在日外国人【ざいにちがいこくじん】

〈在留資格別・国籍別〉

#ref(): File not found: "zainichi_gaikokujin1.jpg" at page "*在日外国人"

 日本における外国人は、朝鮮植民地統治に起因する在日韓国・朝鮮人に代表される旧植民地出身者【きゅうしょくみんちしゅっしんしゃ】と、*外国人労働者などのニュー・カマーとに大別される。在日外国人は、28種類の〈在留資格【ざいりゅうしかく】〉に細かく区分されており、その主な内訳は別表の通りである。外国人登録総数は約150万人(1998年末現在)であるが、それを国籍別でみると、韓国・朝鮮63万8828人(42.2%)、中国27万2230人(18.0%)、ブラジル22万2217人(14.7%)、フィリピン10万5308人(7.0%)、アメリカ4万2774人(2.8%)、ペルー4万1317人(2.7%)の順である。

 在留資格でもっとも多いのは〈特別永住者【とくべつえいじゅうしゃ】〉で、対日平和条約が発効した1952年(昭和27)4月28日に日本国籍を失ったとされる旧植民地(朝鮮、台湾)出身者およびその子孫である。次に多いのは〈日本人の配偶者等〉、3番目に多い〈定住者〉は、就労が自由化された日系人で、ブラジル人が大半を占めており、ニュー・カマーの中心である。

#ref(): File not found: "zainichi_gaikokujin2.jpg" at page "*在日外国人"

 98年現在では、旧植民地出身者は半数を切っているが、86年末の外国人登録総数は約87万人で、韓国・朝鮮人がその78.2%を占めていた。それ以降の10年間にニュー・カマーがそれだけ急増したのである。日本では、1980年代後半から外国人労働者問題が登場し(1985年9月のプラザ合意における〈円高ドル安〉容認が一つの契機)、89年(平成1)12月には*出入国管理及び難民認定法が改正され、雇用主処罰規定などが新設された。しかし、その際、日系人【にっけいじん】(日本人の2世・3世)については就労を自由化するとの特別措置が登場し、日系人に特化した外国人労働者導入政策がとられたのである。

〈国籍による差別〉

 在日外国人の中核はやはり旧植民地出身者であり、彼(女)らがどう処遇されてきたかを理解しておく必要がある。日本は第2次世界大戦終結後、約7年間、米軍の占領下におかれたが、その間旧植民地出身者の地位はきわめてあいまいで、ある面では〈外国人〉(参政権停止、外国人登録)として、またある面では〈日本国民〉(義務教育)として扱われた。しかし、前述の通り、対日平和条約の発効時に、一方的に〈外国人〉と宣告された。

 占領初期、明治憲法が新憲法に改正されるが、その作業はマッカーサー憲法草案(1946.2)をもとに進められた。同草案には、当初、〈外国人は平等に法律の保護を受くる権利を有す〉(16条)という条項が設けられていたが、その後、一般的な平等条項のなかに取り込まれ、最終的に現行憲法14条では〈すべて国民は、法の下に平等であって人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない〉となってしまった。外国人の権利保障条項【がいこくじんのけんりほしょうじょうこう】は姿を消したのである。

 一方、占領当局の指令(1945.11)により、労働者の国籍による差別が禁止されたため、厚生年金保険法の国籍条項が撤廃されたり、労働条件の国籍による差別を禁止する法令が制定された事例もある。いずれも、46年1月のことで、その後も厚生年金法および労働基準法に引き継がれ今日に至っている。

 新憲法3章が〈国民の権利及び義務〉と題され、外国人の権利について〈沈黙〉したことは、一方的に〈外国人〉と宣告された旧植民地出身者に〈深刻な現実〉をもたらした。たとえば、*外国人登録法【がいこくじんとうろくほう】(1952.4.28)により指紋押捺義務が課せられ、同時期に成立した戦傷病者戦没者遺族等援護法(1952.4.30)では、戦傷病・戦死した旧植民地出身者は国家補償から除外された。また、次々に制定される一般的な社会保障制度でも、ほとんどは〈国籍条項【こくせきじょうこう】〉により適用除外とされたのである。

〈差別撤廃にむけての動き〉

 こうした制度的差別は、一方では内なる当事者の闘いによって、他方では国際的な〈外圧〉によって、徐々に軌道修正された。外国人指紋制度の撤廃を求める1980年代の指紋押捺拒否【しもんおうなつきょひ】は、日本における〈公民権運動〉ともいえよう。結局、92年6月の法改正で、永住外国人は指紋押捺を求められなくなり(指紋にかえて〈署名〉および〈家族事項〉の登録が必要)、さらに、99年8月の法改正によって一般外国人についても廃止され、ついに姿を消した。

 75年4月のベトナム戦争終結は大量の*難民の流出をもたらし、その一部は日本にもやって来た。当初は〈一時上陸許可〉で対応していた日本は、やがて〈定住許可〉を認め、さらには〈定住促進センター〉を設置するに至った。同年には先進7カ国首脳会議(サミット)が発足したこともあって、日本も〈内外人平等【ないがいじんびょうどう】〉の原則を無視できなくなり、79年に*国際人権規約を批准、81年に*難民条約に加入した。それに伴い、数多くの制度を外国人に開放する措置をとり、また国籍条項を撤廃する法改定を行なった。

 91年には、在日韓国人戦傷者が国家補償における国籍差別を裁判に訴えたため、残るものも批判にさらされることになった。また、外国人に公務就任の門戸を開放すべきだとして、地方公務員採用や地方参政権問題も爼上に上ってきた。そのようななかで、一定の制限は残るが一般行政職の門戸を開放する自治体が生まれ、神奈川県川崎市では、〈外国人市民代表者会議〉によって、その声を市政に反映する道が開かれた。

 旧植民地出身者にニュー・カマーが加わるなか、日本も〈内なる国際化〉をめざさざるをえなくなったのである。

*在日韓国・朝鮮人の人権*外国人労働者の人権

参考文献

  • 田中宏『在日外国人』新版(岩波新書、1995)
  • 萩野芳夫『判例研究 外国人の人権』(明石書店、1996)
(田中 宏)

トップ   差分 リロード   一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:43 (1358d)