三重県【みえけん】

[現状]

 1995年(平成7)県内全域の部落の全世帯を対象に県が行なった〈同和地区生活実態調査〉によると、三重県における同和対策事業の対象地域は、11市65地区、31町村140地区、計205地区で、総世帯数は1万2188世帯である。このほか、未指定地区が20地区ほど存在する。都市型の大部落は桑名市・津市・松阪市・上野市にあるが、大部分は農村部落で、40世帯以下が60%を占める。地域的には、全体の59%にあたる120地区が中南勢に集中している。

 伊賀地区・北勢地区で環境改善事業が進展しているが、中南勢から東紀州にかけては、住宅新築資金の貸し付け等によって個別に対応してきた地区が多かったため、現在では面的事業も困難になっている。また、*同和対策事業特別措置法以前に建築された住宅が県全体で35%を占め、住宅の新築、建て替えや増改築の必要性が生じている。このほか、事業の進展に伴い、核家族化の進行や青壮年層の流出など、新たな問題も生じてきている。

 高校進学率は90.0%(1999年3月卒業生)で、県全体の95.6%に比べ、5.6%低くなっている。高校進学率の格差は、ここ10年間は3-7%と固定化しており、数字で見たかぎりでは格差は解消されつつあるように見える。しかし実際は、偏差値に基づく輪切りの進路指導により、高校に進学はするが、大学への進学となると、県全体が47.6%であるのに対し、部落は34.3%であり、また、高校中退者は、県全体の2.3%に対して3.8%と、かなりの数に上り、深刻な問題になっている。

 仕事はブルーカラー層が多く、ホワイトカラー層が少ないという従来からの特徴は、すべての階層、年齢層に共通してみられるものではなくなってきているが、中高年層や低学歴層においては依然として顕著にみられる。その結果、県全体では年間所得300万円未満の世帯が約6%程度であるのに対して、部落では半数近くに達している。逆に、700万円以上の世帯は、県全体では5割を超えているにもかかわらず、部落では8%にすぎない。

 被差別体験をみると、家族のなかで直接差別を受けた人がいる世帯は24%で、〈差別を受けたことはないが、差別に出合った者がいる〉世帯は5%である。内訳は〈結婚のことで〉が36%、〈職場で〉が20%、〈日常の生活で〉が13%、〈学校や教育の場で〉が12%となっている。体験の時期をみると、この5年以内が27%にも上り、〈差別は解消しつつある〉と言えないのは明らかである。

(宮本正人)

[前近代]

 中世賤民に関する直接史料は県内に今のところ見つけることはできない。しかし文禄3年(1594)検地帳にカワヤのほか*ササラ・風呂屋・アリキ・コンヤ・ツルサシ・*ハチタタキ・*夙など中世賤民的な系譜をみることができる。三重県は伊賀・伊勢・志摩・紀伊の4カ国に分かれ,さらに幕府領・神宮領のほかに10をこえる藩領が入り組んでおり,それぞれ部落の成立・支配などに差がみられる。先の伊勢国の文禄検地帳ではカワヤをカジ・コンヤ・大工などと同様に職人ととらえ,しかも一般農民と並列記載されており,まだ特別扱いされていたとは考えられない。しかし17世紀中ごろにはカワヤからカワタへと呼称が変わり,さらに18世紀にはエタに統一され同時に検地帳なども別帳にされている。このあたりに三重県の差別の歴史をうかがうことができる。しかしエタ以外にも,たとえば亀山藩ではハチ・ササラ・*猿引,津藩ではササラ・山伏・ヒサゴタタキ,紀州藩ではササラ・ハチタタキ,神宮領ではササラなど中世的な系譜をもついわゆる雑種賤民も存在した。また幕末に近くなると,紀州街道などに1戸から10戸という小部落がみられるようになるが,これらは役人村として街道の治安維持のためにおかれたものである。触穢思想が部落差別を支える条件の1つとして利用されたことはよく知られている。ところで極端に清浄を強調した伊勢神宮【いせじんぐう】では,その所在地である宇治と山田の町民に対して触穢を制度化して日常生活まで規制していた。したがって神宮領内ではこの規制が,とくに部落差別と大きなかかわりを持ったことに注目しなければならない。

(大林日出雄)

[融和政策・教育]

 三重県では1900年(明治33)伊賀に警察署長主導による部落改善団体改栄社【かいえいしゃ】が設立され、部落改善の機運が高まりつつあった。1904年*有松英義【ありまつひでよし】が内務省警保局長から知事に赴任し、翌1905年東京からキリスト者*竹葉寅一郎【たけばとらいちろう】を招いて各地に郡長・町村長・警察署長を中心に部落改善団体をつくらせて事業を行なわせた。これは全国に先駆けた官製部落改善事業として知られている。当初、県は事業にほとんど財政的措置をとらず、ボス勢力を中心とした治安対策と矯風事業に終始していたが、11年以降、住宅・教育・産業振興などに財政的措置がとられるようになった。しかし*米騒動,さらに全国水平社の創立の後はようやく国・県・市町村でも改善施設費を組むようになった。また23年(大正12)には三重県社会事業協会融和部も設立されたが,いずれも水平・労農運動への対応策であった。一方,県水平社と日本農民組合合同機関紙*『愛国新聞』【あいこくしんぶん】2号(1924.3)では,早くも教育と教科書の内容の差別性を指弾する記事が掲載され,24年11月には*津中学校差別教科書事件【つちゅうがっこうさべつきょうかしょじけん】が,さらに27年(昭和2)10月には松阪第二小学校差別事件と*松阪第一小学校差別事件【まつさかだいいちしょうがっこうさべつじけん】が相次いで起こり、部落をあげて同盟休校闘争などが組まれた。

 34年には部落産業であった伊勢表生産を保護するために組織された伊勢表生産組合連合会が有栖川宮記念厚生資金【ありすがわのみやきねんこうせいしきん】を受けて、35年1月に三重県厚生会【みえけんこうせいかい】に再編されると,三重県社会事業協会融和部の事業を引き継ぎ,また融和教育事業も行なうこととなった。37年3月には県融和教育研究会も設立され, いくつかの研究校が指定された。しかし,たとえば39年厚生会発行の融和教育テキスト『和の教育』【わのきょういく】(度会郡浜郷小学校編)をみると,聖徳太子の和の精神を基調に〈陛下の赤子であり皆同胞…〉としているように、その限界を知ることができる。さらに当時の融和教育実践校の所在地には戦後も長く〈寝た子を起こすな論〉が残り,ここでも融和政策・教育の限界をみることができる。

(大林日出雄、上井俊記)

[水平社運動]

 1922年(大正11)の全水創立大会に、三重県からは〈*徹真同志社【てっしんどうししゃ】〉を組織していた松阪を中心に飯南・多気・一志郡などから十数人が参加した。同年4月21日に松阪で三重県水平社【みえけんすいへいしゃ】創立大会が開かれ、その後、津・伊賀・黒瀬などの水平社が設立された。社員数は同年12月には6団体(支部を含む)685人、23年3月には9団体1217人を数え、全国最多となった。23年伊賀と津で少年水平社も結成されている。また23年5月には機関紙『三重県水平新聞』【みえけんすいへいしんぶん】が創刊されており,全国的にも早い例である(翌年日農県連との合同機関紙『愛国新聞』【あいこくしんぶん】に引き継がれた)。初期の糾弾闘争も苛烈で,22-24年の間に検挙された者は62人と、ここでも全国最多である。このころの闘争で代表的なものは,22年夏の多気郡上【かみ】御糸【みいと】村佐田(現明和町)の村長・区長の差別に対する部落ぐるみの闘争,23年の山駒事件【やまこまじけん】と呼ばれる松阪での差別地主に対する闘争,24年の津中学校差別教科書闘争,25年の伊賀国粋会の差別と暴力に対する闘争と小作地立毛差し押さえ解除のための松阪区裁判所包囲闘争【まつさかくさいばんしょほういとうそう】などがある。

 昭和恐慌下では27年(昭和2)の*津刑務所長差別糾弾闘争【つけいむしょちょうさべつきゅうだんとうそう】,32年伊賀水平社の県への〈仕事よこせ〉闘争,35年からの度会郡*朝熊区制差別糾弾闘争【あさまくせいさべつきゅうだんとうそう】,37年の岸和田紡績津工場争議への支援闘争などがある。三重県では労・農運動と共闘を組み終始左派的立場をとったのが特色である。それだけにとくに治安維持法下での弾圧は峻烈であった。 28年の*3・15事件,29年の*4・16事件,31年の5・22事件,33年の3・13事件,35・36年のアナ系デッチ上げ事件,37・38年の*人民戦線事件と多くの犠牲者を出している。さらに41年12月の*松井久吉,*梅川文男などの検挙を最後に,太平洋戦争下、運動の火は消されていった。

(大林日出雄、上井俊記)

[戦後の解放運動]

 三重県における戦後の部落解放運動は、1947年(昭和22)に部落解放委員会三重県連が結成されたことに始まる。しかし、解放委の初期には、部落の現実を差別と結びつけて理解することが少なかったため、47年の飯南郡*花岡町の強制供米反対闘争【はなおかちょうきょうまいはんたいとうそう】、51年の*松阪職安事件【まつさかしょくあんじけん】、52年の*上野市の破防法違反事件【うえのしはぼうほうじけん】など、全国的に有名となった事件に取り組んだが、解放委の組織強化には結びつかなかった。53年の風水害のとき、県内各地で水害復旧闘争に取り組んだのを契機に運動が活性化し、54年には第4回県連大会が4年ぶりに開催された。そして、生活要求闘争と大衆路線重視の方針が定められ、松阪を中心に解放委が再建された。その後、中勢・伊賀・東紀州で生活擁護の闘いを差別行政糾弾闘争として位置づけ、大衆的な闘いが展開された。しかし、1950年代後半から60年代になると、日本共産党の影響力が非常に強かったことから、部落差別の軽視と政治主義的偏向が持ち込まれ、解放運動は沈静化した。70年代に入り、伊賀地区で狭山闘争と同和対策事業の実施を求める闘いが進められ、その動きは北勢地区にも波及し、政治主義的偏向を克服する路線が形成されていった。こうしたなかで路線の対立が明確になり、共産党系の同盟員は75年解放同盟三重県連を脱退し、松阪を中心とした中南勢を基盤に、分裂組織〈正常化連〉を結成した。その後、80年代になると、部落大衆の生活要求を軽視する全解連の運動に反対して、松阪とその周辺の地域でも部落解放同盟の支部が組織されていった。そして90年代に入ると、それまで同和対策事業や同和教育がほとんど取り組まれていなかった白山町、大山田村、大台町、関町などにも解放同盟の支部が建設されていった。また松阪市や桑名市では、解放同盟が中心となり、市民運動の視点を持った解放運動・人権運動の取り組みも始められている。

(宮本正人)

[戦後の行政]

 戦後の1946年(昭和21)から50年までは、松阪市・上野市などで共同浴場の建設・改修、上下水道の敷設など、戦前と同じような事業が行なわれたにすぎなかった。51年になり、県はようやく同和事業に着手し、環境改善事業補助金制度を設け、民生労働部厚生課で同和事業を実施した。1950年代中ごろから、各地で差別行政糾弾闘争が展開されるに伴い、一志郡・多気郡・南牟婁郡・阿山郡などでも、同和事業が取り組まれるようになった。また、50年代後半から部落解放同盟が教育問題に積極的に取り組みだしたのを契機に、61年に奨学金制度と加配教員制度が県単独事業で創設された。これとあわせて、62年には県民生部に同和対策室が設置された。69年の同和対策事業特別措置法制定と、伊賀や北勢での同和事業の実施を求める闘いの進展により、同和行政体制の整備がはかられ、71年に三重県同和対策長期計画が策定され、72年には同和対策室を同和課に改称した。それとともに、県内の各市町村でも同和課が設置されていった。同和教育についても、71年に県教委に同和教育担当の主幹と主事が置かれ、73年に三重県同和教育基本方針が策定され、81年には同和教育室が設置された。90年代に入ると、90年(平成2)3月に〈人権県宣言〉が決議され、その後、県内のすべての市町村でも〈人権宣言〉が決議されていった。そして、93年にはポプラ社差別事件を踏まえて同和教育室が同和教育課に改称され、95年には〈県同和対策総合計画〉が策定された。96年11月に県人権センターがオープンし、12月には〈部落差別をはじめ一切の差別撤廃をめざす条例〉(資料編C−8)制定に関する請願が県議会で採択された(1997.10施行)。さらに、同月には〈*人権教育のための国連10年〉県推進本部も設置された。こうした流れのなかで、97年2月には民間の研究団体として三重県人権問題研究所が開所し、4月に県生活部のなかに生活課人権室が設置された。そして、99年には〈三重県人権施策基本方針〉と〈人権教育のための国連10年三重県行動計画〉〈三重県人権教育基本方針〉も策定された。このように、人権行政・同和行政体制の整備は進展したが、解放同盟の要求に対する対策としての性格が強いのも事実である。また、90年代以降の動きとしては、これまでの同和行政の果たしてきた役割や今日の部落差別の現実を軽視して、同和行政を人権行政の1つとしてのみ並列的に位置づけようとする傾向が強く出てきている。

(宮本正人)

[戦後の教育]

 1950年代には、桑名市の学力補充の取り組み、上野市の*夜間学校開設、松阪市の子ども会活動、一志郡三和中学校の進路指導の実践など、個別的に密度の高い実践が行なわれていたが、それを普遍化して全県的に広げていくことはできなかった。また、1953年(昭和28)に結成された三重県同和教育研究会も、部落問題に関係があると思われる県内諸団体の役員が名を連ねたもので、同和教育の実践者を中心とした組織ではなかった。60年代に入って部落解放同盟が教育問題に組織的に取り組み始め、中南勢で子ども会活動に力を入れるとともに、県教委に奨学金制度の開始と同和加配教職員の配置などを行なわせた。これとあわせて多くの市町村で研究会が組織されるようになり、67年には三重県同和教育研究会も、各地の同和教育研究組織の協議体としての三重県同和教育研究協議会に改組された。これ以降、中勢から伊賀・北勢・南志へと同和教育体制が全県的に広がっていき、99年(平成11)現在、県内69市町村のうち59の市町村と6つの高校ブロックで同和教育研究会が組織され、2000年度には、すべての市町村が加盟をする予定になっている。また、そこにおける活動も、学校教育分野にとどまらず、それぞれの市町村の行政や住民、企業等も含めた社会教育分野にも広がりを見せつつある。90年代に入ると、人権問題を考える小・中学生の集い、高校生の集いの開催、高校での部落解放研究会や友の会、人権サークルの結成など、次代の部落解放運動を担う青少年を育成する取り組みに力が注がれ始めた。そして97年には部落解放全国高校奨学生集会が四日市市で開催され、それを踏まえて三重県内各地で高校生による実行委員会が結成された。集会の取り組みが進められていくなかで県内各地の高校生が連帯していき、集会終了ののち実行委員会メンバーの高校生たちが98年2月に反差別三重県高校生友の会(三友)を結成した。しかし一方では、言葉だけ、知識だけで、教員や子ども、さらには学校の変革を伴わない同和教育も普及しており、その結果、学校現場での差別事件が多発してきている。

(宮本正人)

参考文献

  • 三重県生活文化部同和課『三重県同和地区生活実態調査報告書』(1996)
  • 宮本正人「三重県における『未指定地区』の実態」(『部落解放』310号、1990)
  • 三重県厚生会編『くらし、たたかい、あしたへ』(1992)
  • 三重県福祉部同和課編「同和地区調査報告書」(1984)
  • 三重県部落史研究会「三重」(部落問題研究所編『部落の歴史 近畿篇』(1982)
  • 三重県厚生会編『三重県部落史料集 近代篇』(三一書房,1974)
  • 三重県総合教育センター編『三重県教育史』2巻(1981)
  • 大山峻峰『三重県水平社労農運動史』(三一書房,1977)
  • 三重県部落史研究会『解放運動とともに 上田音市のあゆみ』(三重県良書刊行会,1982)
  • 宮本正人『三重県戦後部落解放運動史年表(草稿)』(1982)
  • 上野市部落史研究所編『かくして伊賀水平社は生まれた』(解放出版社、1992)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:43 (1411d)