沖縄と人権【おきなわとじんけん】

 沖縄は,歴史的に見ても,現状においても,日本の中でもっとも独自な,あるいは特異な位置を占める地域である。歴史的にさかのぼれば,その独自性は,日本という国家の外側で独自の国家形成を行なったことに象徴され,現状における特異性は,米軍基地の集中に代表される。かつては,独自の歴史とその歴史に培われた個性的な文化が沖縄を異民族視する傾向を生み,それが社会的偏見や差別につながることもあったが,現在の沖縄をめぐる状況の多くは,基本的に,米軍基地の集中から派生している。人権の問題もその一つである。

(新崎盛暉)

[歴史]

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 沖縄という言葉は,厳密にいうと三つの意味に使われる。もっとも厳密には沖縄島(いわゆる沖縄本島)を指し,次に沖縄島の周辺諸島(沖縄諸島)を指し,もっとも広義には,宮古諸島や八重山諸島などの先島諸島を含む沖縄県の行政区域全体を指す。また,鹿児島県大島郡に属する奄美諸島【あまみしょとう】も,17世紀初頭の薩摩藩の琉球侵入以前は琉球の一部であり,文化的には琉球文化圏に属する。この琉球文化圏を指す言葉として,本来は地理学上の用語である琉球弧【りゅうきゅうこ】という言葉が用いられることもある。

 では,琉球弧の島じまには,いつごろから,どのような文化をもった人々が住みつくようになったのだろうか。那覇市山下町からは3万2000年前のものと推定される山下洞人【やましたどうじん】とよばれる人骨が発見されており,沖縄島南部の具志頭【ぐしかみ】村港川からは,1万5000年から8000年前の港川人【みなとがわじん】とよばれる人骨が発見されている。彼らがその後どうなったかは,まだわかっていない。先史時代の琉球諸島は,縄文・弥生文化の影響を受けた北琉球(奄美・沖縄)と南方系の先島文化圏の二つの先史文化圏に分かれていたと考えられるが,10世紀ごろになると,農業生産の本格化や,鉄器生産,窯業生産の開始にともなって広域流通が展開し,琉球文化圏が形成されていった。12世紀末から13世紀にかけて,琉球各地に地域豪族・按司【あじ】が登場し,それぞれ,独自に海外交易を行なうと同時に政治的統合をめざして戦い,やがて14世紀の沖縄島には,南山,中山,北山の3小王国が成立した。15世紀の初め,この3小王国が統一され,琉球王国【りゅうきゅうおうこく】が生まれるが,琉球王国は16世紀の中ごろまでに,北は奄美諸島から南は与那国島に至るまでの,約1000キロの海域に散在する島じまを版図として,中国(明)との進貢貿易をはじめ,日本・朝鮮・東南アジア諸国諸地域との仲介貿易によって大きな利益を得,独自の文化を発展させていった。

 琉球王国の独立性は,1609年の薩摩(島津)の琉球侵入によって終止符が打たれる。薩摩藩が琉球侵略に踏み切り,徳川幕府がこれを許可したもっとも大きな理由は,明との関係改善に琉球を利用しようとしたにもかかわらず,琉球側がその思惑通りに動かなかったことにあるといっていいだろう。したがって島津氏は,奄美諸島は直轄植民地として割き取りながら,沖縄島以南は尚氏(琉球国王)の支配を認めるという知行目録を渡して,形式的には琉球王国を維持させる政策をとった。中国との進貢貿易を続けさせるためである。こうして琉球(沖縄)は,<日本の中の異国>として位置づけられることになった。

 明治維新によって,近代国家への脱皮をはかった日本は,<日本の中の異国>琉球を近代国家日本の版図に吸収する必要に迫られた。そこで,1879年(明治12),民族統一と近代化を大義名分として,琉球処分【りゅうきゅうしょぶん】が強行されたが,中国(清)の異議申し立てや旧琉球支配層の抵抗にあうと,明治政府は,通商上の利益と引き換えに先島を中国に譲渡しようとしたり(分島・改約問題),近代化政策を凍結して旧慣温存政策に転じたりした。このため沖縄県の制度的改革は著しく遅れ,先島を含む沖縄全体が,地方制度のうえでも,国政参加権においても<本土並み>となるのは,1920年(大正9)になってからである。

 それからわずか4分の1世紀の後,沖縄は,地上戦の戦場となる。アメリカは,日本攻略の橋頭堡として,さらには戦後世界戦略の軍事的拠点として,沖縄に狙いを定めた。一方日本は,沖縄を,本土防衛の最後の防波堤として選び,45年(昭和20)3月から6月にかけて,多くの住民を巻き込んだ沖縄戦【おきなわせん】は,本土決戦のための,あるいは和平工作のための時間稼ぎに利用された。沖縄戦の結果、本土の兵隊6万5000人、沖縄出身の兵隊3万人、民間人9万4000人が犠牲となった。

 ポツダム宣言を受諾して日本が連合国に降伏すると,日本全土が米軍を中心とする連合国軍の占領下に置かれたが,沖縄は,日本本土と切り離されたまま米軍の単独占領が続けられた。52年4月,日本が独立を回復する際,沖縄は,対日平和条約3条によって,半永久的に米軍の施政権下に置かれることになった。対日平和条約と同時に締結され,同時に発効した日米安保条約【にちべいあんぽじょうやく】によって,アメリカは,日本全土に軍事基地を置く権利を獲得したが,米軍の直接支配下に置かれた沖縄と,主権国家間の条約によって軍事基地が置かれた日本本土では,その状況は本質的に異なっていた。日本では,民衆の権利を守る拠り所として,憲法を頂点とする法や制度が存在したが,軍事支配下の沖縄では,基地建設のための土地接収も,しばしば<銃剣とブルドーザー>によるむき出しの暴力が用いられた。

 本土では,民衆の反基地反米感情の盛り上がりもあって,旧安保条約成立(1951年調印)のころから60年の安保改定(現行安保条約の成立)のころまでに,米軍基地は,約4分の1に減少したが,同じ時期,沖縄の米軍基地は約2倍に増えた。日本を撤退した地上戦闘部隊(海兵隊など)の一部が,〈日本ではない沖縄〉に集結したからである。基地のしわ寄せであった。それでも,沖縄民衆の米軍支配に対する抵抗闘争は粘り強く続けられた。それは,65年のアメリカのベトナム内戦への全面介入を契機として,アメリカ国内を含む世界的なベトナム反戦運動と連動しながら,大きく発展した。このためアメリカが単独で沖縄を支配することは,きわめて困難なものになっていった。

 一方,経済大国から政治大国への道を歩みつつあった日本にとっても,自国の領土と人民の一部が同盟国の支配下に置かれている現実を放置しておくわけにはいかなかった。こうして日米両国は,沖縄返還交渉【おきなわへんかんこうしょう】に具体的に取り組むことになった。しかし,沖縄返還交渉の主要なテーマは,アメリカが支配している沖縄を日本に返すことそれ自体にあるのではなく,沖縄返還によって日米の協力関係,すなわち日米同盟をどのように強化するか,ということにあった。

 沖縄を72年中に日本に返還するという合意は,69年11月の日米首脳会談において成立したが,沖縄返還の前提として日本は,アメリカのベトナム政策の支持,東南アジアの軍事政権への経済援助の肩代わり,貿易自由化の促進,軍事力(自衛力)の増強,自衛隊による沖縄防衛などを確約した。沖縄基地の態様は,<本土並み>であることが強調されたが,核持ち込みに関しては日米双方に微妙な見解の相違がみられ,また,韓国や台湾と日本の安全の一体性が強調されることによって,日本全土の米軍基地からの朝鮮半島や台湾海峡への米軍出動が事実上容認された。一方,60年代末から70年代中期にかけての数年間で,日本本土の米軍基地は約3分の1に減少したが,沖縄の米軍基地は,ほとんど減少しなかった。つまり,沖縄に集約するかたちで,在日米軍基地の整理・統合が行なわれたのである。

 戦後日本は,一貫してアメリカの世界戦略に追随してきた。その基本的枠組みが,日米安保体制【にちべいあんぽたいせい】である。72年5月以前,沖縄は外側から安保体制を支える役割を振り当てられてきた。そして72年5月以降,その役割は,内側から安保体制を支えるものとなった。しかしいずれにせよ,日米安保体制が,戦後日本における構造的沖縄差別の上に成立していることに変わりはない。日本政府は,アメ(財政支援)とムチ(特別法)によってこの構造を維持し続けようとしている。

(新崎盛暉)

[米軍基地と人権]

〈27年間の米軍統治〉

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 終戦とその後の米軍占領初期は,沖縄住民に対する殺人,傷害,強盗傷害,婦女暴行,放火など米兵犯罪が多発したが,被害者はほとんど泣き寝入りの状態だった。1955年(昭和30)に米兵による6歳の幼女暴行致死事件,8歳の幼女に対する暴行致傷事件が発生,〈人権擁護全沖縄住民大会〉が開かれた。61年には沖縄人権協会【おきなわじんけんきょうかい】が発足した。65年6月に読谷村で投下演習中の米軍機からトレーラーが落下,少女が圧死した。ベトナム戦争の拡大に伴って米軍演習などによる住民被害,米兵の犯罪が急増した。

 四半世紀にわたる米軍の沖縄支配を象徴するのが高等弁務官High Commissioner制度だが,米国の大統領によって現役の陸軍中将である高等弁務官に沖縄の司法,立法,行政の全権限つまり住民の生殺与奪の権利が与えられていた。殺人や交通死亡事故などの加害者の米兵に軍事裁判で無罪判決が出されるケースがあり,住民に反米感情が高まり,70年12月20日,コザ反米騒動となって爆発した。

〈復帰後も基地租界〉

 72年5月15日,沖縄は日本の平和憲法のもとに復帰したが,米軍基地の存在によって県民の生命,財産,日常生活が脅かされている現実には変わりなかった。米軍人,軍属による復帰後の刑法犯罪は,4700件余に上る。72年9月,海兵隊キャンプ内で,米兵のM16ライフルで沖縄の青年が射殺された。翌73年4月には老女が海兵隊の戦車に轢き殺された。

 国土面積のわずか0.6%にすぎない沖縄に全国の米軍専用施設面積の約75%が集中し,県土面積に占める米軍基地の割合は約11%と高く,とりわけ人口や産業施設が集積している沖縄本島では約20%が米軍基地に占められている。嘉手納空軍基地の周辺住民は殺人的な騒音に悩まされている。そのため,国を相手どって夜間の飛行差し止めなどを求めて訴訟を起こした。

〈米兵による少女暴行事件以降〉

 95年(平成7)9月,米兵3人によって小学女子児童がさらわれ,暴行された事件は,国内だけでなく,世界に衝撃を与えた。米軍の海外駐留と駐留先の住民の人権問題とのかかわりで,米国をはじめとして世界のほとんどのマスメディアがこの事件を報道した。約8万5000人の住民が参加して,〈10・21沖縄県民総決起大会〉が開かれ,日米両国政府に対して,基地の整理縮小と日米地位協定【にちべいちいきょうてい】(1960.6発効)の見直しなどを要求。96年9月8日に行なわれた県民投票では,米軍基地の整理縮小と地位協定の見直しを求める票が89.1%と多数を占めた。

 95年、大田昌秀沖縄県知事は,米軍用地強制使用手続きの一環である〈知事の代理署名〉を拒否した。村山富市首相は知事を相手どって職務執行を命令する訴訟を起こした。政府と県の法廷闘争は,最高裁大法廷にまで持ち込まれ,知事側が敗訴した。しかし,米軍が集中して駐留している沖縄では,基地の存在が住民の生命や財産を脅かしている実態を国民に訴えた意義は大きい。

 反戦地主らの抵抗で,土地の強制使用裁決の県収用委員会審理が間に合わず,一部の軍用地の使用権原が失われた。そのため国会は反戦地主や沖縄県などの反対にもかかわらず社会民主党,日本共産党などを除く自民党,新進党などの賛成多数で米軍用地特別措置法を改正し,強制使用期限が切れても引き続き使用できるようにした。

 米兵による小学女子児童暴行事件以降の全国的な反米軍基地運動の高まりに押されて,95年11月,日米特別行動委員会(SACO)は10施設約5002haの整理統合・縮小計画を発表した。しかし,代替海上航空基地の建設を条件にした普天間飛行場の返還をはじめほとんどの施設が沖縄県内での移設を条件にしている。橋本龍太郎首相をはじめ政府首脳は〈沖縄の痛みを全国民が分かち合うべきだ〉とことあるごとに発言したが,沖縄県内に米軍基地を押し付ける姿勢は変わっていない。

(高嶺朝一)

[沖縄問題と教育]

 沖縄は日本の歴史と社会において独特の位置を占めている。教育上の取り組みに際して重要な観点は以下のようなことであろう。 稙碓賁餌押ζ碓貶顕宗笋箸いδ滅阿鉾燭靴董て本のなかにも独自の歴史と文化を持つ地方があることが明白に示されるので,中央集権型あるいは権力者中心型の歴史観や社会観を相対化する契機になりやすい。∨榲擇砲いては,日米安保体制などが青少年の実感に遠いものになりがちであるが,沖縄について学ぶことによって<世界のなかの日本>を考えることができる。0豐咾靴読塒益を押しつけられてきた歴史だけではなく,そこで抵抗し続けてきた民衆の不屈の魂を学ぶことによって,主体として生きることの意味を学ぶことができる。

 本土ではかつて1970年(昭和45)前後に<沖縄を1時間学ぶ運動>のような組織的取り組みがあった。今日,本土からの修学旅行などの取り組みが広がっているが,さらに日常的な教育実践と組織的な教育研究活動の発展が期待される。

(田中欣和)

[沖縄の文化]

〈琉球文化の歴史と特徴〉

 かつての琉球王国内の奄美諸島から八重山諸島までの文化を<沖縄文化>という概念で表現されることがあるが,これでは狭すぎるため,ここでは<琉球文化【りゅうきゅうぶんか】〉<琉球弧文化【りゅうきゅうこぶんか】〉という概念を使う。

 琉球弧の文化は古くは旧石器時代までさかのぼることができる。先史時代の大きな特徴としては,第1に、縄文・弥生文化の影響を受けた北琉球(奄美・沖縄)と、その影響を受けていない南方系の先島(宮古・八重山)文化圏という二つの文化圏に分かれていたこと,第2に、先史時代後期は琉球独特の<貝塚時代>と呼ばれ,それが11世紀まで続く長い歴史を持っていることを挙げることができる。

 琉球弧は12世紀から<グスク(城)時代>と呼ばれる有史時代に入る。1429年に統一琉球王国が建国され,以降の琉球文化に大きな影響を与える。琉球王国はその成立時から大貿易時代と中国の冊封体制のなかで<交易国家>として出発。1879年(明治12)に明治政府に亡ぼされるまで450年余も続き,そのなかで独自の文化が形成された。

 琉球文化の大きな特徴を3点だけ挙げてみよう。第1に,琉球弧の文化はアイヌ民族の文化と同様に世界の先住民族文化の特徴と伝統を保持していることである。それは,自然崇拝や祖先崇拝を中心軸にする宇宙観や自然観,信仰や祭祀の伝統に特徴的に表れている。第2に,琉球語と呼ばれる独自の言語を持ち,それによって表現された歌謡、文学、芸能を持っていることである。とくに琉球舞踊と組踊,島唄などは国際的に高く評価されている。第3に,琉球王国が交易国家として発展したために,その文化もきわめて独自性と国際性に富んでいることである。たとえば,琉球弧各地のグスクに代表される石造建築や漆器,染織などの美術工芸,泡盛や琉球料理などにその特徴が表れている。

〈皇民化教育と琉球差別〉

 ところが,明治から戦前までの日本政府と国民の大多数は,琉球の歴史と文化を知らず,教えず,理解しようとせず,差別し,蔑視し,弾圧してきた。とりわけ,天皇制による皇民化教育【こうみんかきょういく】の徹底をはかる政府にとって,アイヌ民族および琉球民族の同化と皇民化は重要な課題であった。それは,植民地朝鮮や台湾における同化,皇民化教育の試金石でもあった。

 日本政府は,まず教育を通して琉球語を弾圧して撲滅しようとした。有名な<方言札【ほうげんふだ】〉や<方言論争>(1940)は,その代表的事例である。また,琉球芸能の芝居や組踊のセリフさえ日本語でやるように命令(1940)。さらに学校教育で琉球の偉人や歴史を教えることに反対し(1906),琉球史の研究者も迫害した(1914)。琉球史の研究や教育を行なうと,天皇とは異なる琉球国王が登場したりして国民意識の形成の妨げになるというのが,主な理由だった。

 琉球人は日本本土や海外移民先で<リキジン>と呼ばれて差別された。1920年前後の関西の工場では<朝鮮人,琉球人お断り>という看板が登場した。圧倒的多数の日本国民が琉球の歴史や文化を教えられず,知らなかったためである。

〈現状と課題〉

 現在,琉球弧の文化は表面上は華やかで高く評価されているように見える。しかし,その裏では新たな同化政策が進んでいる。その最大のものがテレビやマスメディアを使った文化の商品化と画一化の攻撃である。琉球文化の表面的評価は,現実の日米安保体制下で軍事基地問題をはじめとする政治的・構造的沖縄差別と人権侵害を覆い隠す役割を担わされようとしている。

 一方、中城城跡【なかぐすくじょうあと】や斎場御嶽【せいふぁうたき】をはじめとする〈琉球王国のグスクおよび関連遺産群〉(9件)がユネスコの〈世界遺産〉登録へ推薦された。2000年の12月に正式に登録されると、琉球文化を代表するグスクやウタキ(御嶽)が中国の万里の長城やエジプトのピラミッドのように人類共有の文化遺産として世界的に高く評価されるわけである。

 琉球弧文化を独自性と国際性を持った文化として、いかに保存し自立的に発展させることができるか、いま切実に問われている。

(高良 勉)

[本土における沖縄出身者に対する差別]

 戦前,沖縄から本土への集団的な出稼ぎが本格化するのは1910年(明治43)以降で,大正末期から昭和初期にかけてピークを迎える。それは,第1次大戦後の<戦後恐慌>による黒糖価格の暴落に端を発する<ソテツ地獄【そてつじごく】〉と呼ばれる窮状に起因している。ところが,沖縄出身者を待ち受けていたものは,<職工募集,但し朝鮮人・琉球人お断り>という貼り紙に代表される偏見のまなざしと差別意識であった。男性は土木作業現場や製材所,女性は紡績工場等で働き,貧しい郷里への送金を目的にした沖縄出身者は,低賃金労働を余儀なくされた。一部の沖縄出身者の間では,生活習慣の違いによる偏見や沖縄口【うちなーぐち】(沖縄方言)への蔑視が差別を助長するので,本土的な生活習慣に同化しようとする<生活改善運動【せいかつかいぜんうんどう】〉も生まれた。

 沖縄戦で多数の犠牲者が出たことから,戦後,親族の安否を気遣って引き揚げた者が多い。本土居残りを決意して定住した人のなかには,アパート経営,映画館経営,屑鉄商,養豚など,自営商工業者として新たな生活を始める者も現れたが,多くは戦前と同じく中小の工業部門で働く単純作業労働者であった。これらの沖縄出身者は,地縁・血縁を頼って本土の沖縄人集住地域に来たが,やがて周辺に不良住宅地区が形成された。とくに大阪市大正区の小林地区では,68年(昭和43)当時、約400戸が密集していたが,そのうち沖縄出身者が118戸(30.3%)を占めていた。やがてこの地区は大阪市の土地区画整理事業によって,立ち退き命令が出され,不良住宅の借家や間借りの人々は市営住宅に優先的に入居できることになった。その一方で遊閑地にバラックの家を建てた人のなかには,<不法占拠者>として入居の対象外とされた者もいた。

 本土復帰前後には,米軍雇用者の大量解雇が顕著となり,本土の<マイナス経済成長>や海洋博後の不況により,出稼ぎや若年層の集団就職が増加した。集団就職で送り出された沖縄青年にとっては,本土で働くことが一種のあこがれでもあった。ところが,本土へ来てみると,それはまるで異文化との接触,孤独との闘いでもあり,他府県人のまなざしに耐えきれず,カルチャーショックに陥る者が多かった。また,転職防止のためパスポートを保管したり,離職しようとすると支度金の全額返済を求める経営者もあり,74年の<Y君事件>のように沖縄差別による自殺事件も起こった。

 現在,沖縄出身者は2世(本土生まれ)への世代交代が進んでおり,本土社会で定住する沖縄出身者に対する差別は,顕著には見受けられない。沖縄出身2世は,泡盛を酌み交わし,故郷の料理を食べ,沖縄口で話すことが,本土社会では偏見のまなざしで見られてきたことを1世から教えられてきた。1世が受けてきた差別を,親から身体的な感覚として刻み込まれているがゆえに,2世にとっては,〈沖縄人であること〉を避けようとするのである。学校で沖縄問題が取り上げられると苦言を呈したり,結婚によって姓が変わって安堵するという例は,いまだに少なくない。そのような現状がある一方で,3世の世代が沖縄の舞踊を踊る姿を見て,<なあ先生,オレ,今まで自分が沖縄やいうの,全然表に出さへんかった。心のなかでは誰にも負けへんくらい沖縄のことを思っているのに,でも,よう出さんかったのや。けど今日,娘が堂々と沖縄のことをやってるのを見て,そんな自分が情けのうなったわ>と語る沖縄出身2世が生まれてきている。

(金城宗和)

[部落差別と沖縄]

〈『にんげん』の沖縄教材掲載問題〉

 1970年(昭和45),大阪沖縄県人会連合会の役員が,解放教育読本『にんげん』に〈沖縄の差別〉を教材として掲載することに反対した問題。同年10月,琉球政府主席・屋良朝苗が,大阪府・市教育委員会あてに沖縄問題掲載の〈削除方〉を要請。この段階で,執筆予定者の大田昌秀が執筆辞退。71年1月には,〈沖縄議員クラブ〉が,府教委,文部省に『にんげん』使用禁止を申し入れ,これを受けた文部省は,配布一時中止を行政指導。2月には,大阪沖縄県人会が〈沖縄県人は訴える〉を発表,『にんげん』への掲載反対の根拠を明らかにした。〈沖縄差別といわれるものは,敗戦の結果,平和条約第三条によって本土と分断され,その結果生じた所謂《制度的差別》であり〉〈部落差別は,歴史的身分差別の残影が,今なお社会的現実として色濃く存在する所謂《心情的差別》である〉とし,沖縄に対する結婚,就職差別はすでになく,〈沖縄県も亦未解放部落の一種〉とみられては困るというものであった。

 それに対して,71年5月,沖縄教職員会は掲載を支持し,大阪沖縄県人会に反省を促した。本土でも,大阪沖縄県人会内部から役員批判が出され,沖縄県人会兵庫県本部は〈沖縄に対する差別の撤廃は,他の差別との連帯,闘争の中でかちとることができる。部落に対する差別的観念や発言は根本的に間違っている〉として,掲載を支持。この間掲載を支持する在本土沖縄出身者のなかで〈関西沖縄県人差別問題研究会〉が組織された。現地沖縄でも,〈沖縄差別〉を告発する人々が逆に部落差別を行なうという〈悲喜劇を批判し,『にんげん』に沖縄問題を掲載することを支持する声もけっして少くなかった〉。71年3月に全国解放教育研究会(現*解放教育研究所)会長・上田卓三が沖縄に渡り、琉球政府責任者から〈公文書は撤回できない〉が,自主的使用を認める旨の回答を得た。

〈『琉球新報』差別事件〉

 72年2月4日付『琉球新報』紙上の差別投書事件。問題となった公務員の投書は〈天皇のご来訪を歓迎〉との見出しで,〈皇居に侵入した沖縄青年,国会に爆竹を持ち込んだ沖縄人,そして植樹祭の天皇ご来島を阻止しようという動き――これら一連の行動を是認するならば沖縄県民は日本国民と異質な特殊部落民になりさがる〉とし,〈《ハワイに行ってもエタ(特殊部落民)と沖縄の娘とは結婚するな》と明治時代から沖縄人は特殊部落民扱いされて〉きた、〈この恥ずかしい昔の沖縄にまた返そうと考えているのか〉という内容。事件は部落解放同盟の糾弾と,それに対する琉球新報社の自己批判で終わった。しかし,部落民と同一視されないために天皇を敬愛するという戦前の皇民化意識,さらに,部落に対する差別意識は,本島の先島への差別とならんで,沖縄県民にとって未解決の問題である。

〈沖縄出身者と部落解放運動〉

 これらの事件は、県民のなかに残る皇民化意識と部落差別を端的に示した。同時に〈在本土《沖縄部落》は、被差別部落内や隣接している場合が多く、部落の人々とともに助け合いながら暮らしていた〉県民も多数いる。とくに、被差別部落が多く、解放運動の盛んな大阪や兵庫などにおいては、国による土地取り上げ反対闘争を共同で行なったり、部落解放同盟員として,ともに差別を許さない闘いに組織されている県出身者も多い。米軍基地、基地依存経済、自衛隊沖縄派兵、本土資本による自然破壊、県民生活水準の低さ、〈被差別部落より10年は遅れている〉在本土〈沖縄部落〉の生活水準、本土における県民への差別と偏見など山積している問題をみるならば、沖縄差別を含む沖縄問題は、本質的にはなんら解決されていないといえる。

(城間哲雄)

参考文献

  • 新崎盛暉『沖縄を知る 日本を知る』(部落解放研究所,1997)
  • 同『沖縄現代史』(岩波新書,1996)
  • 『沖縄対米請求権問題の記録』(社団法人沖縄県対米請求権事業協会,1994)
  • 『沖縄の米軍基地』(沖縄県総務部知事公室基地対策室,1997)
  • 『沖縄の基地問題 沖縄国際大学公開講座4』(沖縄国際大学公開講座委員会,1997)
  • 琉球新報社編『異議申し立て 基地沖縄』全4巻(1995〜96)
  • 高良勉『琉球弧(うるま)の発信』(御茶の水書房,1996)
  • 信濃毎日新聞社編『世界の民』上・下(綾部恒雄監、明石書店,1993)
  • 沖縄歴史研究会編『近代沖縄の歴史と民衆』(至言社,1977)
  • 石原昌家「日本本土における沖縄人のアイデンティティの確立」(『沖縄国際大学文学部紀要』10巻10号、1982)
  • 冨山一郎『近代日本社会と沖縄人――日本人になるということ』(日本経済評論社,1990)
  • 金城宗和「本土沖縄人社会の生活世界――大阪市大正区を事例に」(『立命館大学人文科学研究所紀要』68号,1997)
  • 全国解放教育研究会編『沖縄の解放と教育』(明治図書,1976)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:35 (1294d)