香川県【かがわけん】

[現状]

 香川県同和地区実態把握等調査推進委員会『平成5年度同和地区実態把握等調査』等の資料によると,26市町に46地区,同和関係人口は7525人(2906世帯),いわゆる混住率は85.7%である。しかしこれには含まれないいくつかの地区が存在し,さらに歴史的系譜を異にする被差別地域が少なからず存在することも知られている。調査対象地区は単身世帯が多く,県全体に比して世帯規模は小さい。また後期高齢者の率が男女ともに小さい。生活保護率は世帯比で28.3%,住民税非課税世帯は22.3%で両者を加えると50.6%の高率を示し(平成4年国民生活基礎調査によると全国平均は両者の合計15.9%となっている),所得水準は低位で,生活は厳しい状態におかれている。

 在学者等を除く最終学歴別人員は,不就学者3.9%,初等教育修了者65.3%,中等教育修了者25.3%,高等教育修了者4.5%となっている。不就学者は50歳以上がほとんどで,高齢者ほど率が高くなっており,中等あるいは高等教育修了者は40歳未満の率が高くなっている。高校進学率はここ数年80%強のレベルで推移している。県全体で97%程度,同和地区の全国平均が92%程度であるから,この数値はきわめて低いといえよう。高校中退率は県全体で2.7%程度であり,部落の場合はその2-3倍に及ぶものと推定される。大学等への進学率は県全体の45%に比して22%程度と,これもまた低調である。

 就労状況は〈仕事をしている〉が50.3%にとどまり,県全体の64.2%との間に大きな開きがある。本県では部落の農業基盤は藩政期に崩壊しているといえる。近代以降は農業との関係が小さく,そのことが仕事の実態を根本的に規定している。農業の場合も保有農地,小作地ともかなり小規模で,この状態は*農地改革においてほとんど潤うことがないという結果を生じた。*行商,ぼろ買い,賃仕事などが生活を支える手段であった。戦後は多くの人々が*失業対策事業に吸収された。高度経済成長期に職種はある程度多様化し,就業地も各地に分散する傾向をみせた。近年は若年新卒者が安定的な仕事に就くケースが増加しているが,今もなお全体的には就業状態は不安定,零細な実態にあり,仕事の基盤は脆弱である。

[近世]

 高松藩では延宝4年(1676)には〈*穢多〉呼称が使用されており,〈穢多〉(かわた)の身分編成はこれより早い時期と考えられる。他にも〈*乞食〉〈*猿牽〉その他多様な被差別身分が存在した。丸亀藩では寛文13年(1673)の検地帳が〈かわた〉の初見史料とされる。享保11年(1726)に藩は〈座頭〉〈穢多〉〈猿牽〉の別帳による記載を指示しており,これが〈穢多〉身分の初見史料である。他にも〈説教師〉〈おんぼう〉〈番人〉などの被差別身分があった。

 高松藩には〈穢多目明〉の制度が設けられていた。盗賊の逮捕,胡【う】乱【ろん】者の取り締まり,博奕取り締まりなど広範な,そして危険な仕事に従事させられていたのである。郡別に給米が給されたが,やがて打ち切られ,縄張り内の各戸を回って心付けを請けさせるという屈辱的なものにかえられた。丸亀藩では治安対策の中で,〈穢多〉と〈おんぼう〉をもっとも危険な個所の番役にあて,両身分に末端の警察業務を強制した。〈猿牽〉も牢番手下として刑吏役を負担させられている。

 藩政期,*斃牛馬処理は生活手段として重要であった。牛馬皮,肉,骨などは上方に積登されており,皮革加工や細工はあまり行なわれていなかったことが推測される。高松藩では草場株の統制は法制化されていた。文政10年(1827)の〈牛馬締方〉では,部落に斃牛馬処理を独占させる一方,彼らの*馬喰業を禁止するとともに,生皮の領内自給体制の整備をはかっている。丸亀藩では,延宝1年(1673)の多度郡検地帳に革多運上の記載があり,皮革生産への課税と考えられる。しかし史料が乏しく,詳しいことは不明である。幕末期には七カ村の部落の人々が藩に上納金を申し出ている。牛骨,牛黄,鹿角,牛馬皮などを用いた製薬に携わる人々で,斃牛馬処理の仕事をもとに商品生産の努力を重ねたものと思われる。

[近現代]

 幕末維新期の戸数・人口を見ると,高松藩では慶応4年(1868)の『讃岐高松領地高調帖』は、〈穢多〉915戸,3962人,〈乞食〉188戸,933人としている。丸亀藩の明治3年(1870)調べでは,〈穢多〉は536戸,2478人とある。旧多度津藩では同29戸,134人などとなっている。

 明治4年,*〈解放令〉の布告に際し丸亀県および高松県は〈解放令が天皇の不【ふ】便【びん】の思召しから出たものであることを取り誤り,長年の欝積があるからといって,尊大な振る舞いをすることは不心得であり,もっての外である〉といった内容の布達を出した。1873年(明治6)に起きた西讃竹槍騒動【せいさんたけやりそうどう】はいわゆる*〈解放令〉反対一揆であり,一揆勢は羽床村の被差別部落を襲って家屋40戸を焼いた。丸亀市の田潮神社境内には76年〈不許触穢者入〉の石柱が建てられ,同様の結界石は金刀比羅宮神事場の入口にもあった。近代は差別意識を解消の方向に向かわせる側面と,逆に拡大再生産させる側面の,矛盾する両面を持つとするならば,これらは後者を示す事例である。

 1915年(大正4)の県の調査によると,部落数は58地区,1928戸,1万0671人となっている。18年の*米騒動には小豆郡草壁町,池田町,香川郡鷺田村,由佐村などの部落大衆が決起している。

 香川県水平社【かがわけんすいへいしゃ】は24年7月11日に結成された。創立大会は観音寺町で開かれ,座長は高丸大造【たかまるたいぞう】であった。県内各地にも水平社が設立され,27年(昭和2)には14の組織ができていた。32年には13団体,総会員数は593人であった。27年,由佐村で部落の死者の共同墓地への埋葬に反対して,村民400人が鎌や鍬を手に妨害するという差別事件が起きている。

 33年に*高松差別裁判事件が発生,全国水平社の組織をあげての糾弾闘争が展開された。7月28日の部落代表者会議には21部落から81人が出席,傍聴者も150人を数えた。8月26日,県公会堂での香川県部落民大会には1000余人が結集しており,県内各部落が熱く燃え上がったことをうかがい知ることができる。全水が組織した請願行進隊には,香川から朝倉武夫(鷺田村)と塩田正雪(観音寺町)が隊員として参加している。ところが,全水の闘争成果とは裏腹に,香川では同年11月から12月にかけて,地元鷺田村馬場部落は61人が検挙引致されるという大弾圧を受けた。部落側は12月6日,全水脱退を表明し,10日にはかわって融和団体〈黎明会【れいめいかい】〉を結成。翌年4月までに県内11の水平社支部はすべて全水を脱退し,融和団体へと編成替えをさせられた。しかし,35年3月に水平社香川県連を再建。この時期,活躍したのは中村正治【なかむらまさはる】であり,運動の中心は観音寺と彼の地元の西庄であった。

 戦後,48年の部落解放全国委員会香川県連結成で中村は委員長に就任。副委員長は藤本勝義,書記長は柳生進であった。51年に由佐村で部落出身の村長候補に対する差別事件が起こり,解放委の応援を得て村当局を糾弾。61年の部落解放要求貫徹請願運動には,のちに部落解放同盟香川県連委員長・中央本部執行委員を務めた*本多義信【ほんだよしのぶ】が行進隊員として参加した。本多は*全日本自由労働組合の活動家でもあった。本多に象徴されるように,戦後は長く部落解放運動と失業対策事業就労者の労働運動とが連携していた。79年には狭山同盟登校が取り組まれ,8支部が実施,5支部が学習会を行なった。66年以降,県連と各支部は毎年〈県内網の目行動〉を実施し,県をはじめ各自治体をくまなく巡って,行政,教育その他の課題について交渉,協議を積み重ねている。

[融和運動]

 県は1913年(大正2)以来,部落改善のために尽力した団体に対し県費をあてて補助を行なっている。また15年に郡市長会議を開き,部落に改善機関を設置し経済・風教・衛生に関し改善を貫徹するよう指示を行なった。このとき改善機関は数団体であったが,20年には24団体に増えている。県は20年に部落改善費補助規定を設け,同年は補助金1400円を計上して各団体に配分した。26年10月,有志により香川県一心会【かがわけんいっしんかい】が創立され,翌27年(昭和2)10月,讃岐昭和会【さぬきしょうわかい】へと拡大改組された。同会は,知事を会長とする全県的な組織であった。32年度の*地方改善応急施設事業費として香川県では2万円が交付され,道路改修,下水路改修その他の事業にあてられた。これによって住民に仕事を与えることとしたのである。馬場地区の黎明会をはじめ各部落の融和団体を通して,墓地整理,井戸改修,公会堂新設,便所の改築などの事業も行なわれた。

[教育]

 県内の被差別部落児童に対する公教育は,ほとんどが〈*部落学校〉(分教場)として出発したと言ってよい。部落内の民家の提供を受け,部落の人で比較的学識のある人を〈雇〉などの低い待遇で教師とするケースが多かった。分教場が本校に統合されるのは,明治30年代から40年代の前半にかけてであった。1915年(大正4)には香川郡鷺田小学校【さぎたしょうがっこうさべつじけん】で2人の部落出身教師に対する排斥事件が起きた。部落外父母らは600人とも800人ともいわれる子どもたちを登校させず,卑劣な差別を貫徹しようとしたのである。2人の教師は辞職を余儀なくされた。40年(昭和15)県融和教育研究会が設立され,高松市立鶴尾国民学校(元鷺田小)と川津村立川津国民学校が研究指定校となった。

 戦後57年,善通寺市で市立与北小学校と社会教育分野とが〈同和教育の共通理解をはかる〉との研究主題のもとで同和教育の実践に取り組むことになった。61年香川県同和教育研究協議会(香同教)が結成され,69年には*全国同和教育研究協議会に加盟した。この間63年に第9回四国地区同和教育研究大会が初めて香川県で開催され,以来4年ごとに開催を重ねてきた。75年香川県教育委員会は〈差別をしない,差別に負けない,差別を許さない,強い信念を持った人間を育成する〉との香川県同和教育基本方針を公にした。99年(平成11),第51回全国人権・同和教育研究大会が香川県で開催されている。

[行政]

 県が戦後初めて同和対策に取り組んだのは1958年(昭和33)で,160万9000円の予算を計上した。70年に同和対策室を設置,以後78年7月に同和対策協議会を発足させ,79年4月に同和対策本部と教育委員会に同和教育課を置くなど,機構の整備を進めた。関係市町でもそれぞれ対策が進められた。

 95年(平成7)9月までに,坂出市を除く4市38町で,名称は一様ではないが,差別撤廃・人権擁護に関する条例が制定された。県も96年3月,〈香川県部落差別事象の発生の防止に関する条例【かがわけんぶらくさべつじしょうのはっせいのぼうしにかんするじょうれい】〉(資料編C-4)を制定した。近年,たとえば善通寺市では市の同和対策審議会が98年6月に〈今後の同和行政のあり方について〉答申を行なうなど,法切れ後の21世紀を展望した〈街づくり〉のあり方を模索する動きが,いくつかの市町でみられるようになった。

参考文献

  • 四国部落史研究協議会編『史料で語る四国の部落史』前近代編・近代編(明石書店,1992・94)
  • 第51回全国人権・同和教育研究大会香川県実行委員会編『記念誌』(1999)
(吉田卓司)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:40 (1354d)