笹島【ささじま】

 名古屋市中村区名駅【めいえき】南に位置する名古屋中公共職業安定所(以下、中職安)の付近一帯に形成されている*寄せ場【よせば】。現在,*ドヤ街はなく,日雇い労働市場としての機能のみをもつ寄せ場である。中職安の登録日雇い労働者数は,1986年(昭和61)518人(9人),90年(平成2)1061人(20人),97年3406人(233人)と,この10年間で大幅に増加している(数値は各年4月1日現在、カッコ内の数値はこの内の女性の人数)。寄せ場に参集する労働者は,現在500人前後と推察される。

 現在の笹島は,戦前木賃宿が集まってスラム化していた水車地区と呼ばれた地区の一部にあたる。水車地区の形成は,1870年代末(明治10年代初め)から始められた国鉄武豊線の敷設工事に伴い(1886年完成),多数の日雇い労働者がこの地域に集住するようになったことに起因している。1926年(大正15)刊行の行政資料によると,水車地区の戸数600のうち木賃宿は72軒,総居住者3130人のうち日雇い労働者は約1100人で,木賃宿の密集した日雇い労働者の街であったことがうかがわれる。

 水車地区のドヤ街は戦災で焼失。その後,48年(昭和23)7月,現在の中職安の所在地に名古屋中公共職業安定所笹島労働出張所が開設され,失業対策事業や日雇いの労働紹介が始められる。笹島地区の大部分は名古屋市が復興土地区画整理事業の未指定地として保留していたもので,本来家屋を建てることは禁止されていた。しかし,労働出張所の開設と戦後の混乱した状況のなかでドヤ街も形成され始め,日雇い労働者の街として再生。60年代の高度経済成長期に労働出張所付近での路上求人・求職が増加し,寄せ場が膨張した。ドヤの数も,66年の11軒から,73年には50軒前後へと増加したが,オイルショック以降,労働市場としての寄せ場が縮小するとともに,ドヤ街の解体が行なわれた。笹島地区はたびたび火災に見舞われたが,76年に発生した火災によってドヤの多くが全半焼した。この火災直後に,名古屋市はドヤの再建築を禁止するとともに,〈不法建築〉の撤去を推進。その結果,戦災都市復興事業が終了した81年までにドヤ街の整理が行なわれ,笹島は、ドヤ街の解体された朝だけの寄せ場になったのである。名古屋市では,90年代に入って野宿生活者が急増しているが,この背景には笹島の労働者の失業問題が大きく関係している。しかし名古屋市や愛知県は,ドヤ街がないことなどを理由に,寄せ場対策といえるものを講じていない。

参考文献

  • <笹島>の現状を明らかにする会『名古屋<笹島>野宿者聞き取り報告書』(1995)
  • 〈笹島〉問題を考える会『〈笹島〉問題をめぐる現状と政策提言』(1998)
(田巻松雄)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:43 (1411d)