下層社会【かそうしゃかい】

 住居・職業・収入の点で劣悪・不安定で他と区別される固有性をもつ社会をいう。日本では,1880年代の不況下に農村から東京や大阪などの大都市に流入してきた人々が,江戸時代以来の木賃宿・長屋密集地域に住むようになった。その後も産業革命の進展とともに農民の都市流入が続き,明治後期になると,初期の木賃宿【きちんやど】・長屋【ながや】密集地域は周辺にも広がっていった。職業は人力車夫,雑多な行商,屑拾いなどであった。それゆえ生活は貧しく不安定で,家族を形成・維持していくことは困難であった。しかし貧しいがゆえに,日常的な相互扶助を可能にする共同性が存在した。この時期これらの地域を対象にして,横山源之助の*『日本之下層社会』(1899)をはじめ,多くのルポルタージュが書かれた。

 大正期,とりわけ第1次世界大戦後になると人々の生活も大きく変わった。職業もそれまでの雑業的なものにかわって日雇い人夫を中心とした力役的なものが多くなった。多くの人々はまがりなりにも家族を形成し,都市に定着するようになった。たしかにその家族の生活たるや,妻や子どもを含めた多就業によって支えられるものではあったが,子どものなかには教育を通じて階層的に上昇する展望をもてる者も出てきたのである。

 なお下層社会の呼び方も時代とともに変化した。明治後期までは貧民窟【ひんみんくつ】という呼び方が一般的であったが,大正期から昭和期になると行政はもっぱら細民地区【さいみんちく】とか*不良住宅地区【ふりょうじゅうたくちく】と呼ぶようになった。世間では*スラムという呼び方が一般的であった。

 都市の被差別部落も下層社会の一つのタイプであった。たとえば大阪の西浜【にしはま】は近世以来の伝統的な皮革産業および履物製造業の町であったが,明治になると主として近畿各地から多くの部落出身者が流入してくるようになった。しかし部落産業関連の仕事は限られていたから,流入者の多くは種々の*雑業や力役的仕事に従事しながら,西浜とその周辺に住みつくようになった。こうして大正期になると西浜とその周辺は大きなスラムとなったのである。この時期の大阪にはさらに別のタイプの下層社会があった。一つは朝鮮半島や済州島から渡ってきた朝鮮人が住むようになった東成の密住地区であり,もう一つは江戸時代の代表的な木賃宿・長屋密集地域であった長町に起源をもつ日本橋方面・*釜ヶ崎【かまがさき】地区であった。これら三つのスラム住民の間には雑業や力役的仕事をめぐって競合関係がみられた。

 第2次世界大戦後も,高度経済成長以前にあっては大阪のスラムの状態は戦前と基本的には変わらなかったが,高度経済成長の進展および同和対策事業の展開につれて,それぞれのスラムの住居,職業,収入のあり方は大きく変化した。被差別部落や在日朝鮮人集住地区が下層社会の特性を相対的に失ってきたのに対して,釜ヶ崎だけは多くの単身*日雇い労働者が簡易宿泊所に暮らす町であるという点で,いまだ下層社会の特性を色濃くもっているといえる。

*スラム*ドヤ街

参考文献

  • 安保則夫『ミナト神戸 コレラ・ペスト・スラム』(学芸出版社,1989)
  • 杉原薫・玉井金五編『増補版 大正・大阪・スラム』(新評論、1996)
  • 中川清『日本の都市下層』(勁草書房,1985)
  • 布川弘『神戸における都市「下層社会」の形成と構造』(兵庫部落問題研究所,1993)
(平川 茂)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:35 (1417d)