宮崎県【みやざきけん】

[現状]

 1975年(昭和50),行政施策を求めて部落解放運動が始まったとき,〈太陽と緑の国,宮崎には部落は存在しないし,部落差別もない〉と述べた県行政の言葉が,宮崎県における行政施策および部落解放運動の現状を象徴的に表していた。宮崎県内の部落数は,1921年(大正10)の内務省調査によると23地区,485戸,2590人,35年(昭和10)の中央融和事業協会の調査では9市町村に9地区,211戸,1055人となっている。戦後,63年,67年,71年,75年の同和対策審議会あるいは同和対策協議会の調査に対して,県は回答を行なわなかった。85年に県が初めて行なった把握調査では,18市町村に36地区,1512戸,5169人となっており,75-80地区存在するという部落解放同盟宮崎県連の主張とは大きな隔たりをみせている。これからも明らかな通り,1960年代から70年代にかけて行政施策を行なうにあたって,〈部落はない〉とされ,現在に至るまで部落の実態調査が行なわれてこなかったことが最大の問題である。

 県北・県中央の部落は商業地にあり,生業は食肉関係が多い。しかし,業界への大企業の進出で転廃業に追い込まれている。県南西部は農村地帯でありながら,専業農家はほとんどなく,土木建設業、作業員などの農業外収入によって生計をたてている。土木建設関係の自営業者も零細がほとんどである。また,高齢化が急速に進み,生活保護世帯が多い。

(部落解放同盟宮崎県連)

[前近代]

 中世以前の部落についてはほとんど明らかになっていない。薩摩藩(島津氏)の*死苦(のち穢多)・*慶【けい】賀【が】は戦国時代の史料にも出てくるが,差別される状況にあったかどうかはわからない。都城の『荘内地理志』に〈古来賤しき者共相見えず候。貴賤の差別相分け候は,寛永14年(1637)御領国中手札改めこれあり,是より貴賤の差別格別に相違候〉とある。この記述から部落の成立は幕藩体制の確立と同じ時期だと考えられる。被差別民の呼称はさまざまであった。薩摩・佐土原藩には非人はいなくて慶賀(別府者)が牢番など行刑に従事していた。佐土原藩では慶賀が農閑期に芝居興行をしていた。高鍋藩では*青【せい】癩【らい】が行刑関係の仕事をしていた。延岡藩では非人が胡【う】乱【ろん】者【もの】の取り締まりなどの仕事をし,穢多は大分から延岡に移住し,皮革生産に携わった。慶賀は芸能(人形芝居)に携わっていた。非人頭には大麦6俵,市中見回りには1カ月に赤米6斗が支給されていた。非人頭平助は文化11年(1814)格別の働きに対し御用で外出する際〈目明シ之名目ニテ刀御免〉となっている。宝暦6年(1756)以来何回も非人札の強制着用に対し,文化14年〈公用に限り付けなくてよい〉という特例を勝ち取っている。

 牛馬皮の生産は1800年代になってから本格化し大坂との取引や抜け売りの記事が史料に出てくる。経済力を高めた穢多頭は文化2年、銀6貫目を献納して刀御免、その子も文政7年(1824)銀2貫目を献納して脇差し御免を手に入れている。高鍋藩では明和2年(1765)浅黄亀甲襟掛の強制着服に対し,部落の頭は暇願を出して抵抗している(*浅黄半襟拒否一揆)。文化14年、足軽が穢多を殺害した際,奉行は〈人命の儀に付〉と足軽を捕らえ両耳切りのうえ福島穢多支配に命じるほどになった。

(比江島哲二)

[部落解放運動]

 県内で水平社が組織されたという記録は,現在のところ見当たらない。戦後も長い間部落解放運動は起こらなかった。しかし,*松本治一郎の参議院選挙の際には遊説に手を振って応えたり,県内で松本を支持する多くの票が出たという。1975年11月,部落解放同盟中央本部および九州地方協議会によるオルグ団が県内の部落に入り,部落解放運動にたちあがることを呼びかけた。77年2月,延岡市・えびの市の3支部で構成した結成準備会が母体となり,9支部186世帯をもって部落解放同盟宮崎県連が結成された。

 宮崎県では,*同和対策事業特別措置法の施行から8年を経た77年に同和行政が始まった。行政対応のまずさからえせ同和行為などがはびこり,86年9月には県同和対策課長と全日本同和会県連会長が贈収賄事件で逮捕されるという刑事事件まで起こった。これを契機に同和行政や運動団体に対する批判がマスコミを通じて起こり,同年10月県議会は〈同和行政の適正化に関する決議〉を採択した。これを受けて行政は〈部落問題については,県民の理解が得られないから表に出してやるべきでない〉として人権一般で扱い部落問題解決のための施策を終わらせるとする方針をとった。行政の窓口対応は実質閉ざされ,部落解放運動は消滅の危機に見舞われた。

 しかし,解放同盟宮崎県連は,こうした行政の同和対策事業に対する補助金打ち切り(1987.4)の姿勢に対して,〈自力自闘〉と〈幅広い県民の理解と納得が得られる反差別共同闘争〉を柱とした実質的な再建大会を91年3月に開いた。以降,県内各地で起こる差別事件の確認会・糾弾学習会を,行政が差別の現実に向き合い学ぶ機会として丁寧に取り組み,理解を求めていった。さらに92年には〈部落差別をなくす宮崎県民会議〉が発足。宗教・教育・労働運動・企業・解放運動・市民学者文化人の各部門で構成し,それぞれ独自の課題に取り組み〈人権について考える県民の集い――各部門実践交流会〉を開催している。また,98年には〈狭山事件を考える宮崎住民の会〉が発足している。このような解放同盟と連帯した県民の主体的な活動を行政は高く評価し,官民一体となった人権教育推進の機運が高まりつつある。

 96年延岡市議会は〈部落差別をはじめとしたいっさいの差別をなくす決議〉を,翌97年には日向市議会が〈人権尊重都市宣言に関する決議〉を行なった。また99年3月に宮崎県は〈*人権教育のための国連10年〉宮崎県行動計画を策定し,部落問題解決を重要課題とした人権教育推進基本行動計画を発表した。

(部落解放同盟宮崎県連)

参考文献

  • 比江島哲二「内藤藩延岡非人頭平五郎II」(『部落解放史 宮崎』5号、1995)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:37 (1411d)