熊本県【くまもとけん】

[現状]

 1993年(平成5)の〈同和地区実態把握等調査〉 によると,県内94市町村中29市町村に50地区あり,世帯数3665,人口1万1308,県人口に対する比率は0.613%である。内訳は,500-600戸が1地区,100-200戸が6地区,他は100戸以下の少数点在部落である。都市型部落は1地区,他は一応農村部落である。農家戸数が地区全体の70%を占め,一部を除いてほとんどが兼業農家で,その約半数が第2種兼業農家,平均耕作面積は約35aと県平均の50%にも満たない。農業生産販売額で90年の農業センサス(熊本県)と93年調査の県内同和地区との比較についてみると、〈販売なし〉では,県平均の4.6%に対して同和地区は17.1%と約4倍も高く,100万円未満でも,県平均の43.5%に対して同和地区は58.5%と高くなっている。100万円以上の販売額では,逆に同和地区が県平均より約1.0ポイント以上低くなっており,とくに500万円-1000万円では,県平均の13.5%に対して同和地区は6.6%で半分以下となっている。飯米農家が多い同和地区では,減反政策の割り当てにも苦慮する状況にある。また,かつては県内唯一の部落産業であった食肉業も,輸入肉やスーパーマーケット等の進出で苦境に立たされている。さらに経済不況も重なって,生活保護受給世帯も依然として多く,93年調査の生活保護受給の状況をみると,県平均の7.8‰に対して同和地区の保護率は37.8‰と,約5倍近い保護率となっている。住環境の面では,同和対策事業によって一定の改善をみたが,いまなお旧態が強く残り,地区住民の一部の人は住環境改善等の借入金返済に追われ,若者の県外就職が多くなったことで残された高齢者は,少なくなった仕事を求めて苦慮している。高校進学率は高くなったが,それでも県平均の96.1%に対して同和地区は94.0%で,いまなお2.1ポイント低く,大学進学率では県平均の33.4%に対して同和地区は13.2%と半分以下の比率となっており,同和地区の大学生の多くが短大生である。部落解放同盟熊本県連の要求にこたえて熊本地方法務局長が80年(昭和55)以来3年おきに関係29市町村を対象に,過去3年間で発生した差別事件・事象の集約をしてきた。それによると80年が90件,83年が104件,87年が114件,90年が120件,93年が94件,96年が97件となっており、このなかには結婚差別、その他プライバシーに関する差別事件・事象や,就職に関する違反事例等は含まれていないが,このことからも,いまなお同和地区住民に対する予断と偏見に基づく差別意識が県民のなかに根強く残存していることがわかる。今日,同和地区住民が強く求めるものは,市民的権利の完全保障,教育・就職の機会均等の完全保障,学校同和教育の徹底と社会啓発活動,農業改善事業の指導と援助,さらには,住環境改善の残された部分や老化した部分の改善などであり,これらはいずれも急を要する問題である。

(宮本武一)

[前近代]

 近世以前の被差別民関係史料としては,1.鎌倉期以降,肥後の国府近くに〈国府宿〉という非人宿があった。2.大津町陣内に戦国時代の刑場跡として〈長吏が本〉という地名が残っていた。3.相良領において応永34年(1427)〈大田ミやうかわ田の門〉の記述(『平川文書』)など,断片的に史料が残ってはいるが,中世から近世へのつながりについては,よくわからない。

 天正16年(1588)の*太閤検地帳によると,名請人として〈かわた〉が登録されているムラがある。このころ強制移転させられているムラがある。たとえば隈【くまの】庄【しよう】城【じよう】の城下町にあった工人集落を下宮地村に移したり,嘉島町西村はもと上島村の東の方にあったが,太陽の昇る東の方にあるのはよくないとして六嘉村の西の方に村替えさせられたりしている。寛永11年(1634)12月頃までは百姓も斃牛馬の皮の自由処分ができたので,この時点までは,部落は確立していないといえよう。宝暦4年(1754)4月の段階では,部落は本村の枝村として位置づけられており,40カ所(細川藩内)あった。*人別帳など別帳化され,福入りなどの請持村も成立している。40カ村のうち10カ村は*年貢も諸公役も負担しており,22カ村は年貢だけを負担するなど,農民的性格が強い。氏神がない所もあるが,ほとんどが唐崎宮か志賀社となっている。一部に海神系の神社があり,漁師村が部落になっている所もあった。部落は皮革の交易などを通して,かなり広い婚姻圏をもっていた。たとえば,春竹村では,柳川,筑前,久留米,広島などから部落に住みつき,土地の人と結婚し,子孫までもうけている。人吉藩内では何カ村か部落があったが,幕末の史料によると,屋敷地ならびに持地の田畑は無年貢であった。天領の天草には非人部落が何カ村かあったが,江戸中期以降,肥後藩内の部落の人たちが小屋を作って移住し,天草皮の収集をしていた。熊本藩御用の皮革が不足したためと考えられる。

(大塚正文)

[融和運動・政策]

 明治期からいくらかの動きはあり、1919年(大正8)2月、*帝国公道会主催の第1回*同情融和大会(東京)にも出席している。しかし、組織、制度化については28年(昭和3)8月28日、官民合同による熊本県昭和会【くまもとけんしょうわかい】結成を待たねばならない。それ以前は県地方課で活動が行なわれ、25年には独立した社会課で行なわれるようになった。熊本県昭和会は、県行政首脳部と関係郡市の首長や部落の有力者、また一時期水平社運動に参加した人々も加わり、〈解放令発布日〉を選んで発足した。この日は全国5局を選んでのラジオ放送も行なわれ、本県も斉藤宗宜知事が講話を行なっている。以後、事業・予算は拡大し、第2次大戦中も続く。本県の特徴としては、熊本県水平社の結成に協力した部落外の人々のなかばが融和運動に参画していくこと、同時に本県における水平社運動の中心人物である、*冨岡募【とみおかつのる】、*宮村又八【みやむらまたはち】らは、昭和会・融和運動と最後まで一線を画していたことである。

(森山沾一)

[水平社運動]

 1881年(明治14)福岡の松園村を中心に結成された*復権同盟【ふっけんどうめい】の福岡・大分・熊本の3県からなる発起人23人の中に熊本の3カ村から7人が名を連ねている。大正期に入り融和団体が県内各地でつくられ、大正デモクラシーの風潮のなかで部落民自身が差別をなくすためにたちあがるという動きが芽生え、1923年(大正12)5月21日,福岡県飯塚町(現飯塚市)の筑豊劇場で開かれた福岡県政友会主催の政談演説会で,熊本県選出の島本信二【しまもとしんじ】代議士が,普通選挙を主張する憲政会を批判して,〈普通選挙になったら、穢多も選挙権を持つようになる,怪しからんことだ〉と言った差別発言をはじめ、幾多の差別事件と闘った。

 熊本県水平社【くまもとけんすいへいしゃ】は23年7月18日熊本市の相撲館に部落大衆1000人を結集して創立大会を開催。熊本県内の水平運動は県本部につづき菊池水平社、玉名水平社、鹿本水平社と各地に水平社の結成をみる。また急進的青年水平社員の一部は,24年5月17日熊本青年水平社同盟【くまもとせいねんすいへいしゃどうめい】を組織し急進的行動に移る。水平運動は県本部を中心に労働争議、小作争議の指導援助を行ないながら県内の無産運動の拠点的役割を担っている。しかし,軍国化政策のなかで官憲の弾圧を受け、31年(昭和6)には熊本の本部と県北部の6支部だけが残り、逆に融和団体が隆盛をきわめる形となる。そうした厳しい状況を克服して34年2月6日には県内30の部落が結集し県連再建大会を開催した。戦前の解放運動のなかで数多くの闘いがあるが、特筆すべき事項として35年の第6師団に対する〈差別一掃〉の要求闘争【だいろくしだんにたいする〈さべついっそう〉のようきゅうとうそう】(1-4月)、35年菊池村の檀那寺での差別発言から東西本願寺を相手に闘ったこと(5-11月)などが挙げられる。

(宮本武一)

[戦後の部落解放運動]

 1946年(昭和21)*部落解放全国委員会の結成を受け,熊本県連が発足。初代委員長は宮村庄平,その後、鎚喜次郎,*冨岡募,*宮村又八,森川恒義,冨岡信義,*坂田勝,豊田一義,松永政利に引き継がれる。57年部落解放*国策樹立請願闘争,58年*義務教育教科書無償化闘争と*勤務評定反対闘争,60年*安保反対闘争,*三井三池争議,62年水俣工場合理化反対闘争などの闘いで熊本の解放運動は飛躍的に発展する。71年熊本県同和教育研究協議会発足。73年熊本県部落史研究会が発足し,80年に熊本県部落解放研究会に改称。73年,100人の参加で出発した狭山県民集会も年々参加者が増加し,82年以降は1万人を突破する集会に発展。74年県庁内に同和対策室,教育委員会内に同和教育室を設置し,77年同和対策室が同和対策課に昇格。89年(平成1)同和教育室が同和教育課に昇格。76年に部落解放県民共闘会議が結成され,94年連合熊本を中心に部落解放共闘県民会議に改称。77年県同和教育基本方針,81年県同和保育基本方針,82年同和保育指針を闘いとる。82年熊本県就学前同和教育研究協議会発足。76年*九州産業交通就職差別確認会,78年地名総鑑購入企業九州興信所糾弾会,79年九州電力就職差別確認会を経て,80年以降3年おきに熊本地方法務局長が関係29市町村を対象に差別事件事象の実態調査を実施。84年4月県連再建大会。同年7月県連大会で執行委員長に松永政利を選出し新体制発足。87年以降毎年11月部落解放熊本県研究集会を開催。95年3月〈熊本県部落差別事象の発生の防止及び調査の規制に関する条例【くまもとけんぶらくさべつじしょうのはっせいのぼうしおよびちょうさのきせいにかんするじょうれい】〉(資料編C-2)制定を受けて97年までに県内94市町村のうち88市町村で差別撤廃条例が制定された。

(宮本武一)

[戦後の行政]

 県の同和行政は、広範な分野にわたる同和対策事業を円滑に推進するために、庁内の連絡調整体制の整備に努め、1967年(昭和42)に県同和対策連絡協議会を設置。70年2月には県同和対策事業推進連絡調整協議会に、さらに79年には、県同和対策推進会議に改組した。また、行政組織の整備をはかるため、74年1月に福祉生活部に同和対策室を設置し、それまで民生労働部社会課で所掌していた関連事務を移管。さらに77年には、同和対策課に改組して組織の充実をはかっている。同和対策事業では、県単独事業として65年度に〈不良環境地区改善事業補助金交付要綱〉を制定し、市町村の環境施設改善事業に補助金を交付(補助率は国庫補助基本額に対し、建物関係6分の1、その他4分の1)。また、教育関係では、67年に県単独事業で県高等学校等進学補助金制度を創設した。95年(平成7)3月には、結婚および就職に際しての差別事象の発生を防止するために、〈熊本県部落差別事象の発生の防止及び調査の規制に関する条例〉を制定。

(熊本県同和対策課)

[教育]

 明治5年(1872)の学制公布によって小学校が設置されたが,独立行政村でない部落の子どもたちは本村の小学校に通学せざるを得ず,このことは連日差別と直面させられる歴史の始まりでもあった。本県における部落に対する*育英奨励事業は1923年(大正12)中等学校生対象に年額270円,受給者2人から始まる。第2次大戦末期の43年(昭和18)山鹿で地方改善学資補助金が支給されている事実がある。32年熊本県昭和会が〈児童融和教育についての指示〉を示し,関係小学校に融和読本を配布。翌33年〈学校教育に関する融和教育の要項〉が決定され,融和教育に力を入れる。37年〈熊本県融和教育指定校設置要項〉が決定され,38年の2校に始まり,以来4小学校が漸次指定を受けた。

 戦後,部落の子どもたちの学習権保障をめざして,71年11月13日熊本県同和教育研究協議会【くまもとけんどうわきょういくけんきゅうきょうぎかい】が結成され、翌72年から同和教育推進教員が配置された。熊本県同教は現在33の加盟同研から成り,人権作文集の刊行・副読本『きずな』【きずな】の発行などに実績をあげている。県教育委員会は,74年同和教育室を設置し,77年〈熊本県同和教育基本方針〉,81年に〈同和保育基本方針〉,82年に〈同和保育指針〉を策定し,同和教育の普及に尽力している。また毎年,熊本県同和教育研究大会を開催,75年,90年,97年には、県で全同教大会を開催した。

(宮崎新二郎)

参考文献

  • 森山沾一「融和事業・教育論」(福岡部落史研究所『部落解放史・ふくおか』56号、1989)
  • 鹿本地区高同研集約『来民開拓団の歴史をきいて』(1974)
  • 熊本県同和教育研究協議会編『部落を解放する教育の創造のために』(1975)
  • 熊本県部落史研究会編『熊本県未解放部落史研究』1-5号(1974-80)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:38 (1411d)