岡山県【おかやまけん】

[現状]

 県内の部落数とその世帯数について1975年(昭和50)と93年(平成5)を比較すると、部落数は337から295と42少なくなっている。世帯数は7772世帯から1万4304世帯と増加している。人口は4万8430人から4万1986人となった。この結果、世帯当たり人数は,6.2人から2.9人へと大幅に減じている。なお全県平均(1992年)は3.21人である。部落数・世帯数から部落は少数・点在型であり、総世帯の29.7%が農業にかかわる(1993年岡山県調査)。以下93年総務庁調査にあわせて行なった岡山県の独自調査による特徴は,高齢者・母子・父子世帯が多く,〈夫婦とも部落の生れ〉が62.2%と全国の57.5%より高い。健康については〈よい〉が40.8%で全県平均に対し,4.5ポイント高い一方,〈あまりよくない〉・〈よくない〉の合計は15.5%と,全県平均9.7%より5.8ポイントも高い。生活保護世帯の割合は6.2%だが,うち市部は7.9%で郡部の3.2%の倍以上である。最終学歴世帯員数では,中等教育修了者が35.5%と全県より13.9ポイント低く,高等教育修了者は全県平均に対し3分の1(5.9%)である。部落の収入平均は統計上把握し難いが,有業者の1年間の収入299万円以下が67.4%を占めており,県平均の同区分50.3%から見れば,相当の格差があると認められる。住・生活環境は特別措置法以前の状況と大きく変わったが,教育・就業・産業・交際・文化・婚姻など,社会・生活の基本にかかわる問題については,根本的に変わったとは認められない。

[前近代]

 県北久米郡の部落伝承史料『貝阿弥系図』【かいあみけいず】に,〈16世紀末の天正年間に美作国屠者惣頭が26石で御奉公した〉という記述がある。また18世紀初め,県内における部落支配と部落差別が体制化されたと推定される時期に至る間の史料としては,次のようなものがある。慶長9年(1604)検地帳に美作・備中で〈かわた〉記載,正保2年(1645)備前,備中古高帳に枝村としての〈かわた〉記録,前述の系図にみられる貞享4年(1687)惣頭支配53カ村の記述,正徳2年(1712)備中における〈穢多〉の警務役の史料などである。これらの史料を通じて,しだいに差別と支配による部落の形成化がうかがわれる。文政1年(1818)の備前国絵図には〈カワタ〉部落が記載されている。天明2年(1782)の幕府による東西本願寺への強制改宗は,各地でさまざまな抵抗を引き起こした。備前では14年に及ぶ要求により,再び真言宗への復帰を勝ちとった闘いがあった。

 部落の仕事についての史料は少なく,地域的に形態も異なっていたと思われる。幕末期の*『禁服訟歎難訴記』【きんぷくしょうたんなんそき】には,〈皮多百姓村々〉として県南の53カ村が挙げられていることから,県南では農業の割合は高かったといえる。しかし,藁加工・機織り・皮革・行商などもあわせて営んだ。これらは部落の経済を支えるとともに,情報伝達も活発にした。*渋染一揆【しぶぞめいっき】はこれらの事情を背景としている。県北美作の津川原村では,農業に加えて馬力による物資輸送業が盛んであった。内陸河川の川船輸送をとりしきる部落の差配がいたことから,これらにも携わっていた。備前宿毛部落では回船問屋・両替屋があった。安政3年(1856)の岡山藩における部落の渋染衣服着用命令反対のいわゆる渋染一揆は,〈解放令〉以前の部落の特筆すべき組織的闘いであったが,同時にわが国で平等を要求する権利の闘いとして評価されるべきである。

[融和運動・融和政策]

 *〈解放令〉は県内の部落大衆に大きな変化を及ぼした。斃牛馬処理の返上・差別習慣の拒否など,平等への具体的行動を起こした。しかし,これらは部落外農民に不遜・驕慢として映り,1873年(明治6)5月、美作において部落民襲撃という事件を引き起こした。殺害された部落民18人,焼き打ち破壊された家屋314戸,処罰者数は2万6694人であった。〈解放令〉以後も部落に対する差別観念は基本的に変わらず,むしろ屠牛・皮革・免許行商・警察業務など特定の仕事をも奪われた結果,生活状態は悪化した。87年頃から宗教・教育・警察・新聞関係者による啓蒙改善運動が始まった。96年津山八出で正心団【せいしんだん】,98年備中手荘村で清進社【せいしんしゃ】などの融和団体が生まれた。1902年,当時の社会主義運動の影響を受けた*三好伊平次【みよしいへいじ】,自由党に加盟していた*岡崎熊吉【おかざきくまきち】らが中心となり*備作平民会【びさくへいみんかい】が結成された。これは自覚的運動を目標とした。1873年,明治六年美作騒擾【めいじろくねんみまさかそうじょう】で一家惨殺に居合わせた宰務正視【さいむまさみ】は備作廓清会【びさくかくせいかい】をつくった。明治末年、上道郡で〈自眠会【じみんかい】〉が生まれた。これは奈良の*燕会と似たものといわれるが,史料未発掘である。

 14年(大正3),三好,岡崎らは岡山県青年同志会【おかやまけんせいねんどうしかい】を結成した。これらは自主的な自覚運動を内容としており,10年の*大日本同胞融和会とやや性格を異にしている。20年に結成された官民合同の岡山県協和会【おかやまけんきょうわかい】は,同胞同愛,教育,生活改善,経済的組合活動を主な事業とした。これは35年(昭和10)岡山県融和事業協会【おかやまけんゆうわじぎょうきょうかい】と改称され,自主運動の姿勢は薄れ,風俗改善,人格養生など修養的なものとなった。そして41年同和奉公会岡山県本部に改組した。岡山県で最初に単県事業費を計上したのは21年である。25年岡山県法律制定期成会【おかやまけんほうりつせいていきせいかい】は,*差別言動取締法【さべつげんどうとりしまりほう】の制定を議会に請願し採択されている。23年岡山県水平社創立にともない,解放運動・融和運動とに分岐した。

[水平社運動]

 部落における自主的解放の機運は*米騒動を契機として起こった。1922年(大正11)全国水平社創立大会には*山本藤政【やまもとふじまさ】,山崎勝近【やまざきかつちか】,岩本昇【いわもとのぼる】,松岡勘一【まつおかかんいち】,森川寅平【もりかわとらへい】,長田安太【おさだやすた】,山崎利吉【やまざきりきち】,岡崎熊吉らが参加した。このうち山崎は県水平社創立大会で開会のあいさつをし,さらに弓削町長差別発言糾弾闘争で有罪の判決を受けているので,山崎が県水平社結成の中心人物であると思われる。23年5月10日,全水の*西光万吉,*米田富を迎えて岡山県水平社創立大会が行なわれた(委員長*三木静次郎)。県内では5月に宿毛,建部につづき竹田・倉敷・岡南で,7月には美作水平社,翌年には上道郡,徳芳,稲田村,連島,笠岡と各地の水平社が結成された。

 県水平社発足後ただちに弓削町長差別発言糾弾【ゆげちょうちょうさべつはつげんきゅうだん】を闘った。この事件で9人が起訴され,山崎ら7人が有罪となった。これが最初の犠牲者である。さらに財田小学校の差別糾弾を闘い,差別的言動の徹底糾弾という全水方針を貫いた。24年総同盟岡山県労組は,労農水の三角同盟設定を決議したが,県水の闘いの多くは,農・労と共闘した。25年には県水平社を含む岡山県無産者団体協議会【おかやまけんむさんしゃだんたいきょうぎかい】が結成された。28年(昭和3)普選にあたり,県水委員長の三木静次郎が労農党から推されて立候補,落選したが,全水組織内候補4人中では最多票を得た。県水平社は,最大の民主的大衆組織として,労農運動での中核的役割を果たしている。26年から38年に至る糾弾件数は,毎年全国1位か2位である。なかでも30年の久米郡*厚生小学校差別事件【こうせいしょうがっこうさべつじけん】は,ピオニールの組織と活動で,全国的に著名である。32年郷村,富田村の差別事件は役場の体質の問題であるとして,村長をも含めて糾弾した。この間33年4月,県水委員長*野崎清二【のざきせいじ】をはじめ,拠点の久米郡錦織では80人の逮捕者を出したが,運動は燃え上がり,34年の糾弾件数は73件となった。36年赤磐郡周【す】匝【さい】村の農業講習会での差別発言【すさいむらののうぎょうこうしゅうかいでのさべつはつげん】に対する闘いは,*松本治一郎委員長を迎えて全組織の取り組みとなり,同盟休校は1カ月に及んだ。三木県水委員長はこの闘いと弾圧のなかで亡くなった。日中戦争の激化,ファシズムのなかで水平運動は厚生皇民運動化した。41年まで組織は維持された。

[戦後の解放運動]

 部落解放全国委員会の発足に加わった野崎清二らは1946年(昭和21)3月3日岡山県人民解放同盟【おかやまけんじんみんかいほうどうめい】を結成した。その敏速さは戦前の闘いを背景としたものである。組織は全水,融和両関係者の総結集で,委員長はかつての融和団体活動家の中西郷弌【なかにしごういち】であった。行政要求としては,仕事・環境改善とともに同和教育委員会の設置がある。戦後最初の参議院選挙(1946.4)には,参議院地方区候補として、社会党公認で人民解放同盟の野崎清二が推された。47年に部落解放全国委員会岡山県連と改称(委員長・野崎清二)。戦後から60年に至る期間の活動は,戦前の闘いを基礎に差別糾弾,土地と仕事の要求,入会権の獲得,警察予備隊の演習場反対の活動を展開した。さらに日本原軍事基地反対などの平和運動にも主要な役割を果たした。また53年〈月の輪古墳発掘【つきのわこふんはっくつ】〉を大衆的な運動として取り上げた。57年には解放会館を建設。55年全国大会以降、部落解放同盟岡山県連となる。60年以降,組織は差別糾弾の闘いについては,全水の伝統のもとに組織をあげ、一致して取り組んだ。

 しかし日本共産党によるセクト的指導が強まり,選挙では政党支持自由を理由に非協力であった。68年参院選全国区候補に*松本英一を推薦した全国大会の決定に違反し,共産党候補と並列推薦し中央本部の批判を受けるという状況となった。こうした対立は69年*矢田教育差別事件をめぐって決定的となり,中央本部,全国大会の決定に従わない*岡映委員長をはじめとする一部の県連幹部は,70年に権利停止処分となり,全国大会方針に従う*大源実らが,県連再建の方針を出した。同年4月15日第22回再建県連大会には,共産党系県連指導部の誤った方針に厳しく批判する支部代表1500人が参集し,委員長に大源実を選出した。再建直後久米郡中央町長差別糾弾を闘いぬき,水平運動の伝統を復活させた。また71年県内最大の百貨店天満屋就職差別事件【てんまやしゅうしょくさべつじけん】に勝利した。以後岡山県連は全国大会の諸決定,方針に基づき,積極的な活動を展開し今日に及んでいる。78年岡山市に解放センターを建設し,同年旧解放会館を売却しようとした全解連に対し中止の仮処分を申請した。これは本訴で争われたが,92年(平成4)和解が成立した。以降、運動団体の変化があり,99年現在,部落解放同盟岡山県連(執行委員長・宮本繁),部落解放同盟岡山県連(代表・伊沢卓士),岡山県部落解放運動連合会(委員長・石岡克己),全日本同和会岡山県連(会長・本原明正),全国自由同和会岡山県連(会長・荒井信)全国自由同和会岡山県連(会長・欠)がある。

[行政]

 戦前における県内の同和対策は,部落の衛生・生活改善・自覚促進であり,部落差別は部落の側に原因があるという認識のもとに進められた。これは戦後の行政対応にも強く尾を引いた。異なる点は,1952年(昭和27)に,団体に対する委託指導助成による大衆的要求と,法による事業枠の調整作業が始まった点である。このため行政の事業は団体対応的な傾向をもつことになった。岡山県においては68年より,各界代表委員による岡山県同和対策推進協議会が設置され,この審議・答申に基づき,長期・短期の事業を進めた。国にかかわる事業のほかに県単独事業として生業資金・生活改善資金(結婚・環境)の貸し付け,各種学校進学助成・技能習得助成・住宅補修などを行なってきた。同和対策事業特別措置法以降の同和事業の推進によって,部落の道路・住宅・上下水道など環境の改善は著しく進んだが,一方長期的・総合計画に基づくものは少なく,対処的な事業が中心となっている。また就職・仕事など生活基盤にかかわる事業は,雇用ターミナル【こようたーみなる】・企業連活動がある。交際・結婚差別など社会生活の基本にかかわる教育・啓発事業は不十分である。80年から府県および市町村に専任の担当部署を設置したが,97年(平成9)より,同和対策を兼務化する行政が増えている。

[教育]

 岡山県の同和教育は,新憲法下〈部落問題の解決は,民主主義の徹底以外にない〉との認識のもとに他のいかなる名称も用いず〈*民主教育【みんしゅきょういく】〉として1950年(昭和25)出発した。さらに57年県教委の援助のもとに岡山県民主教育協議会【おかやまけんみんしゅきょういくきょうぎかい】(県民教)が,団体協議体の形で組織された。同和教育とは異称同質であるとしながらも,実質的には民主主義教育一般への解消であった。そして,*矢田教育差別事件を契機として,現場の教師,部落の父母から〈一般的民主主義教育にとどまるのではなく,部落差別を解消させる教育を行なうべきである〉という批判が強まった。解放同盟県連は79年より県および市町村教委に対し,名称と内容の変更を迫る取り組みを開始した。81年県教委は研究委員会を設置し,その答申を得て83年4月〈同和教育〉と改称。さらに84年6月新たに〈同和教育基本方針〉を定めた。一方,現場教師を中心に83年4月岡山県同和教育研究協議会【おかやまけんどうわきょういくけんきゅうきょうぎかい】が,個人・団体加入の全県組織として発足,83年8月1日第1回岡山県同和教育研究大会が開かれた。その後毎年開催され,現在に至っている。約2000人が結集し,部落解放をめざす教育実践に取り組んでいる。

参考文献

  • 岡山県『平成5年度同和地区実態把握等調査生活実態調査報告書』(1995)
(若林義夫)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:35 (1469d)