佐賀県【さがけん】

[現状]

 佐賀部落解放研究所の調査によると、佐賀県の被差別部落は18市町村に27地区存在し,規模別では150-200世帯,50-100世帯が各1地区,1-50世帯が25地区と少数点在型である。地区は平野部においては水路に囲まれ,あるいは河原に隣接した低湿地にあり,山間部では傾斜面や日当たりの悪い西側に位置する場合が多い。そして地区のほとんどが農山村にあるにもかかわらず,農業従事者はきわめて少ない。

 1990年(平成2)に佐賀県が行なった,10市町村17地区の被差別部落に対する悉皆調査によれば、人口は501世帯1421人,このうち農業関係に従事する世帯はわずか4%の20世帯で,93年の総務庁調査の全国平均18%と比較しても圧倒的に少数である。農地も借地が多く,年収も他の職業と比べて低い。なお非課税世帯は146世帯(29.1%)と,全体の3分の1を占める。

 環境改善は,*同和対策事業特別措置法制定以降ある程度の前進をみているが,未指定地区や,解放運動に立ち上がっていない未組織部落では,行政施策が行なわれていないに等しい。とくに今日,大きな問題は,同和対策が一般対策に移行されようとしているなかで,依然として経済的な格差が大きく,中高年層の失業者や不安定就労者に対する施策がほとんど行なわれていないことである。また,県内においても差別事件は悪質化し,差別落書きや学校現場での差別発言事件が多発している。88年(昭和63)以降の10年間で部落解放同盟佐賀県連で取り上げた差別事件は21件あり,そのたびに啓発活動の形骸化が指摘され,その方法が問われてきた。このようななかで,差別の実態を無視して、一般対策へ移行しようとしている国と、これに追随しようとしている地方自治体の姿勢は,厳しく批判されなければならない。

(浜本隆司)

[前近代]

 江戸時代,佐賀県は佐賀領およびその支藩(県中央部から南部一帯),唐津領(県北部),対馬領(県東部),天領(佐賀領と唐津領の境界線地帯)とに分かれ,どの領内にも*穢多身分・*非人身分の居住地があった。概して規模は小さい。穢多身分の人々は*皮革業や刑吏役に従事したほか,零細な農業や芸能も行なっていた。非人身分の人々は主に*乞食を行ない,時に芸能や下級刑吏役にも携わっている。

 佐賀領には,穢多・非人両身分に君臨する棟梁として強大な権勢と経済力を有する篭守(穢多)頭助左衛門がいた。助左衛門は代々小川姓を名乗り,佐賀城下の牢と刑場を管轄するとともに,領内一円の穢多小頭を掌握して,ピラミッド型の支配を行なった。非人は*非人頭のもとに統率され,全体として穢多の支配を受けていた。こうした支配形態は少なくとも元禄期には確立しており,以降幕末まで一貫している。一方,唐津領には佐賀の篭守頭に相当するような圧倒的な権力者はいない。それぞれの村にいくつかの有力な家筋はあったが,全面的に本村庄屋の行政権の下に置かれ,年貢の賦課等も庄屋がとりしきっている。

 宗教的には,穢多身分では全般に*日蓮宗の信仰が強いが,*浄土真宗や*浄土宗の信徒も存在した。武雄地区の差別墓石・*差別戒名は80例すべて浄土宗のものであった。穢多・非人両身分のほかに多くの芸能者が盛んに活躍した。能楽を行なう〈美麗〉,歌舞伎や踊りを行なう〈たたき〉,人形芝居の〈あやつり〉,曲芸の〈れんとび〉は,おのおの集団を組織している。また,座頭・*ごぜ・盲僧等の盲目の芸能者も集団または単独で活動していた。彼(彼女)らは制度的に明確に被差別民と規定されていたわけではないが,社会的には明らかに平人とは異なった待遇を受けていた。

(中村久子)

[融和運動]

 佐賀県では1911年(明治44)から22年(大正11)にかけて,三養基郡基里村内の報徳会,東松浦郡久里村内の成徳会,同じく唐津町内西の浜の忠孝会,西松浦郡大川村内の民風向上会等,相次いで組織がつくられ,改善事業が行なわれた。明治末年に各地で取り組まれた*地方改良運動の流れをうけたものと考えられる。〈会則〉の残っている忠孝会を例に挙げれば,教育勅語や戊申詔書を掲げ,納税・兵役の義務の完遂,教育・衛生思想の普及,勤倹貯蓄,家事・副業への精励が提唱された。いずれも学校長・訓導,あるいは部落内外有志者中心の事業で,県や町村の動きは鈍かったが,21年に〈佐賀県社会事業助成規程〉が布達されて,ようやく改善事業への助成金支出が始まった。県は,21年から24年までの4年間に,住宅の改善,共同浴場の建設,飲料水や衛生状態の改善,教育の振興等の事業,のべ39件に総額566万円補助している。また,先進各地への視察を行ない,教育・衛生面の向上はもちろん,経済力を進展させるための検討を行なった。23年6月17日の佐賀県水平社創立にあたっては,改善事業の推進者が数多く参画して,その中心メンバーとなっている。

(中村久子)

[解放運動]

 1923年(大正12)6月17日、佐賀市公会堂において、佐賀県水平社【さがけんすいへいしゃ】創立大会が開催された。県内各地から駆けつけた部落の人々と、福岡・長崎・熊本・鹿児島など各県の代表者30人、さらには一般聴衆200人が加わって、参加者は総勢700余人にのぼったという。会場内外には私服制服の警官150人が配置され、ものものしい警戒態勢がしかれていた。荊冠旗の立ち並ぶなか、瀧本太一郎の開会の辞に始まり、*藤本嘉一が議長に選出された。中島岩吉による綱領の朗読の後、瀧本太一郎が宣言の朗読を行なった。ついで青野作松が決議文を読みあげ、採択された。綱領・宣言は全国水平社と同文、決議文は第1項のみが同文であった。こののち、佐賀県水平社は差別糾弾闘争を中心に運動を展開していくが、その動きは全国水平社、*全九州水平社の動向とは必ずしも軌を一にしていない。佐賀県の場合、水平社同人の多くが明治末年以来の*融和運動のながれをくむ人々であり、融和政策と対決する姿勢は強くなかった。

 戦後56年(昭和31)に*松本治一郎の参院選オルグ団が県内各地で街宣を繰り広げたことをきっかけに、県内の部落大衆は解放運動の必要性を感じ、組織化に力を入れた。59年には5支部が結成され、同年6月部落解放同盟佐賀県連第1回大会が開催された。初代委員長には浜本百太郎【はまもとひゃくたろう】を選出した。運動の進展のなかで、同和教育や同和行政は一定の成果を収めたが、差別事件はより深刻化し、悪質化していった。相次ぐ差別事件に対して県連は糾弾闘争強化の方針を打ち出した。89年(平成1)には武雄市内の被差別部落の墓地から、21基22例の*差別戒名が刻まれた墓石が発見され、大きな社会問題となった。90年には*戸籍謄本不正取得事件【こせきとうほんふせいしゅとくじけん】が発覚した。弁護士や行政書士など社会性の高い8業種に限っては専用の請求用紙を用い、他人の謄本を入手することが法的に認められているが、この事件は,この制度を悪用し、佐賀市内の*興信所が、*身元調査に利用していたものである。97年には、佐賀空港開発をめぐる公開シンポジウムの席上、佐賀新聞社社長の差別発言【さがけんしんぶんしゃしゃちょうさべつじけん】があった。福岡と佐賀を対比するたとえとして〈福岡人が士農工商の《商》であるならば、佐賀は《えた・ひにん》〉と表現した事件で、マスコミの人権感覚の欠如が指摘され、2度にわたって糾弾学習会が行なわれた。

(中村久子,浜本隆司)

[戦後の行政]

 佐賀県では,同和問題の解決にあたるため,1962年(昭和37)3月に庁内組織として佐賀県地方改善対策協議会を設置し,その後佐賀県同和対策協議会への改組(1973.7)を経て,74年8月に佐賀県同和対策推進協議会に改め,同和対策の総合的推進をはかっている。また,〈*人権教育のための国連10年〉に係る施策を総合的かつ効果的に推進するため,97年12月に〈人権教育のための国連10年〉佐賀県推進本部を設置した。

 次に,組織機構の面では,69年10月厚生部福祉課内に地方改善係を新設,73年6月同課内にあらためて同和対策室を設置,74年7月には同室を独立させ,さらに90年(平成2)4月からは同和対策課として行政組織の強化をはかるとともに,98年には,〈佐賀県人権の尊重に関する条例【さがけんじんけんのそんちょうにかんするじょうれい】〉(資料編C-10)を制定している。また,同和対策事業は,60年度に下水排水施設,共同作業場,共同井戸の整備に対する県費補助金が戦後初めて県の予算に計上された。その後,各種の事業が総合的に実施された結果,道路・住宅などの生活環境面については相当の改善がはかられ,今日までの取り組みの成果をみているところである。しかしながら,教育・就労・所得の面では依然として格差があり,また,差別意識の解消をはかる啓発・教育などが今後の課題である。

(佐賀県同和対策課)

[戦後の教育]

 1970年(昭和45)県内の小中学校および高校の全教職員を組織し,佐賀県同和教育研究会が発足した。同時に佐賀県社会同和教育研究会も結成された。両者の連携を深めるために,86年には佐賀県同和教育研究協議会が組織され,県内で同和教育が進められるようになった。現在,私立学校同和教育研究会(1977設立)や佐賀県高等学校同和教育研究会(1995設立),就学前同和教育研究会(1997設立)を含め,13地区に地区同研が結成されている。県同教の各地区同研では,58人の同和教育推進教員が中心となり,人権作文の取り組み,*副読本の活用,*狭山事件の教材化,地域の教材化などを通じて授業研究会が進められ,人権作文集や実践事例集が発行され,教育実践に役立てられている。県社会同和教育研究会でも30人余の同和教育指導員を中心に,県内各地区(公民館,隣保館など)で教育・啓発活動が行なわれている。また、県教委学校教育課同和教育室(1995設置)と県同教の共編による『同和教育資料集』も毎年刊行され(1997年までに28集),全教職員に配布,教育実践に役立てられている。

(横田邦敏)

参考文献

  • 中村久子「佐賀の篭守助左衛門のこと――佐賀鍋島藩被差別部落と支配の様相」(松下志朗編『近世九州被差別部落の成立と展開』明石書店、1989)
  • 中村久子「多様な被差別民の世界 佐賀領の芸能民を中心に」(全国部落史研究交流会編『近代の都市のあり方と部落問題』解放出版社、1998)
  • 太田心海「旧鍋島藩の被差別部落と宗教」(『佐賀部落解放研究所紀要』3号、1986)
  • 古賀新二「佐賀県における地方改善事業」(同10号,1993)
  • 白石正明「佐賀県水平社の創立をめぐって」(同13号、1996)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:42 (1294d)