京都府【きょうとふ】

[現状]

 京都府内における部落の現勢は,142地区,4万561人(1993年総理府調査)で,このうち京都市内および山城地方では100世帯以上の大部落が多いのに比し,丹波・丹後地方では多くが20世帯以下の小規模地域である。また,核家族化の傾向が強く,とりわけ京都市内では,1985年(昭和40)から93年の間に、1人世帯と2人世帯の占める割合が10.4%増加し、1世帯の平均人員が2.6人にまで減少して、京都市平均と肩を並べるに至った。しかも,青年層の流出により,高齢化・独居老人の増加が目立ってきている。仕事の面では,第1次産業は大きく減少し,63年段階で45.6%を占めていた農業人口は,80年には11%へと激減した(京都市内を除く数字。以下同じ)。第2次産業の占める比率は,府全体の比率とほぼ等しいが,そのなかで建設業の占める割合が19.1%と府全体の約3倍の高さであるのに対し,製造業は15.7%と約半分である。また,第3次産業では卸・小売業の占める比率が6.7%で府全体の3分の1と低いのに対し,公務員の占める比率が11.6%と2倍となっている。就業構造を年齢別にみると,老人層では農業・失対事業,中高年層では建設業・製造業・公務員(とくに現業部門),若年層では公務員(とくに非現業部門)・サービス業・建設業の占める割合が高い。住環境の問題は,旧来の極端に低位な状態は基本的に一掃され,1人あたりの居住面積で見るかぎり府全体の水準に近づいたとさえ言えるが,個々の場合を見ると,早い時期に建設された改良住宅が今となっては極端に狭いことや,便所・風呂・台所等の設備が不十分であることなどの問題点を抱えている。

[前近代]

 平安京以来の歴史を持つ京都には,当時,*非人と総称されたさまざまな*賤民が存在した。非人は*癩者・身体障害者・*乞食などから成る存在であったが,古代末期よりの触穢意識の拡大のなかで不浄のものとされたさまざまな穢れを取り除く仕事に携わることによって,その集団を再生産する契機をつかんでいった。なかでも大和奈良坂の非人に対抗して,畿内の諸宿の支配をもくろんだ清水坂の非人【きよみずざかのひにん】は著名で,祇園社に隷属して,その社域の死体等の取り片付けに従事し,*犬神人と称した。これらの賤民の中で,主に斃牛馬の処理にあたった*清目【きよめ】は近世の*穢多身分との関係が深く,京都周辺では多く水辺に住んだことから*河原者【かわらもの】とも呼ばれた。河原者の名はすでに長和5年(1016)に公家邸で死牛の処理にあたった人々としてみえるが,その後も皮細工人,庭掃除,壁塗り,井戸掘り等のさまざまな雑業に携わる様子が知られており,そのなかから庭作りの名手と讃えられた*善阿弥のような人も生まれている。一方,農村部での清目も斃牛馬処理,庭掃除などに従事する傍ら,着実に耕地を集積し,農民化の道を歩んでいった。現在京都市に属する久世の例をみると,応永3年(1396)2反の清目屋敷であったものが,150年後の天文年間(1532-55)には14人の清目の作人,40反余りの耕地を持つまでに至っている。河原者の携わった職掌の中で忘れてならないのは,その刑吏役との関係である。すでに南北朝期より,河原者は刑場の警固などにあたっているが,その関係は近世まで持ち越され,近世初頭の穢多身分の編成はこれを中軸としてなされた。近世に入って穢多の負った役儀には,これらに加えて二条城の*掃除役があるが,宝永5年(1708)それを支配した下村文六【しもむらぶんろく】の死去によって,牢屋敷外番役へと変わり,またその支配も余部・六条両村の穢多年寄が行なうようになった。近世に入っても,農業への進出の努力は続けられるとともに,都市部においては近世中期以降の履【はき】物【もの】業の拡大のなかで,雪【せつ】踏【た】業を中心にその発展がはかられ,急速な人口増加が実現されるとともに,その社会的実力が高まり,一方で幕府の身分引き締め策を生むと同時に,解放への基盤が着々と準備されていったのである。

[近代]

 明治3年(1870),蓮台野村の年寄元右衛門が賤称廃止の嘆願書を京都府に出し,解放運動の先駆けをなした。明治4年の*〈解放令〉を契機に,社会的平等の獲得をめざした闘いが起こり,船井郡木崎部落で祭への平等な参加や入会山の公正な分配を勝ち取ったほか,同様の動きが各地にあった。また,松方財政下におけるデフレ政策により大きな打撃を受けた部落,とりわけ都市部落では,柳原町の*桜田儀兵衛や東三条(元天部)の竹中庄右衛門【たけなかしょうえもん】に代表される上層主導の改善運動が起こるが,徐々に内務省による治安対策的改善政策に吸収されていった。そして,京都府での*米騒動が都市部落を中心に闘われることにより,従来の微温的改善策の限界が明らかとなり,融和事業の本格的開始と,水平社の創立を見るのである。

[融和運動]

 京都府における融和運動の前史をなす明治初期の改善運動の代表的なものには,愛宕郡蓮台野村の*益井元右衛門【ますいがんえもん】,下京区元天部の竹中庄右衛門らによる学校建設,貧民救助がみられる。また,日露戦争後の地方改良運動のなかで柳原町矯風会,田中村自彊会,野口村鶏鳴会などの改善団体が次々に設立されたが,内部の〈弊風〉矯正を唱えるにとどまった。こうした内部改善運動の破綻の後,同じく柳原町で*明石民蔵【あかしたみぞう】により,*大和同志会と歩調を合わせた部落民主体の自主的改善団体の結成がもくろまれたが実現しなかった。1918年(大正7)の*米騒動に多くの部落民が参加し,22年には*全国水平社が創立されたことにより,上からの融和運動が本格化した。その中心的存在が1923年8月に創立された京都府親和会【きょうとふしんわかい】である。ただし,親和会の実態は,融和運動の団体というより府内務部社会課の一部というべきもので,自主的性格は薄く,もっぱら国民融和デーや解放記念日の宣伝活動や講演会を主な活動としていた。末端の部落にまで影響が及んだのは,32年以降,*地方改善応急施設事業費として,国から多額の予算が下りてくるようになり,授産施設や共同作業場の設置などを手掛けてからである。41年8月,*中央融和事業協会が*同和奉公会に改組され,同年8月、親和会はその一支部に解消した。親和会のほかに,水平社創立後まもなく,東七条町に青年団を基盤として国民研究会【こくみんけんきゅうかい】ができたほか,地域的融和団体の設立をみたが,影響力はさしたるものではなかった。

[水平社運動]

 米騒動ののち,部落の青年たちは,従来の官製融和運動に対して批判的になり,差別に対する闘いも組織的になって,1921年(大正10)5月に起こった京都駅員による東七条の少年に対する差別暴行事件(*京都駅前事件)に際しては,町内より代表を派遣して交渉にあたり,謝罪させている。またこれに先立ち,友愛会による演説会,京都車夫連盟の結成にみられるように,部落における労働運動も胎動しつつあった。こうした自主的解放運動の高まりのなかで,22年3月3日,京都市岡崎公会堂で全国水平社の創立大会が開催された。その初代委員長には京都市内千本部落より*南梅吉が選ばれた。同年4月2日,上京区田中部落(現左京区)に京都府水平社,および全国で初めての支部が設立され,1925年末までに19支部796人の参加をみた。また,差別糾弾の件数も年を追って増加。労働運動との提携には当初から積極的で,日本労働組合総同盟の事務所が東七条部落のそばにあったことから,集会の応援等にでかけては,しばしば会社側に動員された国粋会と衝突した。

 無産階級運動との連携をめぐる全水内の*アナ・ボル論争では,当初ボルシェビキ派のフラクション活動に感情的な反発が強く,大阪を中心とする*全水無産者同盟に対抗して,*全水青年連盟が組織され,第1回大会が25年10月に京都で開かれた時には,出席者24人中12人が京都府からの参加であったほどである。しかし,その後,*朝田善之助,*菱野貞次ら若手の活動家がボルシェビキ派に加わり,26年11月の第5回京都府水平社大会は,労働者農民党を中心とする無産階級運動への方向転換を決議した。これ以来アナキスト系は,東七条に一握りの活動家を残すのみとなった。これとは別に,南梅吉は純水平運動を唱えて,27年(昭和2)1月に*日本水平社を結成し,北部の地域に影響力を持った。また,真宗僧侶の*篠崎蓮乗は,水平社創立当初,丹波地方で差別撤廃の演説会を開き,水平運動を広めた。水平社は差別糾弾闘争を中心としつつ,27年4月田中部落で区画整理反対運動,6月東七条区制革新運動【ひがししちじょうくせいかくしんうんどう】等,居住地での運動を進めた。また,田中水平社を拠点に,30年4月*洛北友禅工争議,6月*京都市バス争議など労働争議の支援も積極的に行なった。しかし,29年に入って労農党が分裂,無産政党乱立時代になるとともに,水平社内部にも政治的分岐が明らかとなり,東七条町を基盤とする菱野貞次の労農大衆党,田中を基盤とする朝田善之助の労農同盟(共産党系)等の系列に分かれ,統一した動きを取りにくくなった。こうした水平社の弱体化に拍車をかけたのが,31年12月全水第10回大会で提起された*全国水平社解消論であった。解消論により,横の連絡はまったく切れてしまい,田中部落でのピオニール活動や頼母子講支払い猶予運動を除いては組織的活動はみられなくなった。

 しかし,33年5月に*高松差別裁判糾弾闘争が起こると,府内の各水平社は真相報告会や演説会を開き,再び差別糾弾闘争にたちあがった。加佐郡,何鹿郡,天田郡等の郡部の水平社も福知山区裁判所に転任させられてきた白水勝起検事に対し糾弾闘争を行ない,再び福島県に左遷させる活躍をみせた。こうして水平社は組織を再建し,同時に従来の差別糾弾一本槍の戦術を改め,生活擁護の闘いを進めた。また,戦時色が深まるにつれ,応召者や戦死者に対する差別事件に対する糾弾闘争も各地で闘われた。しかし,37年7月に日中戦争が始まり,9月には全水中央委員会が戦争協力を表明。京都でも中心的活動家であった朝田善之助が38年3月に京都市社会課嘱託となって戦列から遠ざかり,さらに40年4月,全水に抗して*部落厚生皇民運動を始めて全水を除名され,京都府水平社の組織的な活動は途絶えた。

[戦後の解放運動]

 *部落解放全国委員会発足翌年の1947年(昭和22)9月28日,解放委京都府連は大会を開き,戦後の組織的活動の第一歩を踏み出した。この後展開された京都府連の活動は,京都府だけの闘争にとどまらず,その多くが全国的な闘いのモデルとなったところに特色がある。51年10月に起こった*オール・ロマンス闘争は,それまで態度や言葉づかいに力点が置かれていた差別糾弾闘争を*差別行政糾弾闘争に転換させた。そして,この日常的な生活の問題のなかに差別を見いだすという闘いの方針は,53年夏,由良・保津・木津川流域を襲った風水害の復旧闘争のなかで府内一帯に広められた。57年から59年にかけて全国各地で闘われた*勤務評定反対闘争では,京都は和歌山とならぶ闘いの中心地となり,部落解放同盟を中心として同盟休校が行なわれた。また,教科書無償化も,53年に京都市*田中子ども会が獲得し,市内全域の部落に拡大したものである。一方,運動の前進とともに路線的対立も先鋭な形をとって現れた。日本共産党と解放同盟が公然と対立することになる65年の解放同盟20回全国大会に先立ち,府連内の共産党を支持するグループと朝田善之助を中心とする京都市協議会が府連運動方針をめぐって対立したが,66年11月に朝田を委員長とする府連体制が確立。解放同盟中央本部はその組織的正統性を確認した。

 なお,72年から74年にかけて,当時の朝田京都府連委員長の組織運営を批判する人々により,組織の民主化を求める運動がおこり,組織分裂の危機に陥ったが,74年4月14日に府連21回大会が開催されて,吉田明が委員長に就任,現府連に連なる新体制が確立された。さらに91年(平成3)府連38回大会において駒井昭雄が府連委員長に就任。

[教育]

 愛宕郡蓮台野村の益井元右衛門により1870年(明治3)設立された小学校は,すでに幕末から私塾の体裁を整えていたといわれ,京都府内の部落における小学校教育の先駆けというべきものである。同郡柳原庄にも学制発布後間もなく小学校が設けられた。しかし,府の就学督励策にもかかわらず,部落の就学率は容易に高まらず,とくに都市部の部落の子どもは,幼いときから労働に従事しなければならず,なおさら就学率は低かった。こうした事態に対応して,1897年(明治30)東三条(旧天部)で竹中庄右衛門が協同夜学校【きょうどうやがっこう】を設立したのをはじめ,各地に夜学校がつくられた。水平社設立後では,東七条崇仁小学校での*伊東茂光校長による試みが,差別に対抗しうる人間形成をめざした点で同和教育の先駆的実践として高い評価を受けている。また,水平社の側でも田中水平社でピオニール活動がなされ,この伝統が,戦後の勤務評定反対闘争での同盟休校へと連なっている。しかし,大部分の部落の子弟の教育は部落外に比して大きく遅れ,戦後,とりわけオール・ロマンス闘争後に至ってやっと*長欠・不就学と低学力問題がクローズアップされた。京都市は1952(昭和27)年度より〈特別就学奨励費【とくべつしゅうがくしょうれいひ】〉を計上,54年度からは従来教師や学生の自主的活動で支えられてきた補習学級【ほしゅうがっきゅう】に〈課外補導費【かがいほどうひ】〉の予算措置を講じるなどして問題の解決に努めた。こうして,長欠・不就学は一定の解決を見たものの,高校進学率は63年段階でもなお部落外の半分に満たず,同年より,中学3年生を対象とした進学促進ホールが開始され,現在に至っている。なお,第2次大戦中から活動していた各郡市の同和教育研究会が母体となり,46年3月に結成された同和教育研究会京都府連合会は戦後同和教育の出発点ともいうべきもので,全国的にも早い取り組みであった。

[行政]

 京都府の同和行政の前史として,戦前に行なわれていた融和事業がある。1918年(大正7)の米騒動に多数の部落大衆が参加したことにショックを受けた市は,就労の機会を保障し就学前教育をめざして,19年に下京区東三条地区の託児所【たくじしょ】を市営化したのをはじめ,6カ所に託児所を置き,家事見習所を併設した。また,トラホーム治療所,公設浴場をそれぞれ7カ所設けた。24年より下京区東七条地区を中心に地区整理事業,35年(昭和10)からは国の*融和事業十カ年計画のもとで地区改良を行なった。39年11月にはさらに大規模な地区改良事業を策定したが,太平洋戦争の開始による予算削減・物資不足に加え,市役所内左翼グループ事件で*漆葉見龍【うるはけんりゅう】厚生部長らが処分されたことにより,計画は実現されなかった。京都府も32年の地方改善応急施設事業の開始以来,道路改修,共同作業場建設などを行なったが,戦争に突入して十分な成果をあげることができなかった。戦後,京都市は地方改善地区整理事業を細々ながら継続し,48年10月京都市同和問題協議会【きょうとしどうわもんだいきょうぎかい】を発足させて総合的な対策を検討し,さらに51年10月に起こった*オール・ロマンス事件を契機に,環境改善事業費を計上して同和予算を大幅に増額した。翌年4月左京区錦林地区に24戸の改良住宅建設を決定したのを皮切りに順次,改良住宅を建設したほか,道路・共同便所・上下水道・浴場等を整備し,トラホーム治療をすすめた。また,府も,府税務署・教育委員会・労働部の相次ぐ差別事件を前に,53年3月従来の同和事業に対する消極的な姿勢を改めた。

 京都は,もともと同和事業の先進地であったが,69年の*同和対策特別措置法以後,さらに同和事業は充実し,府単独事業として零細農経営改善資金融資対策事業ほか多くの単独事業を組み,京都市も予備校生に対する奨学金給付や学習センターの建設などを進めた。

 しかし,同和事業の推進にあたり,行政と運動の役割分担に不明確な点が生じ,83年には改良事業にともなう土地売買などをめぐり,京都市住宅改良事業室を舞台とする公金詐取事件がおこった。そうした体制の是正のため,84年には京都市同和対策事業検討委員会による意見具申が行なわれた。99年(平成11)3月には,府と京都市においてそれぞれ〈*人権教育のための国連10年〉行動計画が示されている。

参考文献

  • 部落解放同盟京都府連合会『京都府部落解放実態調査報告書 1984年』(1985)
  • 京都部落史研究所編・発行『京都の部落史』10巻(阿吽社,1989)
  • 辻ミチ子「京都における被差別部落成立について」(部落解放研究所編『近世部落の史的研究』上巻、解放出版社,1979)
  • 部落問題研究所編『部落の歴史――近畿篇』(1982)
  • 渡部徹『京都地方労働運動史』(京都地方労働運動史編纂会,1959)
  • 朝田善之助『新版 差別と闘いつづけて』(朝日新聞社,1979)
  • 白石正明「明治末期における部落改善運動の2つの道」(『京都部落史研究所紀要』1号,1981)
  • 京都市民生局『京都市における同和行政の概要』各年度版/師岡佑行『戦後部落解放論争史』4巻(柘植書房,1984)
  • 部落問題研究所編『京都の部落問題』全5巻(1985-87)
(灘本昌久)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:38 (1294d)