大阪府【おおさかふ】

[現状]

 府内全同和地区を対象とした生活実態調査(1990年実施)によると、部落の住宅の居住室の畳数は持ち家35.5畳、公営住宅20.2畳で、大阪府平均(持ち家33.5畳、公営住宅16.9畳、住宅統計調査、1988)に比べて大きくなっている。これまで部落の住宅について指摘されてきた狭小性は、大阪府では解消されたといってよい。仕事については、いわゆるホワイトカラー層が少なく、ブルーカラー層が多いという点が部落の特徴とされてきた。1990年(平成2)の調査では、就業者に占める事務従事者と技能工、採掘・製造・建設作業者および労務作業者(以下、技能工等)の構成比がそれぞれ13.3%、39.6%と、大阪府全体の構成比20.6%、31.7%(国勢調査、1990)に比べ、まだ大きな差がみられる。しかし、最終学歴が大学卒業以上の就業者だけについてみると、事務従事者29.8%、技能工等11.2%となり、府全体の22.2%、9.2%と比較して、技能工等はやや多いものの、事務従事者は全体を7.6ポイントも上回っている。また、年齢別に20-29歳と50-59歳の就業者についてみると、20歳代では事務従事者25.9%、技能工等28.2%であり、府全体(29.2%、24.4%)との間に格差がみられるものの、50歳代の場合(事務従事者5.1%、技能工等48.6%、府全体はそれぞれ15.1%、38.9%)に比べて、その格差は小さい。すなわち、従来から指摘されてきた、ホワイトカラー層が少なく、ブルーカラー層が多いという部落における就業の特徴は、高学歴層や若年層では顕著なものではなくなってきており、それは低学歴層や中高年層の問題となりつつある。

 近年の大阪府の部落における新たな問題として、経済的安定層の部落からの流出があげられる。これは部落の就業者の職業が多様化し、就労状態が安定化してきたため、労働力の流動性が高まったことにもよるが、部落の住環境整備が一律に公営住宅の建設によって進められた結果といえる。90年調査によると、公営住宅居住世帯は59.4%に上り、公営住宅の居住室の畳数は20.2畳である。たしかに公営住宅の建設当初は、部落の生活水準が低く、狭い公営住宅にも不満の声は少なかったが、就労実態が大きく変化し、所得水準も上昇するにつれ、公営住宅の狭さの問題が顕在化してきた。すなわち、所得水準が上昇すれば、家具が増え、住宅に対する要望も高まってくる。しかし、定住し続ける住宅ではなく、より広い住宅に移り住むためのステップとして位置づけられている公営住宅は、こうした要望にはこたえられないのである。そのため、公営住宅の狭さに不満をもつ、経済的に安定した世帯が、部落外の分譲住宅を購入するなどして、部落から流出しているのである。その結果、部落には高齢者世帯や母子・父子世帯が目立ってきている。また、同調査によると、部落に流入してきた世帯は現住世帯に比べて、世帯収入や学歴水準が低く、ブルーカラー層が多い。そうしたことから、大阪府の部落では安定層の流出と不安定層の滞留に加えて、不安定層の流入という、人口の流動化が進行しているといえる。

(石元清英)

[歴史]

 近世初期に史料のうえで確認される部落(かわた村ないしエタ村)は摂津・河内・和泉3国36郷(荘)に37地域あり,このうち中世との関連が確認できるのが1地域と少ない。逆にその後の新田開発で新しくつくられた部落は3地域あるが,その他は不明。所領配置は,『部落台帳』【ぶらくだいちょう】の地域数に従えば天領(41地域)がもっとも多く,次いで高槻藩13地域,岸和田藩4地域,その他は麻田藩・伯太藩の所領および役知・藩の飛び地となる。このうち一村一部落を形成しているのが2地域,のちに独立するのが2地域あるが,他は枝郷である。仕事については,19地域で農業に従事していたことが確認されるほか,6地域で行刑役に就いていた。なお皮革生産とかかわりがなかったことが1地域で確認される。近世においては,本村ないし周辺の村の人口が停滞ないし減少するのに対して,部落の人口が増加している例が多いが,大阪でも4地域で確認できる。その理由として,厚い信仰心と,人口増を支えた雑業(履物製造等)の存在が指摘されている。

 近代以降,新たに形成されたことが史料のうえで確認できる地域が2地域ある。逆に近世で確認されながら『部落台帳』に記載がない地域,近世では別の部落でありながら『部落台帳』では1つに記載されているのがそれぞれ1地域ある。また,1889年(明治22)の市制・町村制施行にあたって部落だけで独立した町村を形成したのが3地域あり,それ以前に短い期間であれ独立村を形成していたことがある地域は4地域あった。『部落台帳』の分析によれば,部落の職業構成で農業が21.9%と大阪府の平均(14.1%,1920年)よりも多く,工業も43.5%(大阪府平均41.8%,1920年)と多いが,その大半は部落産業関連工業である。また日雇い,その他が7.0%(同1.7%)と多く,こうした小作・部落産業・同関連の雑業・行商などが部落の生活を支えていた。しかし,そのなかでも大阪市内の部落にみられるように一般工業の職工が徐々に増加していった。また近代の大阪の部落は急激な人口増(戦前には主に近県の部落ないし在日朝鮮人,戦後は部落外からの流入)が認められ,部落自体が拡大していき,そのことが部落差別の新たな問題を生み出し,同時に部落解放運動の新しい課題を提起していった。

(渡辺俊雄)

[融和運動]

 大阪府で最初に組織された融和団体は,1924年(大正13)にできた泉南郡誠和会【せんなんぐんせいわかい】で,その後つくられた誠和会を糾合して,28年(昭和3)2月に大阪府公道会【おおさかふこうどうかい】を結成。それまでの誠和会は,それぞれ大阪府公道会の支部となった(当初9支部,のち16支部30分会に拡大)。41年7月,全国に先駆けて同和奉公会大阪府本部【どうわほうこうかいおおさかふほんぶ】に改組された。事業内容は,産業経済施設・教育文化施設・学校教育施設・社会教化施設と,他団体と大差はない。34年度の*中央融和事業協会による経済更生地区としては三島郡島本村と豊能郡東能勢村の2地区を指定,府独自には40年度に豊中市南新免,泉南郡淡輪村を指定。独自の機関紙・誌はない。

(渡辺俊雄)

[戦前の解放運動]

 部落差別との闘いは,古く幕末17カ村の部落が結束して闘った*摂河泉竹皮値下げ一件【せっかせんたけかわねさげいっけん】の闘いがあるほか,*〈解放令〉以降には職域拡大・合併反対闘争や賤業返上【せんぎょうへんじょう】の闘いがあった。自由民権運動では*中江兆民が大阪を拠点に活動し,1891年(明治24)の大阪府会議員選挙で*森秀次【もりしゅうじ】が差別を受けたときには,近畿各府県にまたがる大闘争が組織された。また1903年に*大日本同胞融和会が組織されたときには,南王子村の村長*中野三憲【なかのさんけん】が中心となり,22年(大正11)の*大日本平等会の発会式では寺田蘇人【てらだそじん】が中心となった。18年の*米騒動で部落から検挙者が出たのは3地域だけだが,他の地域でも未然に抑えられた多くの動きがあった。米騒動後,*帝国公道会【ていこくこうどうかい】の幹部もしばしば大阪の部落を訪ね,改善運動や青年団の中から自覚的な青年が結集し,その後の水平運動の広がりをつくっていく。

 大阪府水平社【おおさかふすいへいしゃ】は22年8月5日,全国水平社創立大会に参加した青年たちや*栗須七郎【くりすしちろう】らの努力によって創立された。その後25年までに北河内・泉南両郡を除く地域に合計29の水平社が創立(のちに1935年に1支部)される。当初は統一した指導はまったくみられず,24年に初めて大阪府水平社大会を開く(1925年,26年も開催)。23年には向野で*全国水平社青年同盟【ぜんこくすいへいしゃせいねんどうめい】が結成されて西浜に本部が置かれたように,大阪はボル派の拠点となり,多くの部落民が、合法無産政党の労農党結成や活動に参加した。24年暮れ,全国水平社内部で旧幹部批判が起こった後,京都にあった本部は大阪に移され,翌25年からは浪速区に移転し,大阪は全国の水平運動の中心地となる。また河内地方では水平社員が中心となって*日本農民組合【にほんのうみんくみあい】の支部が結成され(泉州地方では結びつかない),大阪市内の皮革関係の工場でも労働争議を担うなど労農運動との結びつきがあった。大阪では唯一,富田林の新堂水平社がアナ派の影響下にあり,ここに大阪府水平社解放連盟【おおさかふすいへいしゃかいほうれんめい】が結成(1927)されたが,大きな勢力とはならなかった。大きな糾弾闘争としては香蓑小学校差別事件【かみのしょうがっこうさべつじけん】(1925),木津第二小学校差別事件【きづだいにしょうがっこうさべつじけん】(同),在郷軍人会差別事件【ざいごうぐんじんかいさべつじけん】(1926)などがある。20年代の後半,運動は一時停滞したが,30年(昭和5)に全水大阪府連甦生第1回大会が開かれ,組織を再建,11支部を結集した。その後,大阪府社会課員差別事件【おおさかふしゃかいかいんさべつじけん】(1931),*高松差別裁判糾弾闘争(1933),中津署警察官差別事件【なかつしょけいさつかんさべつじけん】(同),車郷村村長差別事件【しゃごうむらそんちょうさべつじけん】(1934),三宅署差別事件【みやけしょさべつじけん】(同),*岸和田紡績差別事件【きしわだぼうせきさべつじけん】(同),*「女人曼陀羅」差別事件(同),差別講談放送事件(1935)などを闘う。この間,大阪府水平社の中心となったのは*泉野利喜蔵【いずのりきぞう】と*栗須喜一郎【くりすきいちろう】,再建後は*北井正一【きたいしょういち】,*松田喜一【まつだきいち】(1934・35年度の府連委員長),*山口賢次【やまぐちけんじ】など。機関紙としては*『水平線』【すいへいせん】(1925),『大阪府連合会ニュース』(1934),ほかに『差別裁判糾弾闘争ニュース(大阪地方版)』(1933)などを発行。

(渡辺俊雄)

[戦後の解放運動]

 戦後は1946年(昭和21)2月の全国部落代表者会議に参加した活動家を中心に同年6月ないし7月に部落解放委員会大阪府連を結成(委員長・栗須喜一郎),生活擁護闘争を闘う。また青年を中心に同年8月4日に部落解放大阪青年同盟【ぶらくかいほうおおさかせいねんどうめい】を結成(委員長・*和島岩吉【わじまいわきち】)。各地域で文化運動や懇談会を開いて青年を組織した。51年12月に*大阪府同和事業促進協議会【おおさかふどうわじぎょうそくしんきょうぎかい】を結成し,府同促を前面に地域の要求を組織して行政闘争を展開することで,大阪の各地域に解放運動の影響力が広がった。しかし逆に〈ヒサシを貸して母屋をとられる〉と形容される事態をもたらした(1955年当時,支部員登録していたのはわずかに10支部のみ)。57年の第6回解放同盟府連大会では要求闘争を基礎にした大衆運動を展開する方針を決定し,大阪市内を中心に住宅,生業資金,教育闘争を展開。60年以降は各地の差別事件の糾弾と*国策樹立請願運動を背景にして府内にも支部を建設し,65年10月の第13回府連大会時には20数支部を数えた。同大会では激論の末,*〈同対審〉答申完全実施国民運動を展開する方針を決定,翌年には全国に先駆けて同対審大阪府民共闘会議【どうたいしんおおさかふみんきょうとうかいぎ】(のち大阪部落解放共闘【おおさかぶらくかいほうきょうとう】)を結成して府民ぐるみの運動を展開。あわせて解放同盟と要求組合・同促協の機能の分離をはかった。69年以降*矢田教育差別事件【やたきょういくさべつじけん】を契機とした*日本共産党の差別キャンペーンをはね返し,府同促を通じて同和行政を行なう民主的管理(*窓口一本化)方式を確立。また差別糾弾闘争を重視するとともに,最低賃金闘争,いのちとくらしを守る闘争,障害者・在日韓国朝鮮人・女性などとの共同闘争,被差別階層との連帯を追求した。また*国際人権規約批准促進運動【こくさいじんけんきやくひじゅんそくしんうんどう】,世界人権宣言35周年の取り組みなど国際連帯でも先頭を走り,同時に72年の第20回府連大会でもいちはやく組織の質的強化を提起し,83年の第30回府連大会では*同促協方式の整備を含む組織建設5カ年計画を提起している。99年(平成11)現在47支部。機関紙『解放新聞大阪版』を65年5月創刊し現在月4回刊。

(渡辺俊雄)

[行政]

 大阪府内の各町村では,古くは1880年代から泉北郡南王子村などで*部落改善事業(共同浴場の建設)が始まるが,大阪府として本格的に改善事業に取り組むのは1918年(大正7)*米騒動の年に救済課が設置され(直接の担当は救護係),*小河滋次郎【おがわしげじろう】が配任されてからで,同年に大阪の59部落が調査され『部落台帳』【ぶらくだいちょう】が編集される。なお*部落改善費は20年度に初めて2000円計上されたほか,国の行なう地区整理事業【ちくせいりじぎょう】として第1次(1923-32年度)には東成郡住吉村,第2次(1933-35年度)では泉南郡鳴滝村が指定された。

 戦後の同和行政は,大阪府は47(昭和22)年度に302万7000円,大阪市は52年度に追加予算のなかで80万円計上したのが始まりである。それぞれ,部落解放委員会・部落解放青年同盟の結成,市内における教育差別事件を契機としたもので,とくに大阪府の場合全国的にみても早く,額も少なくなかった。内容は授産場・共同作業場の新設等で,その後53年,61年,66年,71年と,大阪における解放運動の発展の節目ごとに額が増加していった。この間大阪府は66年に企画部同和対策室を設置し(大阪市も同年),69年に府独自の同和対策審議会答申(大阪市は前年の1968年)をまとめ,全国に先駆けた多面にわたる事業を実施している。なお,大阪における同和事業の特徴は,その執行にあたって同和事業促進協議会(府の場合には府同促協,大阪市の場合には市同促協および地区協,府内市町村の場合にはそれぞれの同促協)と協議して実施することにある。この〈*同促協方式【どうそくきょうほうしき】〉によって対象地域がまとまり,部落差別の解消という同和行政の本来の目的も効果的に推進することができる。〈同促協方式〉は,83年に出された府の新たな同対審答申でも確認された。また、85年には部落差別を引き起こす身元調査を規制する全国で初めての条例、〈*大阪府部落差別調査等規制等条例〉(資料編C-1)が制定された。

 その後、96年(平成8)12月に府同和対策審議会が〈大阪府における今後の同和行政のあり方〉と題する答申を発表、翌97年3月には、府はこれまでの答申を踏まえ、府の同和行政の基本的な考え方として〈大阪府同和行政方針〉(改訂)をまとめるとともに、大阪府人権教育のための国連10年推進本部(1996.2設置)が〈人権のための国連10年大阪府行動計画〉を策定した。さらに98年10月,〈大阪府人権尊重の社会づくり条例【じんけんそんちょうのしゃかいづくりじょうれい】〉(資料編C-11)を制定している。

(渡辺俊雄)

[教育]

 戦前から学校教育のなかで差別事件がたびたび起こり,水平社は1925年(大正14)香蓑小学校差別事件の糾弾闘争にみられるように子どもを組織し,子どもたちを主人公に学校教育を糾弾してきた。これに対して融和教育では,〈解放令〉を明治天皇の聖旨と教え,観念的な国民融和を説いてきた。大阪の場合,いわゆる〈部落学校【ぶらくがっこう】〉は現在確認されるところでは東成郡城北村にただ1つであるが,これ以外に大阪市内では*有隣小学校【ゆうりんしょうがっこう】,*徳風小学校【とくふうしょうがっこう】,豊崎などの勤労学校【きんろうがっこう】の存在が知られている。

 戦後においても,52年(昭和27)の*大阪市立南中学校差別事件【おおさかしりつみなみちゅうがっこうさべつじけん】にみられるように学校現場における差別事件が後を絶たなかった。部落解放全国委員会大阪府連は,大阪市教育委員会に対して質問書を出して同和教育の取り組みを求め,大阪府・市教委と堺市教委などの協力で教員の講習会が始まった。53年5月,大阪学芸大学の*盛田嘉徳【もりたよしのり】の協力もあって大阪で*全国同和教育研究協議会【ぜんこくどうわきょういくけんきゅうきょうぎかい】が創立された。58年には*勤務評定反対闘争が部落解放同盟大阪府連をあげて闘われ,同時に市内における*義務教育無償化を求める教育闘争,*教科書無償を求める闘いは,補充学級の開設(大阪市,1958年度),学用品,修学旅行費等の特別就学奨励費【とくべつしゅうがくしょうれいひ】(同,1960年度)を実現するなどの大きな成果をあげた。なお61年には*学力テスト反対闘争も闘われている。こうした闘いを前提に,国の同対審答申が出たのを契機として,66年には大阪市,翌67年には大阪府が同和教育基本方針を策定し,68年から*越境入学反対闘争が闘われ,以後各種施設・設備の充実や同和加配,解放教育読本『にんげん』の無償配布(1970)など,本格的な解放教育の取り組みが始まる。69年に起こった*矢田教育差別事件は,こうした解放教育運動の取り組みに水を差すものであった。今日、解放教育運動は、地域における子ども会・父母組織との緊密な連帯のもとに、教育諸条件の整備から教育内容の創造までをめざして取り組まれている。被差別階層との連帯、平和教育など、解放教育の成果を広く国民全体のものとし、今後の教育のあり方に生かしていくことが求められている。

(渡辺俊雄)

参考文献

  • 大阪府同和事業促進協議会編『大阪の同和事業と解放運動』(部落解放研究所,1977)
  • 大阪市同和対策部編『大阪市同和事業史』復刻版(1979)
  • 部落解放研究所編『大阪市同和事業史』続編(1979)
  • 同『大阪同和教育史料集』全5巻(1982-84)
  • 「大阪の部落史」編纂委員会編『新修 大阪の部落史』上・下(解放出版社、1996)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:50 (1411d)