静岡県【しずおかけん】

[現状]

 県内には53の部落がある。このうち県行政が地区指定しているのは15市町村・21地区だけで,残りの所は〈部落なし,差別なし〉の姿勢をとっている。県内の部落は旧東海道およびその宿場町に多く形成されており、また大井川をはじめ大小河川の河口に点在するという特徴がある。これは参勤交代の際の街道警備や〈入鉄砲に出【で】女【おんな】〉の取り締まりという徳川幕府の支配政策を忠実に反映したものといえよう。1935年(昭和10)調査では51市町村に52部落,戸数2655,人口1万6132であった。96年(平成8)調査では2149世帯、7028人となり、近年急速に減少している。これは若い世代が就職や結婚に伴って部落から転出する事例が増えていることによる。県内の部落は浜松市内に300世帯を超える大規模部落があるほか、100世帯以上の部落も数多く存在するが、そのうち半数近くが部落関係の者だけで占められている地区で、地域の中ではいまだ隔絶されており進学率も著しく低い。未指定地区が多い。解放同盟県連では、県に対して総合的実態調査を実施するよう要求している。

(小松原都美雄)

[前近代]

 県内における部落形成史や前近代部落史に関する史料はきわめて少ないが,『静岡県史料』第3巻所収の『七条文書』がある。戦国大名今川氏は〈かわた〉彦八【ひこはち】に駿河在中の城下町の一角に屋敷地を与えて皮役の負担を負わせ,緊急に皮革が必要なときには,国中から調達するという権限を与えている。今川氏は分国内では,中央の権門勢家を本所とした皮革商人の特権を認めなかった。あくまでも分国内の皮革商人に課役を負わせ,分国内の皮革の統制と確保に努め、そのためにかわたは身分と住居の移転を厳禁された。他の戦国大名も今川氏と同様の政策をとった。県内の旧城下町に残る部落のいくつかは,戦国期に形成された。東海道が整備され宿場が開かれた近世には,街道警備のための部落もつくられた。浜松市のA町はその例である。幕府は大きな川には軍事的理由から橋を架けさせなかったから,大井川などの大小河川を抱える所には,下級警察機能をもつ部落をおいた。信仰面では隣の愛知県と同様にほとんどの部落寺院は日蓮宗で,神社は白山神社をまつる場合が多い。一向一揆に手を焼いた徳川家康が,三河の一向一揆を武力制圧したあと,真宗から転宗させ,転宗に応じない真宗寺院は完全に破壊し尽くしたからである。

 これとは別に、かつては〈院内〉という民間陰陽師【おんみょうじ】だけが集住した宗教者集落で、徳川政権下では賤民でなかったものが、明治初期に相次いで出された神仏分離令、いわゆる陰陽道廃止令、修験道廃止令の洗礼を受け、生活の糧である宗教活動を奪われ貧困に窮した部落が存在する。袋井市岡崎南区がその代表例で、彼らは明治5年(1872)の壬申戸籍令の施行時に旧来の姓を剥奪され一村全員が稲葉姓に変更、賤民と同等視されるようになった。このように明治以降の身分制度の崩壊、急速な宗教改革の犠牲で新たな部落が作り出された事例があり、その数は少なくない。

(小松原都美雄・山本義孝)

[融和運動]

 県内では浜名郡*吉野村風俗改善同盟会【よしのむらふうぞくかいぜんどうめいかい】が部落改善の模範とされた。同村では1895年(明治28)消防組を設置し,それまでの若者組を廃止した。中心になったのは*北村電三郎【きたむらでんさぶろう】,長谷藤市【はせとういち】らの青年である。消防組が基礎となり98年風俗改善同盟会をつくり浜松警察署の承認を得て活動,風俗改善,衛生思想の向上,勤倹節約,教育振興が目的とされた。同村の場合には生活の細部にわたる細かい規定を作り違反者に対する懲罰規定まであった。この吉野村の例が全県内の部落にも応用され,部落は警察の日常的監視下におかれ相互監視による生活の締め付けが行なわれた。したがって1918年(大正7)の*米騒動に対しても部落民の参加は、2地区を除いてほとんどみられなかった。このような経過の後,20年には県社会事業協会が設立,24年11月同会内に融和部が新設され,本格的な融和事業,運動が展開されることとなった。昭和恐慌下には伊豆・長岡区の経済更生運動が*中央融和事業協会でも高く評価された。

(小松原都美雄)

[解放運動]

 全国水平社第2回大会(1923)に傍聴参加した浜松市の*小山紋太郎【こやまもんたろう】は,同年3月31日,自宅に県水平社本部を創設し県内のオルグを開始。以後、掛川町,梅原村,岡部町,川崎町,島田町などに9支部が組織された。梅原村水平社の創立に対して,所轄中泉警察では日ごろから水平社に加盟しないように妨害するなど、県内の水平社創立にあたってつねに警察が妨害行動を行なっている。小山が自転車の無燈火なのを口実に〈梅原ならやっつけてしまえ〉と刑事2人巡査1人によって殴る蹴るの暴行を加えられる事件が起きた。同村水平社は署長を糾弾。岡部町水平社では部落だけを祭礼の仲間に入れず,氏子の権利を侵害したので糾弾し,祭礼に参加できるようになった。磐田郡二俣村でも祭礼費用だけとられ祭りには参加できなかったが水平社を組織して交渉した結果,祭礼と消防組に加入することとなった。県水平社は東海水平社の一翼を担い*全国水平社解放連盟の拠点県となり,アナ系の*『自由新聞』【じゆうしんぶん】を発行したこともある。昭和期には県委員長の小山が上京したこともあり,30年(昭和5)4月の*豊橋第18連隊差別糾弾闘争【とよはしれんたいさべつきゅうだんとうそう】も全県的活動とならず,日中戦争後の社会運動全般にわたる国家の弾圧政策のなかで,多くの全水支部が解散に追い込まれた。そのようななかで、袋井市岡崎支部では荊冠旗を守りとおし,虫食いだらけではあるが今日に伝えられている。

 戦後は,掛川では服部初太郎,袋井岡崎では小松原喜作が中心となり県内各地をオルグ,組織確立へ向けて活動していたが沈滞気味だった。52年末,*松本治一郎が遊説に入り小笠郡内を中心に活動が盛り上がったが、解放委員会結成には至らなかった。その後,松本委員長の参院選挙闘争や国民大行進などのオルグを受けるなかで解放同盟の2支部が結成され、県連結成へ向けて活動している。

 97年(平成9)にはこれまでに見られなかった新たな解放運動の方向として、地域の歴史を解明しそれぞれの部落の実態に即した啓蒙活動を重視し実践する動きが始まり、近隣の人々の支持を得ている。

(小松原都美雄)

[行政]

 県内の同和行政に関する予算については,県社会事業協会の創立(1920)後にようやく県行政として部落改善費を計上した。それまでは市町村費が主であって1916年(大正5)にはわずか15円だけであった。その後18年に初めて郡費30円が計上され,20年には県が初めて200円の予算を計上。しかし市町村では全県で420円の予算が支出されており,県予算を上回っていた。県社会事業協会内に融和部が新設(1924)されても予算が格段に増えたとはいえず,大半は寄付金と補助金であった。それも国庫と中央融和事業協会からであって県独自の持ち出しではなかった。戦後になって,県が同和予算を計上したのは59年(昭和34)で,他府県が53年を境にして予算計上したのと比較して遅れているといわざるを得ない。現在では県民生部社会課同和対策室が窓口となっている。同和行政を扱っている市町村でも、浜松市が同和対策課で、他は福祉係あるいは社会係で同和行政を取り扱っている。また袋井市では、79年に福祉事務所係が同和対策室に名称を変更し、さらに94年(平成6)に〈しあわせ推進同和対策室〉となる。

(小松原都美雄)

[教育]

 1919年(大正8),融和の実のあがった浜名郡吉野村では,その事績を記録し各府県の参考資料とするため内務大臣から奨励金が〈下賜〉されたのをきっかけに『静岡県浜名郡吉野村事績』【しずおかけんはまなぐんよしのむらじせき】を刊行した。同村では教育の振興にも力を入れ,1904年(明治37)子どもの皆就学を実現,19年には出席率も95%を超えるようになったが,高等小学校への進学はわずか1割程度であった。県水平社が創立され、差別糾弾闘争の展開のなかで婦人・少年少女水平社も組織され川崎水平社や相良水平社の創立大会に多数参加した。少年少女水平社では小学校における児童の差別発言や教師の差別事件の糾弾を行なった。大半は差別者の口頭謝罪で解決し大きな問題となった事件はない。県は59年(昭和34)に戦後初めて同和対策費を組んだが、同和教育に対する取り組みはまったくなかった。最近は高校進学率も高まったが私立高校が多く、大学進学に至ってはきわめて少数であるという現実がある。

(小松原都美雄)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:49 (1469d)