埼玉県【さいたまけん】

[現状]

 埼玉県の被差別部落は、1993年(平成5)の同和地区実態把握等調査によれば、49市町村、274地区あり、関係世帯8935、人口は3万4946人となっている。1地区平均の世帯数は32.6世帯。同和地区全体の人口に対する同和関係人口の割合は28.5%と、全国平均の41.4%に比べてやや低く、小規模で混住化しているという特徴を表している。また、関係世帯の1世帯あたりの人数は3.9人で、中高年層の割合が高い。地区住民の生活状況は、所得では関係市町村全体と比較してやや低いといえる。住居については〈持ち家〉の割合が97.7%と全国平均の62.7%を大きく上回っている。生活環境についても同和対策事業によって道路、住宅、下水などの整備が進み、大きく改善された。しかし、集会所など老朽化したり、耐用年数を過ぎたものも多く、建て替えや改築事業も行なわれている。

 産業としては、元来埼玉は農村部落が中心で、農業従事者が多かったが、93年の実態調査では、専業農家は12.5%と減少している。もっとも多いのが、製造業従事者で24.9%、次にサービス業の13.7%、次いで建設業の12.8%となっている。勤め先・業主の企業規模では〈1-4人〉の規模が25.8%と一番多く、年収は〈300-399万円〉がもっとも多く、15.7%を占める。また、県東部には皮革業者が、第2次大戦中に東京から移転して産地を形成した。70年(昭和45)には全国で4番目の出荷額を誇ったが、現在は多くの業者が転廃業に追い込まれるなど、苦しい状況下にある。同様に、県北部の瓦製造、県北東部のスリッパ製造も産地を形成していたものの、現在では、わずかな業者によってかろうじて生産が続けられているという現状である。

 教育については、高校の進学率はかなり向上した。しかし、低学力や中退という問題はまだ解決されていない。さらに、大学への進学については、依然として大きな格差がある。近年、中学、高校などの学校現場での差別事件も数多く起きている。

[前近代]

 江戸時代の実態はまだその全貌は明らかになっていないが、*『鈴木家文書』(武州横見郡和名村鈴木家所蔵)や県内各地の小頭家などに伝わる文書によってうかがい知ることができる。ちなみに、〈*長吏〉という言葉が最初に出てくる県内の文書は戦国時代のもので、北条氏の印判状によって、*砥石の売買をしていたことが記されている。

 江戸時代、関東の〈長吏〉たちは、浅草の*弾左衛門の支配を受けていた。また、各地にいた長吏小頭は、長吏と在方の〈*非人〉の支配を行なった。仕事としては、農業を中心に、草履づくり、水番、製薬、その他、警備を行なうとともに斃牛馬の処理権を持っていた。その他、各地で講を組んで伊勢神宮、金毘羅宮、恐山などへ参詣の旅をしていたことも記録されている。また、近在の百姓、町人との交流もあった。

 一方、鈴木家には漢籍をはじめ歴史書など多くの書籍があり、和歌、俳諧にも通じ、正風遠州流の挿花の免許を持っていた。さらに、寺子屋を開き、子どもたちの教育を行なっていた。しかし、幕末には〈傘出入り一件〉〈*武州鼻緒騒動〉などの差別事件が相次いだ。また、質流れの農地を長吏たちが購入しその所有をめぐって各地で訴訟が行なわれた。他方、宗教的な観点から〈長吏〉を平等に遇し、同門宗派から迫害された大乗院の〈長吏祈願差留一件〉も起きている。

[水平社運動]

 1922年(大正11)3月3日京都の岡崎公会堂で全国水平社が結成され、これに参加していた埼玉出身の*近藤光は、*平野小剣を伴い郷里の鴻巣に戻り、わずか1カ月後の4月14日に全国で2番目の埼玉県水平社【さいたまけんすいへいしゃ】(委員長・*成塚政之助)を結成した。つづいて、翌年には群馬県の太田町で*関東水平社が創立され、埼玉からも多くの参加者があった。また、23年には埼玉県青年水平社、24年には埼玉県婦人水平社が結成された。さらに、県内各地に町村水平社が組織され、続発する差別事件に対して糾弾闘争を展開した。この水平社運動を中心的に担った成塚政之助や、*小林駒蔵らは、24年、日本農民組合埼玉県連合会を結成し、各地の小作争議の先頭でも活躍し、埼玉の農民運動の指導者としても活躍した。水平社運動と農民運動を結合させて闘ったことは、埼玉の水平社運動の大きな特徴といえる。25年群馬県の*世良田村事件が起きると、埼玉の部落から多くの人々が救援に駆けつけた。しかし、この事件の処理をめぐって関東水平社のなかで対立が激化し、組織は混乱した。また、埼玉県水平社の内部も*労働農民党支持問題で対立が起きた。こうしたなかで、28年(昭和3)3・15弾圧で成塚政之助が検挙され、運動は停滞を余儀なくされた。

 一方、中国大陸への侵略戦争が開始され、国内的には挙国一致が声高に叫ばれ、融和運動も台頭してきた。しかし、33年*花園村差別殺人事件への取り組みと、*高松差別裁判糾弾闘争への参加を通して、36年全水埼玉県連が再建され、委員長に小林駒蔵、書記長に*野本武一を選出した。しかし、38年2月には、*埼玉人民戦線事件で小林と野本が検挙され、運動は再び停滞していった。同年3月関東水平社は群馬県太田町で解散式を行ない、荊冠旗を焼却した。全水埼玉県連は、その後も活動を続けたものの、41年太平洋戦争の開始で一切の結社が禁止され、自然消滅した。

[融和運動]

 *米騒動の起こった翌年の1919年(大正8)、県内各地に尚正会、公道会などの融和団体が続々と結成された。これらの団体は、部落内の風紀、生活、経済、教育の改善と向上をめざしてつくられたものであった。しかし、22年埼玉県水平社が創立され、水平社運動が高揚したことに対抗して、23年長谷川盛枝は穏やかな運動を展開しようと大正同志会を結成した。また同年、県は埼玉県社会事業協会【さいたまけんしゃかいじぎょうきょうかい】を設立し、部落代表を方面改善委員として任命し、水平社運動に対抗的な活動を行なった。この社会事業協会は42年(昭和17)に解散し、*同和奉公会として再編され、挙国一致、戦争遂行へ協力していった。

[戦後の解放運動]

 敗戦後の1946年(昭和21)、京都で*部落解放全国委員会の結成総会が開かれ、埼玉からも代表が参加した。この総会で野本武一が常任全国委員、藤岡亀吉が中央委員となった。埼玉の部落の人々は、戦前の農民運動の経験を生かし、農民組合の中心で農地改革の徹底に尽力し、大きな成果を上げることができた。その後、一時的に運動の停滞があったものの、53年に全埼玉部落解放人民大会が開かれ、県連の再建が行なわれた。その年の12月、県交渉と深夜に及ぶ座り込み闘争を展開し、54年度から同和行政予算を計上することを約束させた。この同和行政の最初のものは、便所の改修事業であった。さらに、55年には、日農埼玉県連、県労評、解放委員会の3者で労農共闘会議を結成し、県に総合的な同和行政の実施を迫り、知事と交渉し再び県庁で徹夜の座り込み闘争を行なった。この闘いによって埼玉県は、環境改善、産業対策、教育対策に取り組むこととなった。

 63年に埼玉県狭山市で起こった*狭山事件で、石川一雄が予断と偏見によって不当逮捕された。この直後から野本武一県連委員長を中心に、差別裁判を糾弾し、石川の支援運動を展開した。以後今日まで、狭山差別裁判糾弾闘争を県連のとくに重要な闘争課題として取り組んでいる。

 一方、部落の家庭内で子どもに勇気と自信と誇りを持てるようにと、家庭内同和教育の取り組みが県連をあげて84年から取り組まれた。さらに、93年(平成5)に嵐山町の中学校で起きた差別事件を契機に、現場の教師から地元の同和教育に使える教材を求める声が強くなり、研究者、小中高の教師を中心に埼玉県同和教育歴史教材編集委員会が結成され、4年の歳月をかけて97年3月に『埼玉の部落』を刊行し、内外から高い評価を得ている。

 差別事件については、公立高校で部落の生徒を名指しで〈ヨツ足等々〉と書き接着剤で貼った落書きが見つかっている。さらに、県立ゴルフ場のキャディの間で、同僚を〈あの人は同和地区の出身〉と言った事件や、郵便局の臨時職員間でも〈あなたの旧姓は部落〉と暴き立てる事件も起きている。

参考文献

  • 埼玉県教育委員会編『鈴木家文書』全5巻(1977)
  • 埼玉県部落解放運動史編纂委員会編『埼玉県部落解放運動史』(1984)
(藤田源市)

トップ   差分 リロード   一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:43 (1417d)