水俣病患者の人権【みなまたびょうかんじゃのじんけん】

 水俣病は戦後最大の*公害【こうがい】問題であり,被害者の数でも大気汚染に次ぐ規模だが,正確な数はわかっていない。第1の水俣病は1956年(昭和31)熊本県水俣市で発見されたが,原因がほぼチッソ水俣工場の排水と判明したところで研究は打ち切られ,迷宮入りとされた。この間、行政の初期対策の遅れとともに社会的差別のために、多数の潜在的患者が不知火海沿岸に広がる結果となった。65年新潟に第2水俣病が発見されてのち,68年にようやく政府は公害病と認めた。この経過からもわかるように政府は一貫して水俣病を過小評価しようと試み,その結果として被害者の数もできるだけ限定しようとした。70年までは,重いメチル水銀中毒の典型症状をもち,行政に申請のあった患者だけが認定患者とされ,少額の見舞金をチッソから受け取る制度になっていた。 こうして認定されたわずか100余人の患者互助会は,厚生省があっせんする補償処理案についての白紙委任状への署名を行政が強要したため,一任派と訴訟派に分裂し,後者は69年チッソを損害賠償請求で民事訴訟に訴えた。70年から患者運動の主導権下に潜在患者の掘り起こしと認定運動が始まり,その結果として認定患者の数は増大し,その分布も不知火海一帯に広がった。患者の運動もこれに従って拡大し,71年から19カ月のチッソ東京本社座り込みがなされ,最後には民事訴訟で勝訴(1973年3月、熊本地裁はチッソ側の過失を認め、患者勝訴を言い渡す)した原告もこれに加わってチッソを追い詰め,73年7月、患者に有利な協定を結ばせた。

 一方、政府は認定制度によって対象を厳しく限定した。棄却、保留された患者は国・県の行政責任などを追及する訴えを起こし、その救済を求めた。国・県の不作為の責任を認める判決も出たが、国は上告し、20年以上にわたって、救済は放置された。患者の平均年齢が70歳を超え、力が尽きたところで、官僚の用意した連立与党による政治解決として、96年(平成8)5月和解が成立し、一時金280万円と医療費、療養手当を受けることになった。被害の全体像は今日でも明らかになっていない。典型的な症状を示し、認定され補償を受けた患者は熊本・鹿児島で2260人、新潟で690人にすぎず、和解の対象は1万4000人を超え、なお2000人が棄却された。水俣病発見から40年後の政治解決でも問われなかった行政責任など、残された問題は多い。関西訴訟に参加した少数の被害者は和解を拒否した。

 水俣病患者は初期には伝染病患者と思われたり,地域の魚が売れなくなる原因として,あるいは行政に柔順な地域社会の異端者として,また地域産業のチッソと水俣市の未来を危うくするものとして激しい抑圧と差別を受けたが,直接行動,裁判などを含む多様な患者の運動と,それをとりまく支援の市民運動によって局面を打開し,行政がそれに追随して種々の施策が不十分ながらもつくられてきた点で,戦後社会運動の一つの新しい型を作ったといえる。主として無党派市民の支援運動が占めた部分が大きいことは,今後の社会運動を考えるうえでも重要になろう。公害の差別的側面を考えると,他の社会運動との協力,交流が大切な鍵になる。

*公害

参考文献

  • 宇井純『公害の政治学』(三省堂,1968)
  • 同『公害原論』(亜紀書房,1988)
  • 石牟礼道子『苦海浄土』(講談社,1969)
  • 椿忠雄・武内忠男『水俣病』(青林舎,1979)
  • 川本裁判資料集編集委員会編『川本裁判資料集』(1981)
(宇井 純)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:48 (1294d)