高知県【こうちけん】

[現状]

 本県の部落は1993年(平成5)現在、53市町村中,9市18町6村の計33市町村に73を数える。本県を,安芸,中央,高幡,幡多の4広域生活圏に分けると,地区は,安芸13(17.8%),中央29(39.7%),高幡18(24.7%),幡多13(17.8%)となっている。

 職業について,就業形態別有業者数からみると,雇用者総数のうち,常雇い51.7%,臨時雇い10.5%,日雇い8.8%,会社・団体などの役員1.7%,また自営業主のうち,雇人ありが5.1%,なしが12.9%,自家営業の手伝いが6.3%,家庭内内職が1.8%,不明1.2%となっている。生活保護率は,89.4‰であり,地区外のそれと比較して約5倍強の高率を示している(93年調査)。

 高校進学率は,県平均95.4%に対して,地区平均は90.6%である。大学進学率になると,さらに格差は広がり,県平均37.3%に対し,地区平均23.0%である(98年度)。これらは,早急に解決されなければならない課題であるが,それにもまして重要視されなければならない課題は,〈*同和対策審議会答申〉も指摘しているように,部落差別の本質は就職の機会均等の権利が保障されていないことであり,そのことは今日においても依然として変化はなく,職業保障の課題が早急に解決されなければならない。

[前近代]

 *『長宗我部地検帳』(1587-90)に記載されている〈坂者〉〈芝者〉の居住地が現在の部落と同一地ないしはその周辺であるというところから,部落の祖先を〈坂者〉に求める人もある。ただ〈坂者〉の居住地がすべて,1873年(明治6)の高知県調査による〈部落神社と氏子〉とは合致しない。また,同地検帳中,弘岡村(現吾川郡春野町)の坂者八筆の中に〈皮給〉とあるが,これが近世初期の〈*かわた〉にそのまま移行したとは推測されない。天和3年(1683)家老月番記録に〈かわた1641人〉とでている。〈かわた〉の呼称は現在のところこれが最後のものであるが,当時の史料からして,〈かわた〉は比較的自由であり,深刻な差別政策により,民衆分裂の道具とはされていなかったようである。

 第1代藩主山内一豊入府後,わずか20年にして,土佐藩の借銀は2000-3000貫になる。したがって藩は財政の安定をはかるため,農・漁民の統制を厳しくしたことが〈本山掟〉(1642)や〈弘瀬浦掟〉(1659)にみられるし,専売制や新田開発,隠田の摘発などにみられる。こうした人民への無理な収奪がやがて民衆の反発をかい,部落が確立されていくことになる。*穢多ということばが現れてくるのは,『幡多中村長吏頭覚右衛門先祖由来記』などの史料から考えて17世紀後半の元禄期(1688-1704)から明和年間(1764-72)と類推される。当時の自然まかせの農・漁業では,天候の不順や病災害の流行で収入が激減するが,藩財政はそんなことに構うわけにはいかない。当然,農・漁民の抵抗があるため〈穢多〉といわれた人々への差別が強化され,〈風俗御示之事〉に象徴されるように,髪型,容姿等への規制,〈在家〉への出入の禁止,差別の強制等,40を超える布達が次々と出されていったことは*『憲章簿』の〈穢多・牛馬之部〉にみることができる。

[融和運動]

 自主改善運動について,1889年(明治22),長岡郡坂折の藤田秀幸は,『土陽新聞』に寄稿文をよせているが,それは当時の部落の人々の共通した願いであろう。当時の簡易小学校,夜間学校の設立,本校への就学など,教育には相当な力を注いだ。1903年、大阪での*大日本同胞融和会の創立総会に参加し,その流れを汲むものとして,1906年に現南国市野中に〈野中改風会〉ができ,10年には吉本代次郎の提唱によって〈野中改善会〉【のなかかいぜんかい】と改称された。一方,日清・日露戦争を通して,自主改善運動は官製の色彩を強くし,その流れを汲むものとして,1907年竹島敏夫による原改善会(高知市),1909年の西浜改良会(安芸市),永野矯風会(佐川町)が設立された。自主改善運動は大正期に入りさらに発展がみられたが,それに対して政府は13年(大正2),*細民部落改善協議会を開催し*大江卓・板垣退助らが中心となって,半官半民の*帝国公道会が結成されるが,本県では,19年県知事を会長に高知県公道会【こうちけんこうどうかい】が発足する。

 *米騒動に驚いた政府は,19年,部落改善事業のために初めて国家予算に5万円を計上するが,高知県へは3290円の配分があった。それにより,県内の主な部落に各1人の部落改善奨励委員(15人)がおかれて活動するようになる。水平運動の懐柔をはかる政府は23年以降地方改善事業の一部に育英事業を加えるが,本県の受給者は,25年,中学5,農業校2,大学・高等学校各1となっており,31年(昭和6)には,中学43,専門学校(高校,大学)8となっている。また,高知県公道会の動きが活発になるが,それと一線を画した民間の融和団体である〈高知県自治団〉【こうちけんじちだん】が植村省馬の手によって,24年に結成される。この自治団は,部落の人々の自覚と改善を目的としているが,さらに,部落解放は就職・通婚の自由にあることが主張されている。こうしたなかでファシズムの波が急激となり,融和運動も,41年,*同和奉公会が全国的に組織され,戦時体制のなかに埋没していく。

[解放運動]

 *〈解放令〉に失望した部落の人々は自由民権運動に接近していった。1883年(明治16)*植木枝盛の指導による〈西谷平等会〉が結成された。東京追放を受けた*中江兆民は88年*『東雲新聞』に「新民世界」を発表し部落解放を訴えたが,本格的な解放運動の展開は水平社の創立をまたねばならなかった。1922年(大正11)の*全国水平社創立大会に参加した*国沢亀が中心となり、23年県水平社を創立し委員長に国沢を選出,土佐郡小高坂村(現高知市)に県本部をおいた。国沢は23年の全水第2回大会で〈我々の言ふべき言葉は最早尽きた。我々の目醒める時は今である。…我々は国家に随分血税を払った。然し,国家は我々の事を何とも考へない。我々は今の調子でいるならば,我々は永遠に目醒めることができない〉と演説,時に30歳だった。23年4月〈長岡水平社創立大会演説会事件〉で国沢は治安警察法違反で弾圧され,同年6月、懲役8月執行猶予3年の刑を受けた。県内には弘岡,秋山,小高坂,一宮,山田などに続々と水平社が生まれ運動を展開した。昭和恐慌下には労働運動,農民運動の中核となって部落民の生活権擁護の闘いを進めた秋山村農民組合は水平社支部と組織が一体であった。戦時体制下においても全水の旗を守り*松本治一郎と行動を共にした。

 46年(昭和21)8月、石立八幡宮で部落解放高知県委員会が組織され委員長に森岡深太,副委員長に寺岡貞美,書記長に尾崎喜寿が選出された。一方,部落外の人々をも加えた友愛会が52年に結成され(会長大野武夫),部落解放を訴えていく。大衆の生活と権利を守って活動し組織を拡大していった高知県委員会は,55年には颪【おろし】辺【べ】寿太郎【おろしべじゅたろう】らを中心に解放団体高知県連合会に発展的に解消され,その際友愛会も吸収合併された。土佐村村吏差別事件,*弘岡中学校差別事件など数多くの差別糾弾闘争を闘い,59年3月5日に部落解放同盟高知県連合会となり全県的に闘われた*安保闘争,*勤務評定反対闘争,*義務教育費の無償要求運動,*壬申戸籍糾弾闘争,*「橋のない川」上映反対闘争など多くの差別糾弾闘争を闘い、力強い歩みを続けている。

[行政]

 明治・大正・昭和戦前期まで,融和事業は比較的取り組まれてはいるが,自力更生のことばに象徴される通り部落差別の原因を部落に求めるものであった。帝国公道会が結成されるに及び,結成の中心的人物が本県出身者ということもあり,融和事業の年度ごとの実績が記録されている*中央融和事業協会発行の*『融和事業年鑑』には,本県のものが多く収録されている。1948年(昭和23)には,当時の桃井直美知事の7月14日付〈今後採るべき同和事業方策について〉の諮問に対して,12月1日付をもって〈同和事業方策の答申書〉が県社会福祉委員会によって提出されている。これを受けて50年には,県教育委員会名で〈同和への道〉と題する具体的方策が出されるが,戦後の民主化路線が部落問題を素通りしたように,空【から】に等しい施策方針であった。58年,県隣保館連絡協議会が結成されるが,同和行政は厚生労働部厚生課の所管事業とされており,その進捗状況も,いくつかの差別事件をくぐらなければ前進の方向を見いだすことはできなかった。

 とりわけ65年の同和対策審議会答申,69年の*同和対策事業特別措置法は,同和行政を大きく前進させた。関係市町村との同和行政の連合体である県同和行政連絡協議会も結成され,運動が活発化してくる。71年4月には県同和行政の窓口として同和対策課が設置されるが,厚生労働部の所管から企画部所管に移行されるのは75年のことである。県民啓発活動としての〈部落差別をなくする運動強調旬間〉も,各市町村と合同で75年から取り組まれている。また,啓発活動のセンターとして高知県地域改善協会が83年から発足し(98年、高知県人権啓発センターと改称),活動を続けている。また、98年(平成10)3月には,高知県人権尊重の社会づくり条例【こうちけんじんけんそんちょうのしゃかいづくりじょうれい】(資料編C-9)を制定している。

[教育]

 戦前からの*融和教育が,学校指定という方法で取り組まれていた。上からの研究として,常に負の評価しか得てこなかった融和教育であるが,当時の指定発表時の資料を見ると,この教育の技術や方法には,今日学ぶべきものが多くある。1954年(昭和29),高知市内の福祉教員たちの手による*『きょうも机にあの子がいない』の実践報告集は,戦後の一定時期にわたる本県の同和教育運動の金字塔でもあろう。戦後の部落は貧困の極限状況から,義務教育での*長欠・不就学の子どもたちを生み出していった。この子どもたちの未来を案じた部落解放運動家たちの要求により,48年,長岡郡鳶ヶ池中学校(現南国市)に長欠・不就学の子どもたちのための出席督励特別加配教員が配置され,精力的な2年間の活動の結果,長欠・不就学児を一掃していく。この成果に自信を得た県教育行政は,50年,全国で初めて,行政措置として,長欠・不就学の子どもたちの出席を促し,義務教育を保障するための*福祉教員を県内17校に18人配置、翌51年にはさらに同和教育専任の指導主事を県教委に置いた。これが本県の同和教育運動の始まりである。

 福祉教員たちは,53年,*全国同和教育研究協議会の発足に参加。54年,*四国地方同和教育研究協議会の結成の中心的役割を担う。55年,第1回高知県同和問題研究大会の開催。57年、吾川郡春野町の弘岡中学校差別事件、58年、高知県同和教育研究協議会の結成,59年,*須崎市浦ノ内差別傷害事件,同年の*砂闘争や第11回全国同和教育研究大会での*独占対決の同和教育,積みあげ方式,白書運動の提唱,61年の*教科書無償闘争,62年の*興津闘争,72年の*池上誠結婚差別自殺事件(宿毛結婚差別事件),73年の第26回全国同和教育研究大会,80年の第32回全国同和教育研究大会の開催などを重ねてきた。現在,高知県同和教育研究協議会に県内53市町村中,51市町村が加入し,約1万7000の会員が,保・小・中・高・社教・行政の各分野から結集し,研究と実践活動が進められている。

参考文献

  • 村越末男・横山嘉道編『高知県の部落問題と同和教育』(明治図書、1984)
  • 第32回全国同和教育研究大会記念誌編集委員会編『解放教育の遺産と課題』(高知県同和教育研究協議会、1980)
(横山嘉道)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:40 (1411d)