茨城県【いばらきけん】

[現状]

 茨城県内の被差別部落は利根川流域を中心に県西、次いで県南地域に多く、その他の地域には少ない。相対的に規模の大きい被差別部落も、県西・県南地域に集中している。ほとんどが農村部に位置し、少数点在型で、大都市のような密集地区は少ない。1987(昭和62)年度末以来、県が同和地区として指定しているのは22市町村37地区であり、そのうち調査できない1町5地区を除いて93年(平成5)の総務庁調査によれば、同和関係世帯数1137世帯、人口4604人、混住率29.4%となっている。しかし35年調査では57地区と報告されており、それらの地区は必ずしも消滅したわけではないので、少なくない未指定地区が存在していることになる。近年、地区内の同和関係人口の減少と混住が急速に進行している。混住の度合いは、関東6県のなかではもっとも緩やかであるが、全国平均よりは進行している。高齢化は全国の被差別部落に比べてそれほど進んでおらず、44歳以下の若年・壮年層が全国平均よりやや高い。

 環境改善事業は69年度から93年度までで237億円余の事業費が投入され、生活環境の改善は進んだ。85年の地域啓発等実態調査によれば、21市町村の139人のうち、〈10年前と比べて現在の同和地区は改善されたとお考えですか〉という質問に対して〈かなり良くなった〉が87人、〈少し良くなった〉が43人と、あわせて93.5%に上っている。しかし生活保護率は93年調査で11.1‰と、全国の被差別部落の52‰に比べると低いが、県平均の3‰の4倍に近い。

 とりわけ特徴のある部落産業はなく、やはり93年調査で農業経営世帯が29.6%と全国の被差別部落より約10%高い。専業農家もそのうち22.4%を占めるが、経営土地面積が50a未満の農家が40%、農産物を販売しない農家が26.4%を占め、小規模・零細農家が多い。事業経営世帯は27.2%で、製造業、建設業、サービス業の順に多いが、約8割が個人経営で、69.6%が4人以下の零細企業である。雇用者のうち常雇は50.7%と低く、年間収入も399万円以下が79.8%と高い。有業者のうちの転職希望者も12%と県平均より高く、その理由は〈収入が少ない〉が半数に近く、次いで〈将来性がない〉が多い。高校進学率の格差は縮まっており、96年春の中学卒業生は、県平均で95.5%が進学、被差別部落では93.5%で、最近は2%前後の差で推移している。

(千本秀樹)

[前近代]

 茨城県における前近代の部落史の研究は立ち遅れているが、近年水戸藩における部落史が明らかにされてきている。それによれば、15-16世紀末に水戸城に居城していた江戸氏は、水戸郊外の吉田村に居住していた皮多集団を支配下においていた。江戸氏が佐竹氏に滅ぼされると、皮多集団は平須村に移されその支配下に入った。17世紀初めに徳川幕府は佐竹氏を秋田へ移し、新たに徳川氏による水戸藩が成立した。水戸藩初期に、皮多頭大右衛門は藩に願い出て江戸浅草弾左衛門の支配から脱することを江戸町奉行所で認められた。こうして、水戸領の皮多集団は、日光領、喜連川領とともに江戸時代を通じて*弾左衛門の支配外となった。水戸領の皮多頭は代々五兵衛を襲名して平須村に居住し、水戸全領と周辺の他領の皮多、小屋主(非人)を支配していた。五兵衛をはじめとした皮多集団は年貢地を持ち、武具や馬具に用いる皮を作り藩に納めていた。村々で牛馬が死んだ場合は、その村の職場を預かっている小屋主が皮を取り、場主である皮多に納めていた。皮多頭はこの皮を独占的に買い付けていたのである。皮多集団にはこのほか、領内の村々に悪党・烏【 う】乱【らん】の者が入り込むのを防ぐ治安の任務、仕置という刑罰執行の任務が与えられていた。その一方で、皮多頭五兵衛は天明年間(1781-89)に困窮を理由に村々から勧【かん】化【げ】(勧進)を受ける権利を得た。また、村々をまわる芸能者を支配下においていた。さらには、金融業を営む者もおり、村々の皮多の職場の権利を抵当として金を貸していた。しかし、幕藩体制が動揺してくる江戸時代後期になると、処刑執行の帰りには渡し場を渡らせないなど差別が表面化してくる。とくに藩主徳川斉昭の行なった天保検地のときには、田畑保有を一般農民と区別し、年貢地であったのを見取地に改め、平須村の中央にあった皮多の家々を村の端へ強制的に移した。幕末、水戸藩では天狗・諸生の戦いが起きたが、皮多頭五兵衛配下の者は諸生党に加勢して天狗党と闘い、一部には身分解放をかちとったが、明治維新になってからは,逆に圧迫される立場となった。皮多頭の皮革製造の独占権は崩れ、権利が分割され、小屋主に対する支配も弱体化し、生活の保障を失ったなかで、明治4年(1871)の*〈解放令〉を迎えた。

(高橋裕文)

[近代]

 明治維新以降の県内の被差別部落に関する簡単な記述は、『民族と歴史』(1919.7)に掲載された長谷川凸津「常陸新治郡地方の特殊民」があるが、1921年(大正10)、茨城県内務部社会課が行なった〈地方改善に関する調査〉の報告書が最初の本格的な記録である。21年11月現在、45市町村62地区、759戸4742人とされている。24地区が5戸以下で、31戸以上は4地区にすぎず、最大は69戸。就業状況は、3117人のうち、本業を農業とする者2499人、履物業248人、皮革・食肉業140人であるが、副業として1410人が履物業、504人が農業、122人が大家福(門付け)、94人が皮革・食肉業、66人が商業などと、2208人が副業を挙げており、本業を農業と答えたとしても、それで生計が成り立っていた世帯はほとんどなかったと考えてよいだろう。田畑を持たない者321戸、3反以下の者243戸、あわせて74%という土地所有の状況もそれを裏付けている。国税の最高納税額は184円余りで平均4円強(全国平均65円余)、地方税平均納税額は約17円(県平均47円余)と、格差の大きさを表している。

(千本秀樹)

[融和政策・融和運動]

 1920年(大正9)、政府は*米騒動を受けて部落改善事業費5万円を計上するが、茨城県も翌21年から社会事業費のなかに部落調査改善費250円を計上、内務省からの部落改善事業奨励費250円とあわせて初めての施策を開始する。同年7月、〈社会事業委員設置規定〉と〈細民生活調査新規定〉を定め、前述の〈地方改善に関する調査〉を実施し、報告する。〈地方改善〉という用語が全国的に用いられるのは23年からであるが、茨城県ではやや先行している。また同調査の〈緒言〉が〈地方改善の問題は単に人道上の問題であるのみならず、実に国民品位に関する問題である〉としているのには、融和運動の方針である全国民の健全なる向上発達のための国民運動、同対審答申の〈国民的課題〉という発想がすでにあらわれているといえよう。

 1920年代後半、茨城県の地方改善事業は国庫補助金をあわせて年間約3000円が計上され、作業場の新設を中心に井戸の新設・改善等が実施された。30年代に入ると事業費は増額されて、30年代末期には年間2万円を突破している。各部落に地方改善会や実行組合が設立され、産業や環境改善にかかわるもののほかに、〈自覚厚生施設〉〈教育教化施設〉の充実にも重点が置かれるようになった。

 各府県に設立された社会事業協会は、茨城県においては難産であった。27年(昭和2)12月には〈御大典記念事業〉として茨城県社会事業協会設立委員会が開かれたが、県庁舎新築問題などで頓挫し、ようやく30年7月、知事を会長として創立総会と発会式を挙行するに至った。社会事業協会は社会事業全般を対象とするものであるが、業務の中心は29年に県社会事業主事補(1933年から主事)となった伊藤藤次郎【いとうとうじろう】が担ったようである。29年8月の第2回関東融和事業協議会は茨城県が主催し、伊藤も協議題を提出している。また伊藤は毎年、*中央融和事業協会主催の全国融和事業協議会にも出席し、*『融和事業研究』に論文を執筆している。「部落経済問題の一考察」「部落経済対策論」(1931)は、県内の被差別部落の実態を踏まえて将来展望を論じたものであり、「階級組織と賤視観念」(1931-32)、「部落問題における賤視観念と経済的力」(1933)は、階級、身分制度、イデオロギー、浄穢観、殺生戒、生命観などについて社会学とマルクス主義の概念を援用して縦横に論じ、資本主義社会における社会的イデオロギーとしての差別観念とは何かを論じたものである。伊藤が融和事業・融和運動で活躍するのは34年までであるが、今後、部落史において光をあてなければならない人物である。

 なお中央融和事業協会は25年度、真壁郡中村収入役であった光本佐中【みつもとさなか】を融和事業功労者として選彰している。光本は21年、地方改善社会事業委員を嘱託され、一部の被差別部落の抵抗を説得しながら地方改善調査を終え、被差別部落民の自覚による改善向上団体として〈三光会〉を設立した。

(千本秀樹)

[部落解放運動]

 1923年(大正12)3月の*関東水平社創立大会には茨城県からの参加者もおり、24年4月15日、新郷村(現古河市)中田で茨城県水平社【いばらぎけんすいへいしゃ】創立大会が開かれた。隣接する岡郷村でも25年2月、岡郷村水平社が設立されている。委員長はともに*多並鹿蔵【たなみしかぞう】。同人の数は不詳だが、29年(昭和4)の官憲資料で茨城県水平社が97人、岡郷村水平社が28人との記録がある。岡郷村水平社は30年に解散。多並は無政府主義者として官憲から〈思想要注意人〉に指定されて尾行がつくという弾圧を受けていた。県内で水平社が行なった糾弾闘争は、内務省警保局が把握した範囲では、27年から38年までの12年間で34件。差別言辞に対し、謝罪状などを要求している。当時警察は糾弾を犯罪と見ており、多並は傷害、恐喝などで起訴されている。多並は29年新郷村会議員(1期)、35年全国水平社中央委員となっている。40年には高岡三吉が全水中央委員に就任。40年には新郷小学校で松本治一郎の演説会を開いているが、県内の被差別部落の古老の間で松本より平野小剣の名前に馴染が深いように感じられるのは、多並が無政府主義者であったために、全水総本部よりは関東水平社との関係が強かったからであろう。

 戦後、76年、部落解放同盟茨城県連が結成され、差別糾弾闘争や行政闘争を展開。しかしそこから79年には部落解放愛する会茨城県連が、80年には茨城県部落解放運動連合会が分立し、85年には全日本同和会茨城県連が設立される。解放同盟県連は92年(平成4)、部落解放同盟全国連合会茨城県連に組織移行し、現在、県が窓口対応しているのは以上の4団体である。しかし同和対策事業費の使途をめぐって2団体が県の窓口対応を一時停止されるなど、茨城県内の運動は順調ではない。解放同盟県連の全国連への組織移行後、93年、解放同盟県連が新たに再建されたが、まもなく県連の機関は停止されることとなった。

(千本秀樹)

[戦後の行政・教育]

 茨城県における同和行政は、1969年(昭和44)*同和対策事業特別措置法が施行された段階で県社会福祉課に担当職員が配置されたが、県独自の事業は行なわれず、古河市など一部の市町村が地区内道路の整備事業に着手するなどのかたちで先行した。それが集会所整備、奨学資金貸付、通学用品支給、農林業同和対策事業、住宅新築資金貸付事業と範囲が広がるなかで、部落解放同盟県連結成の翌77年、県はまず福祉部長を会長とし庁内各課長を委員とする茨城県同和対策推進協議会を置き、次いで同和対策室を設置、10項目の県単独事業を創設して取り組みを強化した。79年には県内同和地区実態調査を実施して、翌80年同和行政推進基本方針、同和対策総合計画を策定した。〈基本方針〉では、〈自主的運動を行う団体と、常に緊密な連係を保つ〉としている。82年には県同和対策審議会を設置して〈今後の同和対策のあり方〉を諮問、翌83年、審議会は〈《今後の同和対策のあり方》について(答申)〉を県知事に提出した。総合計画も答申も、県民の理解と認識が不十分であることから、まず啓発の推進と同和教育の推進を課題として掲げ、続けて環境改善、産業、あるいは保健・福祉についての対策を述べる順序となっている。たとえば答申は、〈県民には自己の権利意識は高まっているが、他者の人権を尊重する意識が必ずしも十分浸透していない〉とみて、〈県民に対する啓発活動は、非常に重要な課題である〉と指摘した。県は答申を受けて、83年に〈県内同和地区実態意識調査〉、84年と92年(平成4)に〈同和問題に関する県民意識調査〉を実施した。86年には個人施策にかかる事業を推進するための茨城県同和対策事業審査会を設置している。69年度から93年度までの25年間で茨城県は国庫事業、県単独事業をあわせて40余りの事業(事業費ベースで総額約460億円)を実施してきた。地対財特法の失効を前にして県同和対策審議会は、92年に意見具申〈本県における今後の同和対策のあり方について〉、97年に意見具申〈同和問題の早期解決に向けた本県における今後の方策の基本的な在り方について〉を提出している。後者では、啓発、教育、就労・産業について、いずれもこれまでの成果を認めながらも不十分さを指摘し、〈適切な施策の積極的な推進に努めることが肝要〉と結んでいる。とくに末尾に〈特別対策の終了、すなわち一般対策への移行が、同和問題の早期解決を目指す取組みの放棄を意味するものではない〉ことに十分配慮することが必要であると付記されている。

 同和教育については、78年、県教委が〈同和教育の基本方針〉を策定し、校区に同和地区を持つ小中学校に加配教員を配置、80年、総務課内に同和教育室を設置した。82年には同和教育推進協議会が設置され、学校教育指導方針のなかに重点的に位置づけた。この年から同和教育研究指定校事業(2年継続、1校)と同和教育推進地域事業(2年継続、1市町)が取り組まれている。これらの事業は97年から〈*人権教育研究指定校事業〉〈*教育総合推進地域事業〉として再構成され、98年度からは初めて校区に同和地区を持たない中学校が指定された。小中学校の加配教員は98年度現在22市町村38人。県教委は年1回刊の『同和教育資料』(1998年度までに21集)、89年には『同和教育指導資料集』、97年度には小学校6年生用の副読本『楽しい仲間』を刊行、茨城県教育研究会は88年に内部に同和教育研究委員会を発足させ、毎年『同和教育研究委員会報告』を発行している。他県に比べて学校現場からの盛り上がりは弱く、県教委主導で同和教育が行なわれているといってよいが、〈顕現教育ではなく帰納法で〉という立場のため、とくに最近は県内に被差別部落が存在することを知らないまま成人する青年が多い。94年には県独自の啓発映画「三人兄妹」を完成、自治体を通して県民に貸し出すなどのかたちで活用している。

(千本秀樹)

参考文献

  • 高橋裕文「水戸藩の部落政策と民衆運動」(『茨城近代史研究』7号、1992)
  • 岡野良平「『水戸藩の部落政策と民衆運動』をめぐって」(同8号、1993)
  • 中川浩一・森山峰子「茨城県同和対策事業前史」(『茨城大学地域総合研究所年報』11号、1978)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:35 (1354d)