広島県【ひろしまけん】

[現状]

 1993(平成5)年度の総務庁の同和地区実態把握等調査によると,広島県内86市町村のうち,同和地区を有する市町村は80,地区数472,世帯数1万1447,人口3万2898,混住率32.1%となっている。世帯数による地区規模別は,100世帯以上14(うち300世帯以上3)に対し,20世帯未満が349と全体の73.9%を占めており,少数点在地区が多いのが広島県の特徴である。職業構成は技能工,採掘・製造・建設作業者および労務作業者が28.3%,農林漁業作業者が13.9%,サービス職業従事者が12.7%,専門的技術的職業従事者が12.4%,事務従事者が12.3%となっている。就業実態は,有業者のうち臨時雇用・日々雇用が14.7%と不安定な状況を示しており,年収も300万円未満が・59.9%と,県全体に比べ12.7ポイント高くなっている。

 進学率の県全体との格差は年々縮まっているが,大学進学率は96年度においても,34.6%と,14.7ポイントの格差がある。物的事業については一定の成果をみているものの,生活環境の改善をはじめ,就業,教育,啓発などの分野において課題が残されていることから,関係施策の総合的,計画的実施が求められている。

(石黒道也)

[前近代]

 天正19年(1591),毛利輝元が太田川河口に広島城を築城した際,城下町に東西の地域を定め皮革技術者集団を居住させ,皮革の確保,さらに治安対策などにあたらせた。慶長5年(1600),関ケ原の戦いの後,安芸・備後の2国を領有した福島正則は武家諸法度違反によって改易,元和5年(1619)以降,浅野藩(広島42万6000石)と水野藩(福山10万石,のち阿部藩)に二分されるが,基本的には毛利時代の政策を継承し,より強力に推進していった。広島藩において寛文12年(1672)郡中村落の治安維持を目的として〈革田役〉を設置,組織化したこと,福山藩において寛文5年の宗門改めの際〈えた寺〉を指定したことなどから,17世紀後半寛文期ごろに,かわた・非人(広島藩),えた・茶筅・非人(福山藩)身分が制度的につくられたと考えられる。

 18世紀に入って,享保2年(1717)と翌3年,広島・福山藩で全藩あげての大一揆が起こった。幕藩体制動揺のなかで,両藩ともに差別の顕在化政策を強化していった。享保11年,広島藩はかわた身分に対し,髪形の規制,衣服の無紋・一色の強制,傘・合羽・木履・雪駄の使用禁止などを従来の治安維持の役割とあわせて布告した。その後禁令は増加され,加えて天明6年(1786)の福山藩一揆【ふくやまはんいっき】ではえた身分を農民鎮圧に動員するなど,民衆の分裂支配は露骨に強化された。18世紀から19世紀にかけて広島・福山藩の部落数はほとんど変化していないが,部落人口が倍増している。これは,部落の人々が厳しい差別政策のもとでも農地の獲得,商工業への従事などを通して経済的地位の向上をはかった結果であると言えよう。そのような部落民衆のエネルギーは身分解放をかけた近代へ向けての動きとなっていく。

(久替治)

[水平社運動]

 広島県水平社【ひろしまけんすいへいしゃ】は,1923年(大正12)7月30日,官憲が二重に取り囲む広島劇場(広島市十日市町)において1000人におよぶ参加者の熱気のもとに創立大会を開催。桝井寛一【ますいかんいち】が議長に選出され,参加者は歴史の堰を切ったように次々と差別事象を報告し,全国水平社の綱領・宣言・決議を満場一致で採択した。広島県水平社は,広島市福島町の躍進青年団【やくしんせいねんだん】の青年たちによって誕生した。全国水平社創立に応じ,官製青年団から独立した彼らは,融和団体と対決し、水平社創立事務所を開設した。檄,水平リーフレット,ポスター,ビラを制作・配布し,県内各地において演説会,座談会を開くなど,人間解放の〈よき日〉を迎えるために日夜を分かたず活動した。水平社運動は,官憲の圧迫,融和団体の反対にもかかわらず,1年後には現在の佐伯郡,呉・三次・府中・福山市と組織を拡大していった。初期水平社の運動は,差別者個人を徹底糾弾し,謝罪文を新聞やビラに発表させる方法で進められた。23年12月13日,全国水平社青年同盟広島県支部が総会で承認された。青年同盟は,これまでの徹底的糾弾に対し,経済的生活要求運動を基礎とし,他の社会運動との連帯を提起した。また,この日,県水平社は,広島・呉・尾道・福山・三次において各ブロック別の支部連合大会の開催を指令している。

 *アナ・ボル対立がもっとも激化した27年(昭和2)12月3日,全水第6回大会が広島市の寿座で,広島県水平社第5回大会と共催された。大会は2日間にわたり,最終日には解散を命じられたが、引続き協議会の会場を*福島町一致協会に移して続行するほど活気に満ちていた。広島県から〈*切串部落襲撃事件〉が報告され,内務省および県当局・村長・区長糾弾と切串部落慰問が全参加者によって憤激のなかで可決された。その後,広島県における水平社運動は高揚期を迎え,29年県内水平社数は10に達した。28年,広島県水平社連合会(以下,広島県連)と改称。進展するファシズムに抗して*陸軍参謀本部差別地図を糾弾するなど,果敢に全国的闘争を展開していった。しかし運動路線対立のため,34年まで5年間広島県連大会を開催することができなかった。

 33年,高松差別裁判に対して広島県連はただちに差別糾弾広島地方委員会を設け,署名・カンパ活動、演説会の開催などを展開。九州を起点とした差別裁判取り消しの請願隊を,10月4日,300人の歓迎員が国鉄己斐(現西広島)駅に迎え,広島市福島町一致協会(850人参加)と尾長町説教所(400人参加)で集会をもった。請願隊は翌5日,広島・海田・本郷・松永・赤坂の各駅で支援・激励を受けながら福山に入り,北吉津大西クラブで集会をもち(500人参加),6日,300人の歓送のなか福山駅を出発した。*高松差別裁判糾弾闘争,全水第11回大会(1933)の部落委員会活動方針を受けて,この間活動を中断していた広島県連は34年4月1日,再建大会を福島町一致協会において開催。労働者・農民との共同闘争が力説され,*部落委員会活動による生活基盤と近代的市民権利の獲得をめざす差別糾弾闘争は,混迷していた水平社運動を再び活発化させていった。36年,*太田川改修工事【おおたがわかいしゅうこうじ】に対し,広島県連は〈立退反対期成同盟〉を結成。借家人・町民集会等を開催し,公営住宅建設を要求するなど広範な大衆闘争を組織していったが,翌年7月,日中戦争が勃発し,戦時体制のなかで改修工事は中断された。

(久替治)

[融和運動・政策]

 1921年(大正10)3月13日,民間融和団体広島県共鳴会【ひろしまけんきょうめいかい】は,広島市木材町無碍幼稚園に約200人の参加者を集め,結成総会を開催。座長に*河野亀市【こうのかめいち】,ほかに勝田定【かつださだ】,*前田三遊【まえださんゆう】,*中村桂堂【なかむらけいどう】らが常任幹事に選ばれている。共鳴会は大正デモクラシーの潮流を反映して誕生したが,天皇制国家における〈国民融和〉を基本的立場としていた。つづいて25年10月,本派本願寺派の僧侶300人余をもって広島県同朋会【ひろしまけんどうぼうかい】が結成された。差別観念の撤廃を目的とし,差別事象の調査,講習会,講演会,文書宣伝などを事業内容とした。水平社運動に対抗するため,県行政は22年5月に地方改善事業委員会を設置。同委員会は,関係官公吏,県会議員,部落代表者,篤志家ら30人余で構成され,年1-2回の総会,隔月の小委員会を開催し,部落〈改善〉に関する調査,講習会,演説会などによる啓発活動を行なっている。 26年,郡役所の廃止とともに翌27年2月に融和事業委員会と改称。会長に県学務課長,副会長に県社会課長を位置づけ,知事が任命・嘱託する関係官吏,篤志家90人によって委員会を構成した。融和親善の促進向上を標榜し,市町村に融和事業委員会の設置を勧奨していった。その結果,翌28年度には,県内60余市町村で融和事業委員会が結成されている。32年の『広島県社会事業便覧』(広島県社会事業協会)によると,広島県共鳴会は,会長に知事,県庁社会課に事務局を置き,〈紛争解決,指導者講習会,講演会開催,国民融和日宣伝,機関紙『共鳴』の発行〉などを事業内容としている。会員は1万人余,32年7月現在12支部(佐伯,高田,木ノ江,山県東部,山県西部,賀茂北部,河内,世羅,芦品,甲奴,双三,能江),近く呉,福山,可部,祇園の4支部を設立させる予定と記録されている。

(久替治)

[戦後の解放運動]

 広島県部落解放委員会は,*部落解放全国委員会結成から約10カ月後の1946年(昭和21)11月,佐伯郡宮島町で結成大会を開催し,水平社運動以来の活動家・*土岡喜代一が委員長に就任した。48年8月,沼隈郡高須村で暴徒十数人が部落の集会所を襲い,住民1人を惨殺した*高須事件【たかすじけん】に際して,広島県解放委東部地区協議会は各地に檄を飛ばし,自主救援隊を組織,松永駅を中心に約2000人がデモ行進を行なった。全国委員会も現地に急行,県委員会とともに闘争態勢を固め,警察署・検察庁・県知事などに抗議運動を展開。部落大衆の集結,裁判への取り組みを積み上げ,この事件を通して部落解放の組織的闘争のみちすじを切り開いていった。佐伯郡*吉和中学校教育差別事件(1952),芦品郡近田村結婚差別事件(*福山結婚差別事件,1954)は,差別糾弾闘争を対権力闘争に進展させ,部落大衆の生活擁護と向上の諸要求を取り上げて闘う解放運動の方向を明らかにした。

 戦後再開された太田川改修工事により,放水路予定地の住民は立ち退きを迫られた。53年,部落解放委員会を中心に太田川放水路立退者同盟を組織し,要求闘争を展開,55年立退闘争に一定の妥結をみた。58年教員の勤務評定に対して,県東部を中心に部落解放同盟は教職員組合,民主団体と共同闘争を組織,広島県における勤務評定の行政的効力を実質的に骨抜きにし,革新運動の中核的役割を果たした。67年,府中市役所研修会において講師の発言に端を発した差別事件〈府中事件【ふちゅうじけん】〉,研究集会で報告されたアンケート調査の差別性について指摘された尾道市内高校アンケート差別事件【おのみちしないこうこうアンケートさべつじけん】は,広島県行政と教育の差別的・融和主義的体質を暴露した。部落解放運動の正しい方向が改めて問い直されるなかで,解放同盟広島県連は,69年12月14日再建大会を呉市で開催し,小森龍邦を委員長に選出。1970年代以降部落解放運動の高揚期を構築し,再建時県内48支部であった組織を飛躍的に拡大強化,98年現在支部数164に及んでいる。

(久替治)

[行政]

 1967年(昭和42)に起きた府中事件は,広島県行政の融和的体質を暴露し,行政責任が厳しく追及された。この事件を契機に,県における部落解放運動は果敢に行政闘争を展開。69年6月,県は〈同和教育行政施策の方針〉,引き続き5月,〈同和対策事業施策の方針〉を決定し,同和問題の早期解決を県行政の重点施策として位置づけた。戦後の同和行政は民生労働部厚生課社会係(1952),社会課社会係(1963)において担当されてきたが,この年,専任主管課として同和対策室を設置。同和対策室は76年に同和対策課に変更され,調整係(1979年以後,普及調整係),事業係と担当分野を明確にし,体制強化をはかった。具体的施策として,1.生活環境の整備,2.社会福祉と保健衛生の充実,3.産業の振興と就業機会の確保としているが,同和教育の徹底とあわせて同和事業の推進とその関連予算の充実が緊急な行政課題である。

(久替治)

[教育]

 1952年(昭和27),佐伯郡吉和中学校差別事件に対し,小・中学校生徒は同盟休校し,部落解放委員会は19カ条の要求書を県教育委員会に提出した。吉和事件は,広島県における同和教育運動の発火点にとどまらず,翌年,*全国同和教育研究協議会結成へと発展していった。広島県同和教育研究協議会の誕生は54年であるが,この年,県教委が発刊した『同和教育の手引』が,当時県内でもっとも広く参考にされた。吉和事件以降,長欠児に取り組んだ鹿川小・中学校,集団教育に成果をあげた山内中学校,福山地区就職問題懇談会,松永高校における部落研活動など,差別の実態から同和教育の内容を創造していこうとする実践が培われていったが,60年,*「人間みな兄弟」上映運動が一部の学校でしか取り組まれなかった状況が,この段階における県内の同和教育の実態を示している。67年,行政の融和性を告発した〈府中事件〉〈尾道市内高校アンケート差別事件〉は,高度経済成長と中教審路線強化のなかで同和教育が形骸化していた教育現場に厳しい警鐘となった。同和教育の原点として,部落差別の現実に学ぶ*地域進出【ちいきしんしゅつ】が中心課題となり,かつてない教育内容の問い直しが進められた。1970年代に入り,広島県は戦後における同和教育運動の高揚期を迎えた。私学,定時・通信制,分校を出発点とした各分野の*同和教育白書運動は,現実をより的確に把握させ,教育条件闘争を具体化していった。同時に,部落解放の主体形成をめざす子ども会,部落研,サークル活動は,地域(解放運動)と学校を結合させ,同和教育を内実化するうえで大きな役割を果たした。

(久替治)

参考文献

  • 広島部落解放研究所編『広島県・被差別部落の歴史』(亜紀書房,1975)
  • 橋本敬一「芸備の被差別部落」(部落解放研究所編『近世部落の史的研究』下巻,解放出版社,1979)
  • 中野繁一『広島県水平運動史』復刻版(部落解放同盟広島県連合会,1971)
  • 広島部落解放研究所編『実践 同和教育論』(亜紀書房,1977)
  • 広島県『広島県史』近代現代資料編3、近代2(1976,81)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:40 (1295d)