大阪市【おおさかし】

 大正時代の初期までは,民間の融和団体に対し,行政から若干の補助金を出す程度であった。1918年(大正7)夏の*米騒動後,同和地区に警察官家族を駐在させて治安維持をはかる一方,20年より内務省からの地方改善費の補助を受けて,大阪市でも初めて融和事業に着手した。22年3月,*全国水平社の創立後まもなく,その本部が大阪に移されるや西浜が水平社運動の中心となった。市は地区に診療所・浴場・理髪所などをはじめ,託児所・共同作業場・市民館の開設,環境の改善整備などを行なったが,折からの昭和恐慌に見舞われ,十分な行政効果がみられなかった。36(昭和11)年度から始まった国の大規模な*融和事業完成十カ年計画を受けて,大阪市も融和事業を進めたが,太平洋戦争の勃発に伴い中絶した。

 52年5月,*大阪市立南中学校【おおさかしりつみなみちゅうがっこうさべつじけん】の生徒の間に差別言辞が交わされる事件が起きた。部落解放全国委員会大阪府連(*松田喜一委員長)は市教育委員会に質問状を出した。6月中旬,市は同和事業懇談会を開き,同和対策の必要性を確認し,同年度の追加予算80万円を計上した。所管は民生局福利課であった。翌53年2月には,*大阪市同和事業促進協議会が創立され,戦後の同和行政もようやく軌道に乗り始めた。当初,予算の大部分は,環境改善事業として施設の設置にあてられていたが,予算の増額とともに,トラホーム診療事業,生活改善講習会開催などの事業を拡大していった。55年には,同和事業を適正かつ効果的に展開するために研究調査等を実施する必要があるとして大阪市同和問題研究室【おおさかしどうわもんだいけんきゅうしつ】が開設された。初代理事長は北神正(大阪市民生局長)、ほか4理事(*原田伴彦、*岡本良一、*栗須喜一郎、*小林茂)により構成。機関誌『大阪の同和問題』(1958-67)、研究誌『同和問題研究』(1957-58)のほか、*『摂津役人村文書』、『大阪市同和事業史』など多数刊行。63年10月,市長の付属機関として大阪市地区改善対策審議会が設置され,のちに市に有効適切な答申を重ねた。66年10月には,同和対策の総合部局として同和対策部を設置。国の*同和対策審議会答申に即して,68年10月,大阪市同和対策審議会は,地区の長期計画樹立のための基本構想を答申した。71年度から国と同調して同和対策長期計画を策定し,国の施策の補完を行なった。*同和対策事業特別措置法の制定に伴い同和対策事業の拡大と関係予算の増大をはかったが,*地域改善対策特別措置法後は,従来の施策の見直しをする一方,多方面にわたる啓発事業の積極化をはかってきた。

 また,大阪市の同和行政の進め方を協議する大阪市同和対策推進協議会により,87年同和行政のあり方についての意見具申,つづいて市民啓発についての意見具申,さらに個人給付のあり方,解放会館・青少年会館の一般利用の促進,診療所・医院のあり方についての提言が次々に出され,この基本方向にそって同和行政や人権啓発の指針を作成し,諸般の改革を進めてきた。90年代に入り,さらに法延長後の同和行政のあり方意見具申が97年(平成9)に出され,同和行政から人権行政への発展をめざして,99年人権行政基本方針を策定,同和対策部を人権部,同和教育企画室を人権教育企画室に発展改組。その機構改革をふまえて2000年3月〈大阪市人権尊重の社会づくり条例〉の制定をみた。同時に解放会館の名称変更を伴う〈人権文化センター〉条例改正もなされ,新たな歩みを始めている。

参考文献

  • 大阪市同和問題研究室編『大阪市同和事業史』(1968)
(小林 茂、中谷俶昌、中嶋正春)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:50 (1388d)