衡平社【ヒョンピョンサ】

 1923年4月25日,日帝支配下にあった朝鮮の慶尚南道晋州で、人権確立と衡【はかり】ではかったような正確な人間平等を訴えて創立された人権団体。創立の中心となった<*白丁【ペクチョン】>は,朝鮮王朝時代(1392〜1910)からもっとも過酷な差別を受けてきた被差別民衆を代表する人々である。一般の人々の村落から離れて生活している<白丁>は,髪の毛を束ねる,馬の毛でつくった綱巾【マングン】や革靴の着用禁止,また女性もかんざしを挿すことを禁止され,<白丁>身分を明かす革ひもを上衣につけることを強制された。衡平運動のリーダー,張志弼の父・張徳賛は慶尚道71郡の<白丁>を代表して,慶尚道監事・李鎬俊(売国の五賊の中心人物といわれる,李完用の父)に対して綱巾着用禁止の撤廃運動をおこして勝利し,甲午改革【こうごかいかく】(1894)の<解放令>を導いた。衡平社の結成は,これらの人権闘争が引き継がれたものといえる。

 創立大会で採択された<衡平社主旨>で次のように宣言している。<公平は社会の根本であり,愛情は人類の本領である。それゆえ,我らは階級を打破し,侮辱的称号を廃止し,教育を奨励して我々も真実の人間になることを期するのが本社の主旨である…>。<《白丁》は人間でないのか>と訴える衡平運動は,朝鮮社会の根強い差別構造に反感をもつ人々の共感を呼び,執拗な反衡平運動,妨害,テロ,牛肉不買運動をのりこえ,わずか数カ月後には全国70カ所に支社組織を設けるほど,急速な展開を遂げた。初期の人道主義,人格的平等のスローガンは社会主義運動の影響を受けて変化していった。また,植民地統治が厳しさを増す1920年代から30年代にかけて,民族解放の思想団体や青年運動、農民団体の運動と結びつくのは当然であった。27年,朝鮮の独立と平等社会の建設をめざして結成された高麗革命党は創立間もなく治安維持法違反として弾圧されたが,逮捕者15人中6人が衡平社の幹部であった。

 衡平運動と日本の水平社運動の交流は,他の社会運動にみられないもので,差別された民衆同士が民族差別の厚い壁をのりこえ,衡平社の李東煥が27年に大阪・香川・京都の水平社を訪問するなどいくたびか交流を重ねた。翌28年の全国水平社第7回大会で連帯の挨拶を行なっている。朝鮮総督府は,水平社と衡平社の交流に神経をとがらせ,衡平社大会における水平社代表の連帯の演説は,臨席している日本の警官の<弁士中止>の命令で降壇させられるのが常であった。衡平運動への弾圧は1930年代になるとさらに厳しくなり,左右に分裂した思想団体によって後退を余儀なくされた。衡平運動は<内鮮一体>の同化政策のもと,融和主義者が主流を占め,35年の第13回大会で大同社と改称,植民地支配下で経済的利益を追求しようとした。未完の運動で終わった衡平運動が,厳しい弾圧にさらされながらも日本の水平社との交流をはかり35年まで持続したことは特筆すべきことである。

 93年4月2日,衡平社結成70周年を迎えた晋州市では,市民千数百人の参加で記念式典を挙行,<衡平運動の現代的照明>をテーマに国際学術会議を開催。<衡平運動>が人間解放と人権回復の画期的な社会運動であることを明らかにし,その精神を引き継ぐことが今日の責務であると強調された。3年後の96年12月10日,世界人権宣言48周年に合わせて衡平運動の記念塔が晋州市と1500余人の市民,日本の有志の協力で建立された。晋州城正門前の2本の塔は,衡平運動の理念である<自由と平等>を永遠に訴える人権都市・晋州のシンボルである。

参考文献

  • 金永大『朝鮮の被差別民衆――「白丁」と衡平運動』(解放出版社、1988)
  • 衡平運動70周年記念事業会編『朝鮮の「身分」解放運動』(辛基秀監修、民放教育文化センター訳、同前、1994)
(辛 基秀)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:40 (1417d)