愛媛県【えひめけん】

[現状]

 1993年(平成5)に総務庁が実施した〈同和地区実態把握等調査〉によると,県内の部落は457地区で,福岡・広島に次いで多い。100世帯以上の部落は10地区しかなく,少数点在部落がほとんどを占めている。地区全体4万2571世帯12万1011人のうち,〈同和関係人口〉は1万1510世帯3万2923人で、混住率は27.2%。本県では従来,部落は600地区あるといわれているが,部落の世帯数および人口は減少傾向にある。これは農村部の過疎化の進行による部落人口の低下によるものである。

 75年(昭和50)総理府〈全国同和地区調査〉以降,愛媛県として独自の調査が行なわれていないため生活・就労・教育などの実態は把握できないが,八幡浜市が85年に実施した部落実態調査では,就労の実態については失業率がきわめて高く,市内の部落では26.2%に達しており,市全体(2.2%)の12倍以上と深刻であることがわかる。さらに就労形態では,常雇用者が54%,不安定雇用者(臨時・日雇い・パートなど)が45.9%となっており,就労の不安定さが浮き彫りにされている。仕事の内容では〈専門的・技術的・管理的職業従事者〉が1.3%で市全体(11.6%)に比べてきわめて少なく,〈事務職〉は市全体の半分以下となっている。一方〈技能工・生産工程従事者・単純労働者〉は56%で,市全体(25.3%)の2倍以上もあり,就労構造のなかにも部落差別の結果をみることができる。また,健康面においても,健康でない者は37.6%で全国平均(12.4%)の3倍になっている。教育について最終学歴の面からみると未就学が8.5%,大学卒は1.1%となっており,市全体と比較して未就学の比率は21倍,逆に大学卒は12分の1と著しい格差を示している。被差別体験では中学生以上の回答者のうち69%が直接差別を体験・見聞しており,被差別体験を年代別にみた場合,最近の傾向として増加していることが明らかである。また被差別体験の場は結婚(34%),就職・職場(18%),学校(13.5%),地区周辺(13%)となっている。

 また,松山市が97年9月に実施した〈同和問題に関する市民意識調査〉(市民6000人無作為抽出法による無記名アンケート調査,うち4000人は成人男女,回収率51.9%)では、部落の起源について〈江戸時代支配者が民衆を支配するために作った〉と回答した人が30.1%,〈特定の職業についていた人たちを集めてつくった〉と回答した人が27.3%と,前回(1992年調査74.3%)に比べて政治起源説をとる人が後退しており、〈同和問題にかかわる差別問題があると思いますか〉という設問に対しては,78.5%の人が差別が残っていると答えている。〈それはどんなときか〉という設問では結婚が多く,次いで居住地,就職の順となっている。また〈過去3年間に同和問題の学習会や研修会などに何回くらい参加したか〉という設問に対しては65.2%の人がないと答え,前回(49.5%)に比べ増加。〈家族から同和問題について差別的な言動や話が出たとき,どのようにするか〉という設問に対しては誤りを正すが49.2%と前回(63.8%)に比べ減少し,家族の意見に合わせるが10.5%と,前回(3.8%)に比べ増加している。松山市では近年,県内の他市町村からの人口流入が進み(20年間で10万人増加),これを受けて地区人口も2万2000人増加しているが,同和関係人口は逆に5000人減少し(混住率13.1%),総じて自主的な解放運動が弱いことも重なって,融和主義的で行政主導型の啓発・教育のあり方が,この市民意識調査の結果にも表れている。

(松尾幸弘)

[前近代]

 愛媛県は藩政時代伊予八藩といい,東予に西条・小松・今治,中予に松山,南予に大洲・新谷・宇和島・吉田の各藩,さらに東予を中心に天領が入り組む複雑な領有関係にあり,賤民支配についても異なった展開をしており,統括して述べることは困難である。総じていうなれば,部落は本村の一隅に存し,宗門改,年貢納入,救恤等の行政上は各村庄屋の支配,だいは(もらい)・斃牛馬処理・行刑等の公役・犯罪等による処罰等〈えた〉身分にかかわる支配は〈*えた頭〉(えた庄屋【えたしょうや】ということもあった)の権限であった。賤民の所在を示す最古の資料は天正18年(1590)宇和郡野村の検地帳で〈かわや〉の肩書きがみえることである。寛永12年(1635)から寛文1年(1661)の検地帳等で西条藩1,小松藩1,今治藩24件の〈かわた〉身分記載があり,貞享3年(1686)から元禄13年(1700)の検地帳では今治藩〈かわた〉5,〈えた〉25,松山藩〈えた〉2,宇和島藩〈かわた〉4,〈えた〉23件の記載例がみられる。宇和島藩の野村・明石村では同一帳簿(高付帳)において〈かわた〉〈えた〉が混用されている。なお宇和島藩の文政2年(1819)から天保12年(1841)の検地帳では〈かわた〉〈えた〉の記載が各1件あるのみであり,〈えた〉の所有地に〈横目下作〉と肩書きしてある例が27村ある。〈えた〉の土地所有の事実は認めながら,その所有権を奪い,村役人である〈横目【よこめ】〉の監理下においたものであろう。

 各藩に〈えた頭〉がおかれており,大洲藩・宇和島藩は二人頭制で,藩領を二分して配下の〈えた〉を支配した。頭制の成立期は確証はないが,松山藩では角力取から,宇和島藩では近江国彦根より流れ来た貴人が屠者となり,藩政初期より頭に任ぜられたと伝承する。頭筋の家はそれぞれに出自は武士であるというような伝承をし,またいわゆる〈*河原巻物〉を宝蔵していた。西条藩下泉川,天領壬生川,宇和島藩八幡浜の3例が知られるが,いずれも寛文3年(1663)3月のものであるので,県内には同一種のものが流布していたものと察せられる。幕末,松山藩には〈えた頭〉のもとに〈組頭〉〈打廻り〉〈町方打廻り〉〈町方年行司〉〈諸郡打廻り〉〈諸郡打廻り手先〉等の支配組織が形成され,島方にも頭がおかれていた。小松藩では寛政3年(1791)北条村太右衛門が〈御領分えた頭〉に任ぜられるまで,複数の〈えた頭〉が存在した。このことから〈頭〉制の成立期も特定できない。

 〈えた〉身分に対する差別法は,安永7年(1778)の幕令以後,各藩ともしばしば触れているが,平人との区別をつける方法として,宇和島藩は髪型,大洲藩は髪型に加えて目印に皮をつける,松山藩は髪型と白えり掛けをその基本としている。松山藩では天保14年(1843)〈えた〉役人に対して特権的な服制【ふくせい】(白えり掛け不要,羽織着用御免)を認め,さらに安政5年(1858)〈えた〉全体に〈髪結の違様,白えり掛見逃し〉を触れている。これに対して東予の各藩では,このような服制が明示されていない。西条藩では弘化3年(1846)続発する平人と〈えた〉の紛争(差別事件)に対し,〈えた〉の〈不作法〉を戒め,改めなければ〈見分出来候様〉に服制を定める旨触れている。

 宇和島藩では文化13年(1816),〈えた頭〉の不当な支配・収奪にたまりかねた配下の〈えた〉が,頭への不服従を叫び,村方支配(庄屋)を願い,〈河原家督〉を返上し,百姓をもっぱらに生きたいと嘆願し,徒党する闘いを3年にわたり続け,一時は庄屋・代官の支持・理解も受けたが,封建身分支配の体制を破ることはできなかった。明治維新の諸改革では,賤民身分の撤廃が積み残されたことに対し,松山藩の〈えた頭〉半右衛門は,この撤廃を県庁に嘆願したという。〈解放令〉の発せられる直前,明治4年(1871)松山藩全域にわたり,〈えた〉の頭への不満が爆発し,徒党,焼き打ちなどに発展した。〈解放令〉が発せられることによって,この解放のエネルギーは平民社会に対する平等要求に向けられ,庄屋の家にあがる,道後温泉に入浴するなどの闘いが繰り広げられた。

(高市光男)

[融和運動]

 〈解放令〉の発布により平民社会への互入を要求する部落民と,これを拒否する平民の間に立ち,松山県・神山県は告諭を出し説得にあたるが,双方に紛争が絶えないのは,つきつめれば〈旧穢多共非常之御仁沢ニ乗シ,前日之身分ヲ不弁ヨリ紛擾ヲ引起候情態ニ可有之…銘々昨日之身分ヲ顧ミ万事平民ニ先達不申様可致〉(石鉄県布達)とし,解放の要求を封じ込めてしまった。神恩を植えつけ平民への納得を得ようと,村々の氏神において部落民の清め祓いを強行するが,このことによって村落共同体に互入することはできず,政治的・経済的・社会的差別は依然として厳しかった。1903年(明治36)愛媛県会において宇摩郡選出議員*安藤正楽【あんどうせいがく】は部落民に対する差別教育の実態を,孤立無援のなかで3年間にわたり追及し,1907年県当局は部落の分教場の廃止・差別教育撤廃を指示した。この背景には部落民の差別撤廃要求の闘いが,各地で種々の形で進められていたことがある。1908年〈戊申詔書〉が出されると,国・県の行政は,これを奉体し,自主的自発的に起こっていた各地の部落改善運動を,天皇制国家の精神運動に誘導し,さらに広げるために21年(大正10)部落の代表を招集し,各郡で地方改善代表者協議会を開き,各部落に矯風会【きょうふうかい】の設立を指示した。

 23年愛媛県水平社の設立とその勢力の拡張に驚いた県当局は,愛媛県善鄰会【えひめけんぜんりんかい】を設立,部落内外に会員を募り〈相互の融和〉をはかろうとしたが,会長は知事,副会長は内務部長・警察部長,幹事長は社会課長であり,郡市支会は会長は郡長,副支会長は警察署長,町村分会も会長は市町村長,副分会長は助役・巡査・小学校長がその役職を占め,部落民や改善運動家などの発言力は抑制され,部落民自身の自主的解放運動は抑えられた。善鄰会は表面的には水平社との対立を避け,水平社の勢力の弱い南予から体制を固め,水平運動の広がっていた中予では,これに批判的な改善運動家などを集め中予善鄰会として組織するなど地域に応じた組織がなされ,最終的には部落の有無を問わず全市町村に配置されるよう取り組まれたが,水平運動の続けられた東予(周桑・宇摩・新居)に支会が設立されたのは36年(昭和11)から38年のことである。31年こうした善鄰会にあきたらず,宇和島市の部落民を中心に南予青年融和連盟【なんよせいねんゆうわれんめい】の設立が〈南予に散在する吾々の兄弟よ,長い間差別苦の体験を受けて来た同志よ〉と呼びかけられたが,社会運動化(水平運動化)するおそれがあるとして,おしつぶされた。

(高市光男)

[水平運動]

 1923年(大正12)4月18日,温泉郡拝志村(現重信町)に初めて水平社支部が結成され,同23日同村*松浪彦四郎方に〈愛媛県水平社【えひめけんすいへいしゃ】〉の旗が掲げられた。同時に各地で講演会を催し,また差別撤廃,糾弾などの運動が繰り広げられた。〈解放令〉の発布された記念日8月28日には明治天皇追悼会を役場の職員,警察官まで招いて行なっている。拝志村水平社設立の中心人物となったのは,上田時次郎・上田米市【よねいち】・谷松安太郎らで,これを指導したのは松浪彦四郎【まつなみひこしろう】であった。松浪は,『愛媛新報』の記者に迎えられ,紙上で大いに論陣を張り,水平運動の発展に大きな役割を果たした。24年度県予算編成にあたり,部落改善費の予算化に反対してこれを葬るという影響力ももった。県水平社東予では水平運動は農民運動と結びついて発展し,26年の県水平社大会からは県水平社も東予の周桑・宇摩および青年同盟の主導のもとに,労農水の*三角同盟へと進む。県議選,普選後の総選挙において*労働農民党を支援するなど政治闘争にも努めた。29年(昭和4)の県水第4回大会では〈新しき星は実に賤視観念の存在理由を増長せしめる資本主義との現実的闘争に輝く〉と宣言している。

 こうした過程で,従来広範な部落大衆を結集していた水平社も,部落改善・融和運動の誘惑,たび重なる官憲の弾圧・干渉により運動の低迷を余儀なくされた。さらには中心的活動家が,無産運動・農民運動に没頭するなかで,全水解消論が唱えられ組織は壊滅状態となる。33年,*高松差別裁判糾弾闘争が提起された時には,この闘いを全県的に組織する力を失っていた。そのなかで,農民運動の指導者であった*小林実は,温泉郡を中心に1000人の大衆を組織する抗議集会を33年11月,温泉郡北吉井村で開いた。

(高市光男)

[戦後の解放運動]

 1946年(昭和21)部落解放全国委員会結成後に,解放委愛媛県連準備会の組織化が進み,同年3月愛媛人民解放連盟が結成され,議長に中西昌晴が選出された。47年7月30日*久米村差別事件【くめむらさべつじけん】で部落青年10数人が起訴されたとき,友愛委員会が〈人民融和体制〉のもとでつくられた。48年12月15日解放委愛媛県連が発足し,初代委員長に原宰三【はらさいぞう】を選出。愛媛県連は友愛委員会を批判しつつ,久米村差別事件公判闘争を展開する一方,越智郡大山村での農地問題を契機に農地改革の問題や税金問題を組織拡大・強化と結びつけて活動を行なった。同年10月16日宇和島市八幡神社祭礼差別暴行事件(*宇和島差別殺傷事件)で部落出身の3人が暴力団に襲われて死亡,正当防衛にもかかわらず,暴力団にも2人の死者が出たため,双方合わせて10人が起訴された。愛媛県連は解放委本部の援助を受けて,公判闘争と同時に行政への追及を進めた。県連委員長は2代目に村上栄太郎【むらかみえいたろう】,3代目には*山下友枝【やましたともえ】が選出された。女性委員長は初めてのことである。山下は婦人部結成に力を注いだ。

 60年3月20日部落解放同盟愛媛県連14回大会を最後に活動を停止。61年4月行政の事業窓口であった愛媛県同和事業対策協議会(同事協)の有志を中心に愛媛県同和対策協議会【えひめけんどうわたいさくきょうぎかい】(県同対協,初代会長は宇都宮孝平・松山市長)が結成された。その後,県同対協は県民総ぐるみ組織として〈対話と協調〉路線のもと県知事を会長(支部では市町村長が支部長)に窓口を一本化して運動を展開していくが,71年の県同対協第11回大会ごろからしだいに部落民の自主的な解放運動を否定,排除していく。このため県同対協の運動に批判的な活動家を中心に76年10月14日松山市で愛媛県連準備会(委員長・福岡実一)が発足した。さらに77年10月24日松山市で,愛媛地評とその傘下の労働組合と愛媛県連準備会で部落解放愛媛県共闘会議が結成され,労働組合の中に運動を広げていく。愛媛県連準備会は,さまざまな差別事件(76年松山日赤病院差別事件,国鉄松山電気支区保線支区合同庁舎差別落書き事件,松山市福祉部長差別発言事件,78年伊予市郡中小学校差別事件,79年自民党塩崎潤議員差別発言事件,菊間町結婚差別事件,83年国鉄松山電気支区差別落書き事件)に取り組みながら,組織再建をはかる。とくに79年八幡浜市神宮通福祉会館の運営管理をめぐって町内会や解放同盟八幡浜支部との約束を行政当局が反古にした問題で,1年間に及ぶ差別行政糾弾闘争(八幡浜闘争)を展開し,勝利する。これらの運動が端緒となり,86年5月松山市において愛媛県連再建大会(委員長・宇都宮富夫)を開催。県同対協とは別に、部落民自身による自主的な解放運動が展開されていくことになる。

(松尾幸弘)

[戦後の教育]

 1947年(昭和22)の久米村差別事件や48年の宇和島差別殺傷事件を契機に,県内の同和教育の萌芽がみられた。51年12月19日宇摩郡天満村立清寧中学校で県内初の人権尊重研究大会が催された。これが端緒となり,全県的組織結成の機運が盛り上がり,54年12月5日に愛媛県同和教育研究協議会(県同教)が結成され,55年6月3日全国同和教育研究協議会第3回総会で全同教に加盟した。しかし,57年県教育委員会と県教職員組合が勤務評定導入をめぐって対立することとなり,同和教育は後退した。県同教は再建のため66年12月に準備会をつくり,68年3月26日に再発足。71年まで学校同和教育部と社会教育部で構成されていたが,72年から就学前教育部,小学校教育部,中学校教育部,高校教育部,社会教育部,行政部が置かれ,74年より編集特別委員会,歴史学習特別委員会,教科書問題特別委員会等の特別委員会が置かれている。なお,県同教は72年より愛媛県同和教育協議会と改称。機関紙『えひめ同和教育』を72年12月に特集号として刊行,73年3月に創刊号を出して以来,毎年3回刊行している。会長(代行)は亀岡秀雄。愛媛県における同和教育副読本は,小学校向け『きょうだい』、中学校向け『ほのお』、高校向け『人間の輪』【にんげんのわ】を用いている。県教委は61年度から73年度まで社会教育課をその窓口としてきたが,74年度からは同和教育室を設置(77年同和教育課に変更)して今日に至っている。

(松尾幸弘)

参考文献

  • 高市光男『愛媛部落史資料』(近代史文庫大阪研究会,1976)
  • 同『続 愛媛部落史資料』(同前,1983)
  • 同『愛媛近代部落問題資料』上・下(同前,1979・80)
  • 『今日より明日へ――愛媛同和教育30年の歩み』(愛媛県同和教育協議会,1997)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:34 (1354d)