新潟県【にいがたけん】

[現状]

 1967(昭和42)年度県同和地区調査によれば、15市町村20地区、429世帯1813人とされる。これは過去約10回に及ぶ戦前来の調査では最小値であり、最大値の1928年度(153地区7917人)との格差が大きい。しかも71年度の調査ではさらに減じ11市町村15地区となる。その後77年に12市町村18地区に修正され今日に至っているが、県内有数の部落の存する村上市、小千谷市、神林村等は未指定である。93年(平成5)調査では同和関係世帯211、同和関係人口724である。80年度〈同和対策総合計画〉によれば、混住率10.4%であり、生活保護率2.6%、常雇59.4%は一般の0.65%、71.3%と比較すればかなり劣位である。農家戸数26は地区世帯数の約1割、専業農家は1戸のみ。平均耕地面積46.3aは県平均の3分の1。個人業主比率14.7%は一般の9.0%を凌ぐが、臨時・日雇率が19.5%に対し一般が7.3%であることから雇用条件の厳しさの証明と見るべきだろう。

[前近代]

 西村(現上越市)の歴史は、信越75万石を領した松平忠輝の入封とその町割に起源を見いだす。忠輝は元和5年(1619)の高田築城に際し、その外郭に春日山時代以来の御城庭払を旧福島城より加賀街道の城下入口に移した(『穢多町由緒書』)。西村の初見は17世紀半ばの塩の抜け荷の監視役である。地名西村は身分を含意したものか。西村肩書は同時期領内三郡の検地帳類にも登場し、民籍と別扱いを見る。越後の大藩支配は越後騒動をもって終わる。幕府は旧高田領に天和3年(1683)検地を実施。*穢多肩書が登場するのはこの際である。旧高田領の西村はいずれも穢多身分の中核に据えられたと考えられる。一方、中世以来国府より半独立の下越後では、すでに鎌倉期の文書に〈*非人〉が、16世紀後半の『色部氏年中行事』には後世の賤称たる〈カハラノモノ、タイシ、ワタシモリ〉の字句が認められる。村上藩では寛永19年(1642)の年貢諸役割付帳に穢多屋敷が確認され、万治検地で*渡守、明暦の村鑑で非人の存在が確認できる。近世賤民制の形成が進行した。ただし中世との関連は未詳である。このように越後の近世身分制形成は17世紀半ばから後半と目される。

 越後的特徴が2点ある。1つは文禄・慶長期(1592-1615)の検地帳に、カワタ肩書がまったく認められず、2つは渡守が*賤民に位置づけられていることである。後者は穢多との縁組、五人組編成で裏付けられる。佐渡は穢多身分がなく、賤民は非人のみ。ただし長吏役も担う。18世紀に入ると越後は差別強化期となる。その端緒が享保7年(1722)の頚城質地騒動である。首謀者処刑に動員された穢多に百姓の憎悪が募る。以降安永7年(1778)の幕府による風俗取締令と相前後して、百姓との違い(異相)を拡大する令達が各藩で採用された。

[融和運動]

 明治30年代までは、民間篤志家の善意に依拠していたが、日露戦争後、内務省主導の地方改良運動のなかで警察署長を中核とした治安対策色の濃い産業組合、副業奨励の授産型へと移行していった。相川自彊購買販売組合【あいかわじきょうこうばいはんばいくみあい】がその代表例である。1918年(大正7)に県慈善協会が設立される。もっぱら階級運動打破と部落民の〈自覚〉を訴える。昭和初年の農村恐慌で部落の大半が負債を抱えた。この時期、県は慈善協会を社会事業協会に発展させ、32年(昭和7)より4カ年にわたる*地方改善応急施設事業に着手。しかし本腰を入れたのは、36年の*融和事業完成十カ年計画以降、それも38年からである。担当の五十嵐・・・・・【いがらしたすく】,成沢初男【なるさわそめお】らは県内関係地区を精力的に見て回った。彼らの指導で負債整理に着手、更生実行組合、納税組合が結成されたほか、地理的条件により菅笠、草履、農事など各協同組合が設置されていった。39年平林村に集会所を新築し作業場兼集配所となった。もとより融和運動としての限界は否めない。階級色の解消にとどまらず、部落の人々を侵略の尖兵に育てる意図も露呈していた。そもそも県の融和事業五大方針(『融和時報』154号、1939)の柱は海外移住(棄民策)、軍需その他への職業転換、全体主義的地区更生などがうたわれていた。ただし五十嵐らは足繁く現地を訪れ、懇談・激励し、中堅人物講習会なども主催した。彼の個人的資質に依拠した部分が多いが、顕現的差別解消と県民啓蒙へ向けて県が初めて本格的に取り組んだ事業として評価すべきである。

[解放運動]

 1922年(大正11)全国水平社誕生の報に接し、県内でも町名変更、銭湯差別抗議など反差別の動きが出た。隣県からの働きかけも散見される。当局は*小作争議との連携を憂慮。26年高田市長・川合直治が白山社に〈自由平等〉と揮毫した扁額を奉納。27年(昭和2)末に県内初の部落出身市会議員として当選した大島新之助【おおしましんのすけ】を中心に、県水平社結成が模索され、29年、関東水平社7回大会に参加、その連合会の一員となる。しかし、県水平社の実態は明らかではなく、全水・当局ともその存在を認めていない。しかしこの7回大会で支援を決定した29-33年の岩船郡T村O地区入会権確認訴訟や、これ以前の木崎争議【きざきそうぎ】に農・水連携の片鱗が見える。

 戦後は68年頃より高田(現上越市)に〈生活を守る会〉が結成され、これを母体として、69年に部落解放同盟高田支部が産声をあげた(委員長・亀井喜代二【かめいきよじ】)。以来約20年を経て県内には小千谷、堀之内、新発田住吉、関川高田、湯ノ沢、中条乙の各支部が誕生し、84年8月26日には県連結成をみた。85年に部落解放新潟県研究集会を開催、以降毎年開催している。92年、県同教を結成。98年新潟同宗連も結成された。

[行政]

 戦前の県の融和事業および調査から継承すべきものは多い。戦前に担当の五十嵐・・・・・県社会課嘱託が、本県は〈未問題地〉だが〈無問題地の謂でない〉、差別的偏見も〈相当濃厚〉と規定しているが、その現実は今日も同じである。ところが、同和地区指定数の減少(1935年――59、1967年――20、1971年――15、1993年――18)に見られるように、戦後の同和行政はむしろ後退した。しかも1971(昭和46)年度は67年度の指定地区のなかから4市町村5地区の取り消しを認めるなど、指定基準および原則の安易さが指摘される。戦後も県の主要な同和対策事業は下排水の整備、集会所の新改築などであるが、この事業の趣旨が周知徹底したとは到底考えられない。県教委は『同和教育の手引』『同和教育の実践』を、県商工労働部、職安は『同和対策と雇用のあり方』を刊行したが、内容的には中央省庁、他県行政記事の転載にすぎず、県の独自性や主体性は皆無に等しい。したがって84年秋に起こった長岡市高校生ロックバンド差別事件【ながおかしこうこうせいろっくばんどさべつじけん】の確認会で、県教委は〈同和教育の不十分〉さを認めざるを得なかった。

 自治体レベルでも事なかれ主義が目立つ。84年11月28日、同和行政を拒む岩船郡神林村長を相手どり、部落解放同盟神林村湯ノ沢支部長小池健志らは*地域改善対策特別措置法に基づく中小企業振興資金借入申請の不受理取り消しを求めて新潟地裁民事部に提訴、88年1月原告完全勝訴の判決を引き出した(*神林村裁判)。93年に上越市は同和対策室を設置、〈人権尊重・部落差別撤廃条約〉を制定。また95年に新発田市でも人権対策室を設置、97年には県内初の部落解放を企図した隣保館を開館した。さらに98年、県が福祉保健部人権対策室を設置した。

[教育]

 西村町では1883年(明治16)、山田銀五郎【やまだぎんごろう】を中心とする部落有志の努力で白山社境内に〈私立共信校〉を設立した。就学児童数49人は、戸数から就学率2割強と推定される。同校は翌年〈公立居業校〉と改称。明治20年代には刈羽郡K村でも部落児童の就学が実現した。このとき、一般父母より各学級最末席に列せよとの声があった。一方、県北・村上の尋常小学校で部落児童が最初に卒業したのは93年である。この年高田女学校に赴任した安田磐子は本務のかたわら西村で日曜学校を主催した。しかし精勤2年、病に倒れた。1900年、相川では佐渡新聞社主・森知幾【もりちき】が未就学の部落児童のために西宮神社に明治学校【めいじがっこう】を設立。読書・算術に実習を含む夜学校だった。森は卒業生の官公吏就職も実現させた。明治学校は1909年終焉。この間島内には、河原田・光福寺に真宗大谷派僧侶による興仁学舎【こうにんがくしゃ】も誕生した。学務日誌や教授週録が伝存する。ただし卒業生の公学校高等科への編入は拒まれた。往時の公教育の現場を次の数字が象徴している。村上尋常小学校で1902年度に入学したS部落児童男子8人中、順調に卒業に到達したのは2人のみ、退学3、進級不可3であった。村上町に私設学校が登場したゆえんである。日蓮宗長法寺住職・佐藤・・・・・承【さとうぎしょう】の日曜学校がそれだが、大正期まで続いた。

参考文献

  • 新潟県『新潟県史 近代7』(1983)
  • 原田伴彦・田中喜男編『東北・北越被差別部落史研究』(明石書店、1981)
(佐藤泰治)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:47 (1295d)