群馬県【ぐんまけん】

[現状]

 総務庁による1993年(平成5)調査によれば、部落の所在市町村数は36、地区数は164、同和関係人口は2万7249人となっている。ちなみに地区数は、21年(大正10)調査で235、35年(昭和10)調査で263、75年調査で170であった。しかし、解放同盟県連が把握している現在数は192地区、また部落関係人口は5万人弱としている。部落の規模はおおむね少数であるが、太田市、粕川村などいくつかの市町村で200戸以上の中規模部落が存在している。なかでも事業未実施(未指定)の桐生市では県内最大級の地区がある。地形的に見ると、太田市や高崎市などの場合、山を取り囲むかたちで地区が点在しており、平野部にあっても、かなりの部落が河川面か斜形地にある。高崎市では都市型、農村型、山村型の各形態の部落がある。とはいえ、全般的にいえば、大半が農村型の部落であり、75年調査の8割には及ばないが、現在でも農業を営んでいる比率はきわめて高い。しかし、一部に野菜や園芸に活路を求めている農家はあるものの、大多数の農家は小規模で、農産品販売農家は少数である。70年代まで県内全域で盛んに行なわれていた養蚕は一気に衰退し、その影響も手伝って、部落の専業農家は姿を消したに等しい。農業以外では、土木建設、サービス業が多い。一時期、県東部では多く見られたメリヤス加工は激減した。解放同盟県連が80年代から94年までに集約した差別事件は442件にのぼっている。結婚(恋愛)関係がもっとも多く、ついで職場、日常生活の順で,公的関係者が関与した事件も多い。70年代までほとんど見られなかった落書き、はがきや手紙、電話による差別事件が起きているのが最近の特徴といえる。

(平井 豊)

[前近代]

 藤岡の平井,館林,太田などの部落が,戦国時代に初めて史料に姿を現す。それ以前では,世良田の部落は新田義興の墓守とする伝承(古地図あり)などがある。

 天文21年(1552)に北条氏に攻め落とされた関東管領・上杉憲政の平井城(藤岡)との縁を自認する長吏集団が,高崎・前橋・伊勢崎などに散在する。平井系長吏の南端の埼玉県深谷には北条氏発給の戦国文書が数通残され,〈砥役〉(西上州砥沢村産の砥石を扱う)が命じられているのが注目される。近世前期,北関東から信州にかけての部落は砥石【といし】の専売権を持っていたのである。また,植野村(現前橋市総社)の『小頭三郎右衛門文書』からは,長吏が天狗岩用水の水番を務め,斃馬の処理権を持ち,配下の1人が〈馬の目利〉をしていた,などの姿がわかる。

 館林には北条氏発給の文書が残り,長吏が戦場に付き従ったこと,皮革の製造に従事していたことがわかる。館林の小頭は,栃木県足利とは元は兄弟,栃木県佐野や新田の村田村とは古くからの親戚と伝える。この4小頭家は浅草の長吏頭・*弾左衛門と〈古来の縁〉を誇り,いずれも幕末弾役所での〈年始礼〉で最前列に座した。最前列8人の中には同じく上州の沼田,草津(湯の花の専売権を持った)もある。弾左衛門支配は上州等の有力小頭との関係をその基盤としていたようだ。なお元禄5年(1692)に,下仁田の馬左衛門が武田の証文を出して弾左衛門支配に抵抗したと伝えられており,弾左衛門支配の貫徹はこのころと推定される。

 太田の金山では,周囲の入口ごとに部落が存在し,将軍に献上する松茸の管理にあたった。その一地区には北条氏の文書が残る。また17世紀半ばに,安良岡の小頭は弾左衛門の呼び出しを拒否している。

 生業・役・文化では,村田村・小金井村(現新田町)や込【こみ】皆【がい】戸【 と】村岡(現粕川村)の史料で,古くから年貢地の高【たか】請【うけ】がみられるが,面積は小さく,地味も低い。竹皮草履が広く製造・販売された。皮革,砥石,水番についてはすでに述べたとおりである。ただし皮鞣し工程は不明。込皆戸では,他に山仕事や馬医者・薬屋の存在も明らかにされている。高崎の林屋は皮などを利根川沿岸で手広く商売した。刑吏・捕吏については実態があまり明らかでない。寺子屋や手習師匠,剣道修行,善光寺参り・伊勢参りなどの事例報告もある。

(藤沢靖介)

[近代]

 明治期の農業統計資料である『群馬県臨時農事調査』によれば、平坦地が多い中毛各郡(東群馬、南勢多、佐波等)や東毛各郡(新田、山田、邑楽)は小作率、兼業農家率が高く、農民層分解もこれに対応している。松方デフレ以後の農家負債総額はとくに東毛に集中しているが、鉄道網の整備は碓氷郡などの中間地帯にも変化をもたらした。こうした地域の偏差は近代の群馬県の部落を理解する手掛かりとなる。勢多郡粕川村込皆戸地区を例にとれば、近世後期、本村との土地所有の格差は2対1である(部落の平均は3反)。狭小な農地を補うための草履作り、日雇い、〈買い桑〉による養蚕、そして一部での皮革業などが、近世後期から近代初頭にかけての群馬における部落の生業の姿であったといえよう(なお人口比で本村を1.6倍上回っていた込皆戸地区では、明治初頭に学校分学、分村などの運動が存在した)。松方デフレに続いて、日清・日露戦争期から第1次世界大戦後まで続く窮乏下の関東農村を支えたのは製糸・紡績・織物業における女子労働力であったが、これは県内の部落にも該当する。とりわけ前橋、伊勢崎、桐生といった織物産業地帯を中心に、賃機業と工場生産の製糸業に部落の女子労働力が吸収された。この時期、〈銃後の備え〉としての地方改良運動は部落に対する〈特殊部落〉観という表象の確立ももたらすが、大正期に小作村として名を馳せた新田郡強戸村の1909年(明治42)村是調査は〈特殊部落即新平民人情風俗〉という調査項目で、〈嘲罵争闘殺生ヲ好ミ〉〈野蛮卑猥〉と記している(強戸村の部落は、近世においては太田市金山の〈献上松茸〉を管理する山番を担う部落でもあった)。近世以来の財力を有する富裕層や、筬【おさ】製造、前橋の坂本綱五郎家などを代表とする皮革業による経済力の蓄積、そして女子労働力を背景に、〈特殊部落〉観に対抗する水平社運動・融和運動の指導者層が生まれるようになる。

(友常 勉)

[水平運動・融和運動]

 1900年代に埼玉では地主小作の激しい対立が報告されていたが、群馬県の小作慣行調査では、地主小作関係は〈親密〉〈主従のごとく〉と報告されていた。強戸村争議などの小作争議とともに、水平社の糾弾闘争がそうした関係を打破し始める。1923年(大正12)3月23日、*関東水平社創立と同時に群馬県水平社【ぐんまけんすいへいしゃ】が結成される。同年1月、沢口忠蔵【さわぐちちゅうぞう】と*村岡静五郎(いずれも山田郡韮川)らの発起による水平社宣伝演説会・意見交換会が開かれ、*高橋貞樹、*平野小剣が出席、群馬県での水平社創立を呼びかけ、これに*川島米次、植松丑五郎、*山口静、全国水平社創立大会に参加した*小林綱吉、関東農民組合を創立した坂本利一【さかもとりいち】(山田郡毛里田村)らが合流した。初代委員長は村岡静五郎(のちに*坂本清作)。県水平社は新田、邑楽、西上州、左波、碓氷、群馬、北甘楽、山田、利根などの各郡・各村単位で結成され、本部は沢口方に置かれた。県内の初期水平社運動も他県と同様に、警察所・裁判所等の行政司法機関の占拠闘争や、地域単位での制裁行動などに農民運動との共通性があるが、実際に*高崎区裁判所事件や*世良田村事件の契機となった糾弾は、これまでの差別と主従的な地主小作関係への制裁的糾弾でもあった。碓氷郡烏渕村(現倉渕村)では23年4月に坂本利一らの指導による烏渕村役場・学校の糾弾・襲撃事件が発生、事態収拾のため隣村の倉田村で県下水平社連盟臨時大会が開催された。

 こうした徹底的糾弾は厳しい弾圧を招き、高崎区裁判所事件の処理における里美村水平社解散などの組織矛盾を生んだ。24年の執行委員会では水平社運動の拡大とともに県社会課の改善事業の調査などを提案し、委員長坂本清作・栗原積・川島平十郎・鈴木信作・正田熊次郎・松島慶次郎・越谷霊寸・境原国蔵などのメンバーが県庁に申し入れている。こうした徹底的糾弾から協調的な路線への変更と、*遠島スパイ事件に絡んでの平野小剣の全水除名などが決議されるなかで発生したのが25年の世良田村事件であった。事件後、平野と村岡との路線対立、義捐金の使途不明金の発生、村岡・栗原・*宮本熊吉らによる〈融和手打ち式〉の開催などの要因が重なり関東水平社は分裂、村岡らは水平社運動からいったん離脱した。25年に村岡派を指弾して関東水平社青年連盟が創立され、県水平社は坂本清作、沢口を中心に運営されるが、27年(昭和2)の*日本水平社への参加を通して組織統一がはかられた(4月に群馬県水平社大会)。同時期、倉賀野で小作争議も発生、同年4月に高崎水平社と西上州の水平社の一部は*清塚嘉信らを中心に水平社労農党支持連盟を組織。全水傘下の佐波郡水平社も労農党支部準備会を構成した。また坂本利一は県内の水平社同人の支持もとりつけ〈日本統一党〉結党を企図した。

 一方、融和運動に関しては、24年に県内でも〈児童奨励〉〈風紀向上〉の改善事業が行なわれている(込皆戸地区)。県水平社創立にあたって県当局は〈水平運動は群馬には入れない〉と声明したとされるが、世良田村事件を契機に26年2月に群馬県融和会【ぐんまけんゆうわかい】が創立された。県融和会には、主事に沢口、評議員に村岡、坂本清作、竹内喜春、越谷、川島、栗原、山口らが参加。彼らは融和会を通じた水平運動の精神の拡大を提唱した。当初は月刊誌『春光』の発行、高井潤一郎理事と沢口を中心にした県内一円の融和講演会、映画会を主な活動とした。30年には県内各地で融和会が創立され、また昭和恐慌期に突入し農村経済更生運動が展開されるにあたって、貯蓄組合・農事組合を改組した共励組合等による農地開拓、農業技術講習、共同購売買、共同作業所設置、納税組合などの改良運動において実績をあげた。その経験は戦後にも継承される。融和会は修養会も組織したが、これに対応した精神運動として、竹内や高崎の小林綱吉らを中心にした上毛革新同盟、群馬郡青年修養団、多野解放青年連盟、西毛解放連盟、中部融和会青年部青和会などが存在した。なお38年3月23日に関東水平社が解散するが、その前後から指導者層の運動の比重は全関東融和促進同盟(同年7月に委員大会開催)、*同和奉公会へと移っていった。

(友常 勉)

[戦後の解放運動]

 1946年(昭和21)4月、磯部温泉で行なわれた関東地方部落代表者会議が、県内における戦後解放運動の実質的スタートとなった。この会議開催に尽力した高崎の小林綱吉が、部落解放全国委員会県連の初代委員長となる。57年1月、相馬ケ原演習場で弾拾いをしていた部落の女性をジラード特務三等兵が至近距離から射殺するという事件が起こる(*ジラード事件)。この事件により農民の経済実態が改めて浮きぼりにされるとともに、国民の反基地意識が高揚した。部落に集中する零細企業者の育成は早急の課題とされ、72年4月に生業的業者を中心とした企業組織が発足。その後、解放運動への参画者も飛躍的に増加、また、このころから解放同盟県連の組織人員は常に東日本で最大となっている。75年に全国2番目に結成された県民共闘会議の存在は、解放運動の幅を広げるとともに、4度にわたる全県規模の人権展、労働者意識調査など貴重な作業を担った。県内の差別戒名・墓石数は全国でも有数で、解放同盟県連はこの問題を重要な運動課題ととらえ、その解決を関係教団とともに進めている。しかし、所有者の内面的問題でもあり、すべての解決までには一定の時間が必要と思われる。

 80年代、同和対策事業未実施(未指定)地区問題が全国で浮上するなか、解放同盟県連が*部落解放東日本研究所に桐生市の調査を依託。その結果は、差別行政の実態を生々しく浮かび上がらせたが、その後の行政施策に生かしきれておらず運動課題として残されている。解放同盟県連歴代委員長の大半は農民であり、なかでも内林善三郎は県農地委員、平井嘉男は農民運動、馬場朝光は足尾銅山鉱毒事件、農地土壌改良運動に取りくんだ。また、清塚幾太郎は*狭山事件の石川一雄逮捕直後、*野本武一(埼玉)、清水喜久一(東京)と現地に乗り込み、捜査の差別性を指弾した。星野義臣は20年余にわたって県連委員長を務めた。

 部落生活史研究の分野では、上州平井家文書の解明、粕川村の芸能「三番叟」復興、機おりの中核をなす*筬作りの歴史の追究、さらに最近では草津温泉湯の花採集にかかわった被差別部落民の生活など、全国的にも興味深いテーマの研究が進んでいる。

(平井 豊)

[行政]

 水平社運動を弱めるため意図的に融和団体を支援した県行政の体質は戦後に引き継がれた。県の環境改善事業の着手は1953年(昭和28)であり、以降68年までの16年間の同和対策費合計は教育部分を加えても2億円強にすぎない。しかし、群馬郡倉賀野町では62年にすでに隣保館が建設されており、その他の自治体でも単独事業がいくつか見られた。群馬県が同和対策を本格的に始めたのが*同和対策事業特別措置法施行4年後の1973年頃からと言える。それも国単独事業窓口を主にし県単独施策が消極的なため、大半の市町村がこの姿勢に追随する形となった。県の99(平成11)年度の事業費は、80年の10分の1に落ち込んでいる。県内でも差別事件が多発しているが、県の情報収集能力は最近低下している。事実から回避しようとする体質が市町村からの情報提供を遅らせていると推測される。県同和対策課の名称が2000年4月から〈人権同和課〉となった。時を同じくして始まった〈人権教育のための国連10年〉県行動計画推進と〈地対財特法〉失効後を展望した改称という。2000年度には県による県民意識調査が実施されるが、その調査結果の分析は,以後の同和行政の方向性に大きな影響を与えよう。

(平井 豊)

[教育]

 1972年(昭和47),〈学校教育および社会教育の中心的課題は法の下における平等の原則に基づき不合理な部落差別をなくし基本的人権の尊重の精神を貫くことである〉とした群馬県同和教育基本方針が定められた。以降本格的に同和教育推進が図られたが,県内全域に及ぶまでには年月を要した。しかし,当初から顕現完全否定を大原則にしたため,社会教育も含めきわめて抽象的教育手法となった。現実に存在する部落の実態を教材化できないため,市町村や地域間の同和教育の質に大きな差異が生じている。78年当時28人だった同和教育推進教員は99年(平成11)100人を超えているが,校区の部落実態を熟知していない者もいる。99年12月開催の同和教育研究懇談会の当日,開催市が運行するバス乗務員が,この行事を指して〈チョーリンボの集まり〉〈犬猫を虐待する人たち〉,さらには,そうしたことは〈みんなが言っている〉と発言する差別事件がおこった。85年に結成された群馬県同和教育研究協議会が核となって,99年12月,幅広い県民組織として〈人権教育推進ネットワークぐんま〉が結成された。

(平井 豊)

参考文献

  • 『込皆戸の歴史と生活』(東日本部落解放研究所,1994)
  • 東日本部落解放研究所編『東日本の近世部落の具体像』(明石書店、1992)
  • 同『東日本の近世部落の生業と役割』(同前、1994)
  • 「上州小頭三郎右衛門文書」一-三(『東京部落解放研究』63、65、66、68号、1989-90)
  • 「植野村の人々の生活と闘い」(同81号、1993)
  • 本田豊編『群馬県部落解放運動60年史』(部落解放同盟群馬県連合会、1982)
  • 『群馬県史』通史編7・資料編18(1978)
  • 松島一心「祭りと部落――群馬県下の聞き取りから」(『部落解放』266号、1987)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:39 (1469d)