青森県【あおもりけん】

[現状]

 弘前市,青森市などいくつかの市町村に部落の存在が確認されているが,県内地区の実態把握や地区指定,同和対策事業はいっさい行なわれていない。弘前では,近世から2度の移転などで形成された部落が,1960年代末からの都市開発・区画整理により,100戸余りのうち、約半数が移転対象となり,一部は隣に建てられた高層アパートに移住した。明治初年の弘前藩の穢多人口は488人(呉文聡による『統計集誌』、1882)。1921年(大正10)の調査では欄外に〈部落ニ類似ノモノ1,現在戸数37人口男90女96〉と記されている。

[歴史]

 近世の史料によると,弘前をはじめ八戸,青森,黒石,鯵ケ沢,和徳,鶴田,五所川原,飯詰,金木などに〈*穢多〉〈穢多乞食〉〈*非人〉〈袖乞〉などが,1-20数戸の集落をつくって居住していた。弘前藩は,南部氏の支族の津軽(大浦)氏のもとで,近世的支配に移行した。寛永1年(1624),周辺から城下に賤民が集められ,追【おい】懸【かけ】長【ちょう】助【すけ】が〈御領分惣長吏乞食頭〉に任じられたと『秘系由緒伝』(幕末に長助が作成)は伝える。長助は穢多,非人・*乞食の頭であり,芸能興行権をもち帯刀を許されたという。穢多と非人・乞食との区分は次第に明確化され,乞食は固定的な賤民身分ではなかったと推定されているが,厳密にはなお検討を要する。穢多の職業は,弘前藩,黒石藩などでは皮剥・皮革製造を業とし,太鼓の製造,草履・雪駄・下駄・傘などの製造も行なった。刑吏や領内探索などには穢多と非人・乞食が,*門付芸には非人・乞食がかかわった。

 盛岡支藩の八戸では,穢多のほかに〈店【てん】屋【 や】【てんや】〉(典屋,店屋猿引ともいう)がおり,その頭は正月に城中御台所で春田打を演ずるのを恒例とし,領内の芸能の元締的存在だった。

参考文献

  • 原田伴彦「近世東北地方の被差別部落」(原田伴彦・田中喜男編『東北・北越被差別部落史研究』明石書店,1981)
  • 成沢栄寿「東北」(『部落の歴史 東日本編』部落問題研究所,1983)
  • 本田豊『部落史を歩く』(柏書房,1982)
  • 藤沢靖介「東北地方の被差別部落」(『解放研究』5号,1992)
(藤沢靖介)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:49 (1388d)