岐阜県【ぎふけん】

[現状]

 1993年(平成5)調査によると、県内には15地区3310世帯(うち同和関係世帯1213)1万0540人(うち同和関係人口3888)と報告されている。規模別では40世帯以下が10地区、60世帯以下が1地区、100世帯以下が2地区、300世帯以上の所も1地区ある。この数字でもわかるように、県内には都市部落は少なく、農村部落が多いものの、農業に従事する者はきわめて少ない。生活保護世帯率をみると県全体が0.5%であるのに対し、部落のそれは0.8%とわずかに高い。年収または収益が300万円未満は県全体(1992年調査)48.8%に対し、部落は67.5%、逆に500万円以上は県全体(同前)18.4%に対し、部落は7.2%である。最終学歴別世帯員数をみると、初等教育修了者は県全体(1990年調査)40.0%に対し、部落は61.1%、逆に高等教育修了者は県全体(同前)16.5%に対し、部落は4.2%である。

 35年調査では21市町村に21地区,人口は4457人であった。職業構成は実にさまざまで行商,南部表,履物,皮革,牛馬商,農業,漁業,職工,日雇いといった業種が主業であった。公務員や大企業から完全に就職の門を閉ざされていた姿が浮かび上がってくる。県内では55年頃より具体的な要求を掲げて行政闘争が闘われた結果,不破郡表佐村では道路の拡幅,40世帯が3つの共同井戸で生活していたのを各戸に1つずつのポンプの設置を闘いとった。70年には、養老郡上石津町の部落では大正初期に決められた〈部落民との交際禁止〉などの村掟が現在も生きている,として岐阜地方法務局に人権侵害の訴えを起こした。

[前近代]

 県内の部落形成史について確実な資料は少ないが部落内に残る伝承,断片的な資料をつなぎ合わせると、形成は戦国時代にさかのぼる所が多く見受けられる。稲葉郡内のある部落は天正4年(1576)織田信長が近江国に安土城を築いたとき城下の一部の賤民が現在の地へ移住させられて形成した。別の部落では文禄年間(1592-96),加藤左衛門尉貞泰という武将が甲斐国谷村城より現在の地へ移封されたとき一緒につき従ってきた。養老郡内のある部落は摂津国尼ヶ崎城主であった戸田左門氏鉄が寛永12年(1635)大垣城へ移封させられたとき一緒につき従ってきた者が形成した。神社や寺院との関係で形成されたところもあり、武儀郡内には奈良県の春日神社をこの村へ分霊したときにともに移住してきた者が部落となった。三井寺と因縁が深く、毎年5月24日の同寺の祭りのときには打裂羽織,帯刀で威儀を正して列席することを明治維新まで続けていた本巣郡の部落もある。近世には城下町に皮革製造のための部落がつくられ藩の公用を果たしたほか,在村の場合には犯罪者の探索などの下級警察機能を司り,森林資源の盗伐にも備えた。

[融和運動]

 県の社会事業協会で地方改善事業を担当していたが、1927年(昭和2)3月,同会内部に融和部が特設された。同部では講演会・講習会・懇談会の開催,文書宣伝,県内外の視察などの事業を行なった。22年(大正11)には〈部落改善奨励規則【ぶらくかいぜんしょうれいきそく】〉を公布して移住,住宅改良,共同井戸新設,居住地域整理,その他知事が部落改善上必要と認めた事業に対し奨励金を交付することとした。同規則の主なねらいは移住・部落分散にあった。融和部では中央融和事業協会で発行したパンフレットを購入して,町村長,小・中学校長などに配布した。国民融和日にあたっては飛行機からビラ3500枚をまくなど,目立った行動をとった。地域的融和団体としては稲葉郡島村清和会や養老郡多芸村青年報徳会,処女報徳会などがあった。県融和部は機関紙を定期発行したりせず,県独自の刊行物もほとんど発行しなかった。

[解放運動]

 1924年(大正13)7月10日,岐阜市金華劇場で県水平社【ぎふけんすいへいしゃ】創立大会が開催された。全国共通の宣言,綱領,決議を採択。参加者150。演説会では全国少年少女水平社の増田久江【ますだひさこ】の演説が、聴衆を魅了した。同年8月には大垣市で夏季大会を開いたほか、10月には東海水平社【とうかいすいへいしゃ】大会を稲葉郡黒野村で開くなど組織は県内各地に広がった。25年県水平社はアナ系の自由青年連盟に加盟することを決定,東海水平社と歩調を合わせた。27年11月,同県出身の*北原泰作【きたはらたいさく】が名古屋練兵場で行なわれた陸軍特別大演習で軍隊内の差別を天皇に直訴するという事件も起こった。29年11月,県水平社6周年記念大会ならびに北原除隊記念演説会を大垣市で開く。30年8月には組織整備を行ない大垣水平社を全水大垣支部,岐阜県水平社本部を全水岐阜県連合会と改称した。この間多くの差別糾弾闘争も行なわれ,24年4月には不破郡荒崎村の寺院の過去帳に部落の者に朱線を引いた差別記載が発見され,部落では謝罪広告を印刷させ自転車で県内へ配布した。稲葉郡黒野村(現岐阜市)でも同様の過去帳差別事件があった。30年3月不破郡表佐村小学校で主婦会主催の講演会席上,高等女学校校長が差別発言し糾弾された。大墳村では村長が水平社同人に対して聞くに耐えない差別暴言をしたり,34年には『岐阜日日新聞』【ぎふにちにちしんぶん】紙上で差別記事が書かれたりした。戦時下にも氏神祭りから部落が排除されていた件を糾弾,応急施設費流用問題などに取り組んだ。特筆されるのは、北原が県内だけでなく、愛知県内の水平社支部から荊冠旗を集め、焼き捨てたことである。

 戦後,県内に解放同盟県連の名前だけは存在したが実体はない,という状態が長く続いた。62年(昭和37)9月13日,岐阜県民主同和促進協議会【ぎふけんみんしゅどうわそくしんきょうぎかい】が結成され,対外的には同会を解放同盟の組織であるとしていた。その間松本治一郎不当追放取り消し部落代表者会議が大垣市で開かれたり,54年には*全国市議会議長会事件糾弾闘争が展開されたが県連の大衆的拡大はなかった。 そのうえ74年8月には解放同盟県連は中央本部からの脱退と解散を決定。中央本部に結びついた解放同盟県連が組織されるのは養老支部を中心とする運動の大衆的な盛り上がりがあって74年10月14日,大垣,早田,垂井の各支部によって県連準備会が結成された。その後、県連結成に向け、堺一峰・上田秋尾の両名が中心となり、各支部の活動家とともに美濃市に支部結成を呼びかけ支部が結成された。75年6月20日、養老町で部落解放同盟岐阜県連合会が組織された。99年現在の支部数6支部。

[行政]

 1922年(大正11),県では部落分散に奨励金を出すという規定を公布した。それは部落外への移転には100円以内,新築または住宅購入には2分の1以内の奨励金と1戸100円以内の生業資金を交付することであった。ただし移転後10年以内にもともと住んでいた部落へ逆戻りすれば奨励金を返還させる仕組みだった。戦後は54年(昭和29)に初めて同和対策予算80万円を組んだ。翌年には岐阜市役所から県知事への公文書の中に〈*新平民〉という差別語が書かれたりした。60年12月,県議会では部落解放の行政実施に関する請願を満場一致で採択。62年には県に地方改善促進審議会が設置された。70年になると市町村においても同和事業に取り組むようになり,同年8月美濃市では〈同和対策事業長期計画書〉を策定した。県教委では72年『同和地区実態調査の結果について』を刊行,73年4月県民生部に同和対策室が設置された。

[教育]

 1931年(昭和6)1月,県では県内の4小学校,6中学校に融和教育の可否および取り扱いについて諮問調査した後,いくつかの小学校に*融和教育研究指定校を設置した。県内では黒野小学校などで差別事件が起こった。66年には岐阜市で文部省主催の同和教育研究協議会が開かれている。翌年には文部省発行の『生徒指導資料第3集』を差別文書だとして解放同盟県連では県教委に抗議,回収させた。68年以降になると県教委主催の同和教育指導者研修会などが開かれるようになるが教育現場での実践は80年以降である。

(本田 豊)

トップ   差分 リロード   一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:37 (1417d)