の療養所も国立に移管されたので,44年には国立は全国で13カ所となり,他に私立が3カ所あった。

 戦後の47年に基本的人権の尊重をうたった新憲法が施行されたが,ハンセン病患者はその圏外にあった。そのことは,48年改正の〈優生保護法【ゆうせいほごほう】〉にハンセン病患者の断種と妊娠中絶の条項が加えられていることからも明らかである。〈伝染〉を強調してきた政府に対し,この法律に〈癩〉を規定することの矛盾をただす質問は出なかった。

 51年11月3日,長島愛生園長・光田健輔が文化勲章を受章し,その直後の8日,参議院厚生委員会において3園長(光田,林芳信,宮崎松記)が,〈癩予防法〉改正について証言し,そのなかで光田は〈手錠でもはめてから捕らまえて強制的に入れればいいのですけれど…〉と述べ,入所規定の強化のほか,入所患者に対する〈逃走罪〉の制定など,患者の人権をまったく無視した要請をするという問題証言をしている。

 翌52年7月頃,この3園長証言が患者側に伝わり,全国国立癩療養所患者協議会の各支部の会員は激怒,強制収容の撤廃をめざす法改正の運動は,改悪阻止へと悲愴感を深めていった。各支部においては,患者作業の放棄やハンストなどの抗議運動を展開,各支部代表および多磨支部会員と本部事務局は,国会・厚生省前にテントを張って座り込み,議員を通じて政府との交渉を続けた。しかし法案は,53年8月6日,無修正のまま参議院を通過,〈らい予防法〉として15日施行された。

 改正〈らい予防法〉には新薬プロミンによる治療実績はまったく反映されておらず,隔離規定はかえって強化され,〈治癒退所〉の規定は盛り込まれなかった。参議院厚生委員会は全患協の要求した9項目の付帯決議を行ない,〈近き将来本法の改正を期す〉と総括している。しかし厚生省は,96年(平成8)4月、〈らい予防法の廃止に関する法律【らいよぼうほうのはいしにかんするほうりつ】〉が制定・施行されるまでの43年間,参議院の付帯決議の一部は実行したが,法改正については放置してきた。

〈ハンセン病と解放運動〉

 全国国立癩療養所患者協議会【ぜんこくこくりつらいりょうようしょかんじゃきょうぎかい】(全癩患協,のちに全国ハンセン病患者協議会【ぜんこくはんせんびょうかんじゃきょうぎかい】=全患協,現在は全国ハンセン病療養所入所者協議会【ぜんこくはんせんびょうりょうようしょにゅうしょしゃきょうぎかい】=全療協【ぜんりょうきょう】)が結成されたのは,51年1月であった。全国13カ所の国立ハンセン病療養所患者自治会を統合する本部事務局が,東京の多磨全生園内に開設された。その直後の1月29日,山梨県でハンセン病の病苦にまつわる悲劇で一家9人が服毒心中するという事件が発生,開設したばかりの事務局は大騒動となった。各支部に連絡して抗議行動を展開し,1月30日には機関紙『全癩協ニュース』【ぜんらいきょうにゅーす】第1号を創刊,啓発宣伝活動を開始した。(この機関紙は,機関紙名も『全患協ニュース』から『全療協ニュース』と変更、隔離の中の患者運動にとっては命綱であり,2000年10月現在847号を数え,現在も続刊されている)

 その後の40年間,〈らい予防法〉の改正は全患協運動史のなかで何回か議題に上ったが,各支部の足並みはそろわず,また運動も盛り上がらなかった。厚生省の法律の弾力的運用と施設の改善,生活・処遇の向上などのなかで,空文化した〈らい予防法〉にこだわる人は減少し,むしろ法改正で現行の処遇を失うことを恐れる人が増えていったのである。

 この間,一部ではあるが、出版・マスコミにおいて,あるいは部落解放運動の中で,ハンセン病問題に少しずつ関心がもたれはじめた。兵庫解放教育研究協議会を中心とする〈らい園の医療と人権を考える会〉の文書活動や,福岡県同和教育研究協議会会長を20数年務めた林力は,講演や著書の中で〈私の父は癩病だった〉と告白,ハンセン病の偏見・差別を告発している。

〈現状と今後の課題〉

 84年夏から秋にかけて当時の全患協会長・曽我野一美は,全国のハンセン病療養所13園をまわり,〈らい予防法〉改正に向けての機運を盛り上げるべく運動をした。その後,91年4月厚生省に〈らい予防法改正要求書〉を提出した。これを受け厚生省は元厚生省医務局長で財団法人藤楓協会理事長・大谷藤郎に依頼し,〈ハンセン病予防事業対策調査検討委員会〉を発足させている。94年4月20日,大谷が〈らい予防法改正に関する私の個人的見解〉を発表。これに同調する〈見解〉が,ハンセン病療養所所長連盟や日本らい学会から発表された。

 96年4月1日,〈らい予防法〉は廃止され、〈らい予防法の廃止に関する法律〉は施行されたが,そこに国の責任は明示されておらず,すべての補償が不問のままである。高齢になった在園者(2000年現在平均年齢74歳)の医療,福祉を含めた今後の療養所の将来構想や社会復帰者に対する援助策の不十分さなど多くの課題を抱えている。

 98年7月31日,九州のハンセン病療養所・星塚敬愛園(鹿児島県)と菊池恵楓園(熊本県)の入所者13人が熊本地裁に,国の誤ったハンセン病政策によってもたらされた人権侵害を含む長期の苦痛を与えられたとして,1人当たり1億1500万円の支払いを求める〈らい予防法違憲国家賠償請求訴訟【らいよぼうほういけんこっかばいしょうせいきゅうそしょう】〉の訴状を提出。同年8月29日,第2次訴訟がおこされ,同趣旨の訴訟は東京,岡山でも起こされ,全国13の国立ハンセン病療養所の在園者,社会復帰者も含む原告は約500人(2000年5月現在)を超えて,ハンセン病の人権闘争は新しい局面を迎えつつある。

参考文献

  • 全国ハンセン氏病患者協議会編『全患協運動史』(一光社,1977)
  • 林力『父からの手紙――再び「癩者」の息子として』(草風館,1997)
  • 山本俊一『日本らい史』(東京大学出版会,1993)
  • 藤野豊『日本ファシズムと医療』(岩波書店,1993)
  • 島比呂志『「らい予防法」と患者の人権』(社会評論社,1993)
  • 大谷藤郎『らい予防法廃止の歴史』(勁草書房,1996)
(島 比呂志)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:32 (1354d)