大分県【おおいたけん】

[現状]

 1993年(平成5)の総務庁地区概況調査によると,対象地区世帯数は3117世帯となっている。この数値をもとに大分県が95年に〈大分県同和対策実態調査〉を行なっている。この調査は3117世帯のうち約20%にあたる627世帯を抽出調査したもので,それによると大分市・別府市に22.5%,その他の市部に47.8%,町村部に29.7%の対象地区世帯があり,1世帯あたりの世帯員数は2.88人(したがって対象地区の人口は約9000人と推計できる)となっている。以下,この報告書による主な分析結果を示す。

 人口は大分県全体と比較して20歳代(県全体10.7%,対象地区8.4%)が少なく、40歳代(同15.4%,19.6%)と60歳代(同12.8%,13.4%)が多いことから,対象地区では,過疎県である大分県よりさらに若年層が流出して、今後急速に高齢化が進むと考えられる。婚姻の状況については夫婦のどちらかが地区外出身者であるケースが187例あり,そのうち結婚のとき,親兄弟姉妹や親戚からの反対があったケースは36.9%,反対がなかったケースは59.4%となっている。なかでも,30歳代の夫婦で結婚に反対されたケースは45.7%に上り,時代とともに結婚への反対は少なくなっているとはいい難い状況である。介護を必要とする人は2.1%で,全国1.0%,県全体1.1%より多い。生活保護世帯は5.4%で,県全体の2倍以上である。15歳以上の在学者を除いた最終学歴は,初等教育48.5%(全国の国勢調査31.6%,県全体33.3%)に対して,高等教育は5.1%(同21.2%,15.1%)にとどまり,不就学の割合は国や県全体の10倍以上であった。就労の状況については,国や県全体に比べ製造業・サービス業・卸小売業が少なく,農林業,建設業が多い。仕事をしている人の年収は,92年〈就業構造基本調査〉の全国平均と比べると250万円未満が多く,年収300万円以上の者は全国平均の46.3%に対して,24.6%とかなり少ない。人権侵害の状況については,対象地区出身であるという理由から差別された経験がある人は59.9%に上り,内訳は結婚するときが20.6%,日常や地域の生活が18.4%,職場のつきあいが8.8%となっている。この〈大分県同和対策実態調査〉報告書からも,過去の差別の結果,あるいは現在の差別の実態がわかる。なお、未指定地区については、当然この調査の対象外であり、多くの課題が残されている。

 進学率については、97年3月卒業生の場合,高校進学率93.8%(国97.8%,県全体93.8%),大学進学率23.9%(国40.7%,県全体40.1%)と,依然格差がある。さらに,学校現場を中心に賤称語を使った差別落書きや差別発言が毎年表面化し,部落に対する偏見・差別意識はまだまだ根強く残っている。

(清田昌助)

[前近代]

 幕藩体制下の大分県は県内に城地または居館を持つ中津(奥平)・日出(木下)・杵築(能見松平)・府内(大給松平)・臼杵(稲葉)・岡(中川)・森(久留島)・佐伯(毛利)の8藩と,他国領である熊本(細川)・延岡(内藤)・島原(深溝松平)と旗本領の時枝(小笠原)・立石(木下)に宇佐神宮領・幕府領の7領の領域が錯綜し,〈小藩分立〉といった言葉でしばしば表現されるように複雑な構成を呈していた。これらの藩領は一円的な領地を形成してはおらず,さらには独自の支配体制を形成していた。

 慶長・元和期の村落状況をうかがい知ることのできる貴重な史料に元和8年(1622)の『小倉藩人畜改帳』がある。これは当時小倉藩領であった下毛・宇佐・国東・速見郡(一部)の村々の家数・人数・牛馬数が綿密に記されているのに加え,村民の職業の把握も行なわれている。職業については種々雑多であるが,宇佐郡についてまとめてみると、百姓とその従属者(*名子),職人(鍛冶・番匠・杣・桧物屋・塗師・炭焼・紺屋・紙漉など),商人(ざるかたげ・塩売りなど),藩の下級役人(境目ノ番人・川ノ口ノ番人),寺社関係者,身障者(目くら・こしぬけ)に加え〈かわた〉が記載されている。また他の郡では〈はちひらき〉〈ささらすり〉など中世期に被差別民とされた人々もいるが、〈*かわた〉も含めその人数比は低く,社会的に被差別民として確立された時期のものとはその存在形態も異なっていたと思われる。しかし,のちに杵築藩領となる奈多村の奈多八幡宮に関する史料中に出てくる〈社人太郎左衛門〉の身分呼称が〈かわた〉〈*穢多〉と変化している事実から、大分県内で被差別部落が体制的に確立されてくる17世紀後半以降に至るまでの間,〈かわた〉〈はちひらき〉〈ささらすり〉といった人々が、藩によっては被差別民衆として掌握されていたのであろう。宇佐郡では,史料からルーツが〈紺屋〉と推測される被差別部落もある。また〈かわた〉に関していえば,慶長3年(1598)の『日出庄御指出帳』に〈かわた勘介〉の記載がみられ,彼が畑地を所有する地域は昭和初期に融和事業が実施されている。

 こうして17世紀後半以降、体制的に確立された大分県内の被差別部落についてみていくと,明治初年の『藩制一覧』には8藩と日田県(旧幕府領)の穢多身分・*非人身分の人口が記載されているが,杵築・日出藩は穢多身分のみであり、佐伯藩は非人身分が圧倒的に多く,逆に岡・中津藩・日田県は穢多身分が圧倒的に多い。そして臼杵・府内藩はあまり両者の差がない。こうした事実から,大分県では,ある藩で穢多身分の役務とされたものが別の藩では非人身分の役務であったり,またその逆のかたちがあったことが推測される。史料からわかる役務としては死牛馬処理,*行刑役,刑吏役などがあり,生業として農業・漁業・革細工・竹細工・草履作りなどに携わっていたこともわかっている。府内藩では酒屋株を取得している例もある。

 また,各藩は被差別民衆にさまざまな法令を出し,その生活に制約を与えているが,被差別民衆はけっして屈することなく、時には杵築藩*浅黄半襟拒否の闘争にみられるように、その藩領域を超えた団結の力でたくましく生きていたようである。小藩分立という状況下にあって,おそらくは前時代からのつながりをもとに、被差別民衆の間には強いつながりがあったものと推測される。府内藩では寛政10年(1798)、祭り警備の時の穢多身分の芝居小屋への〈無礼(銭)入場〉を禁じる命令を下した時、穢多身分の人々はその命令に抗議し、撤回することに成功した。そのときの理由を府内藩の役人は記録に〈穢多の儀は一統申し合い候へば他所ともに一列の儀にて、かえって御厄介にも至るべき思し召しにつき=穢多身分の者たちは、いったん相談がまとまったならば藩領域の境を越えて団結するものなので、かえって藩にとってやっかいな出来事を起こすかと思われて〉と書き残している。こうした当時の武士にも認知されていた連帯感の強さが先述の杵築藩の闘争へも受け継がれていったのだろう。このほかにも延岡藩領では穢多身分の者が百姓身分の者に射殺されるという事件が起こっている。この発端は借金を踏み倒そうとした百姓のところへ、貸し手から依頼を受けた穢多身分の者が訪問したことであった。この事件は、藩の役人の吟味の結果、犯人の百姓は死罪となっている。すなわち、穢多身分と百姓身分の者との命が相対となったのである。

(一法師英昭)

[融和運動]

 大分県水平社が創立された1924年(大正13)に,融和団体大分県親和会【おおいたけんしんわかい】が結成された(12月)。これは,知事の指示により郡市長会が母体となって結成され,郡市町村に支部,青年部,婦人部の末端組織を広げて融和運動の推進機関となった。具体的には,講演会や映写会による啓発活動に始まり,部落内の物心両面にわたる生活改善運動として,経済更生と融和教育を中心とする融和事業を推進した。35年(昭和10)の*融和事業完成十カ年計画に基づいて,部落の共同作業場・公会堂の建設,協同組合化の促進,転業資金・奨学資金の交付などのほか,武蔵町・高田町・三保村には教員住宅を設け,訓導が常駐して地域の青少年の教育に携わった。41年,同和奉公会大分県本部に改組された。また,42年頃までには,南大分・鶴居・下北津留の各国民学校が同和教育研究校に指定され,皇民教育の一環としての同和教育の研究・実践が盛んに行なわれたが,敗戦とともに大分県本部は解散させられた。

(中根剛誠)

[水平社運動]

 大分県水平社【おおいたけんすいへいしゃ】の創立は,1924年(大正13)3月30日。結成大会は,別府町(現別府市千代町)の映画館豊玉館で開催された。初代委員長は島田倉助【しまだくらすけ】。創立には,*南梅吉,*米田富らによる全国水平社の指導と,水平社全九州連合会および*松本治一郎などの強力なオルグ活動を得ている。22年3月,*別府的ケ浜事件が発生しているが,大分県水平社設立への影響はあまりなかったといわれる。また,組織的に弱体であった大分県水平社は,大分県親和会(融和事業団体)が同年に結成されたこともあり,組織的運動に苦慮したらしい。大分県の実質的水平社運動は,29年(昭和4)日田郡水平社【ひたぐんすいへいしゃ】の創立に始まる。融和運動の厚い壁のなかで,全国水平社,とくに福岡県水平社のオルグ,指導のもと,日田町公会堂において,*毛利千造【もうりせんぞう】を執行委員長に発足。日田郡地方を中心に,祭行事における地区民の差別排除や教師の差別発言糾弾などを闘った。なかでも30年の日田朝日新聞糾弾闘争は,県内水平運動の頂点を示すものであろう。その後の運動としては,33年の長洲小学校差別糾弾闘争などが挙げられる。しかし,続発する差別事件に対する抗議や糾弾は,いずれも県全体の組織的運動とはいい難く,運動も散発的であったため警察の厳しい弾圧を受け,第2次大戦のなかで埋没していった。

(川崎 寛)

[戦後の解放運動]

 1952年(昭和27)の大分県部落解放委員会の発足後、紆余曲折を経た大分県の解放運動は,72年7月18日の部落解放同盟大分県連再建以来幾度かの再建という試練を経て現在に至っている。委員長・山崎千利(1999年現在)。99年現在県内23市町村45支部約800世帯が参加している。運動の前進と比例して,同和対策も以前に比し大きく取り組まれることとなった。さらに解放運動は教育活動,労働運動との連携も深めている。76年には大分県同和教育研究協議会が結成され,また大分県労働組合評議会との協力のもと,77年に部落解放大分県共闘会議を結成し,労働運動のなかに解放運動を位置づけ,〈部落の解放なしに労働者の解放はなく,労働者の解放なしに部落の解放はなし〉を合い言葉に運動を進めてきた。大分県労働組合評議会の解散を機に連合大分との間で92年(平成4)12月17日,部落解放共闘大分県民会議が発足。こうした動きは県内各地に展開され,翌93年には部落解放共闘臼津市民会議が発足、現在10地区で部落解放共闘市民会議が活動している。また宗教者との間で〈同和問題を考える宗教者連絡会議〉も結成され,研修や各種研究会等で協力関係を維持している。このように解放同盟を中心に多くの団体と連携を取りながら大分県での解放運動が進められている。こうした動きは96年の第30回部落解放研究全国集会の開催,97年の〈人権教育のための国連10年大分県推進連絡会〉の結成などに結実している。

(清田昌助)

[戦後の行政]

 大分県の同和行政は,戦前の融和事業の時代を経て,戦後,*同和対策事業特別措置法の施行(1969)により大きく発展した。行政機構は,当初厚生部社会課が担当したが,1974年(昭和49)には厚生部社会課内に同和対策事務局を新設。77年には,同和行政を充実させるため福祉生活部に同和対策室を設置し組織の充実をはかった。

 同和対策事業では,74年以降民間運動団体の行政闘争が強まるのに伴い,それまでの施策の遅れを取り戻すため同和対策事業予算を大幅に増額した。さらに県の行なう同和対策事業について必要な事項を調査・審議し,事業を円滑に推進するため,77年に県同和対策審議会を設置。また,個人施策に係る同和対策事業を円滑公平に推進するため,79年に県同和対策専門委員会を設置した。78-80年に同和地区の実態を把握するため実態調査(第1次ODR)を実施するなど同和対策の充実に努めた。

 この間77-80年にかけて県南部地域の市町村(指定地域なし)における運動団体がらみのトラブルや県の同和対策資金にかかわって不正事件が発生するなど県内の同和行政が混乱したが,県民世論の高まりのなかで1.行政と民間運動団体相互の信頼関係の回復,2.行政の主体性の確立,3.事業の公平性の確保など,同和行政の正常化に向けて関係者の努力が重ねられた。

 こうした状況を背景に,行政もそれまでの物的事業偏重を反省して啓発事業にも力を注ぐようになり,同和問題に関して県民の理解と認識を深め,その早期解決をはかるため,82年に啓発推進組織として国の機関,県,市町村で構成する県同和問題啓発推進協議会を設置。さらに94年には同協議会に農林水産関係団体,経済団体,マスコミ等も参画し,県,市町村および協議会が一体となって8月の〈差別をなくす運動月間〉や12月の〈人権週間〉を中心に講演会やテレビ,ラジオ,新聞などのマスメディアを利用した啓発活動を実施し,県民意識の高揚をはかっている。また79年には,全市町村における啓発事業の促進をはかるため,〈市町村同和問題啓発事業補助制度〉を発足させ,事業費の一部を助成するとともに,市町村啓発担当職員を対象とした研修会などを実施し,96年(平成8)からは企業啓発の重要性に鑑み,企業・団体の啓発リーダーの養成講座や企業・団体への講師派遣事業の実施などの取り組みを行なっている。

 93-95年に実施した同和対策実態調査(第2次ODR)によると,生活環境の改善や産業基盤の整備などの物的事業は相当の成果をみており,同和地区と周辺地域との格差はほとんどなくなり,その目的はほぼ達成しているが,高等学校や大学への進学率にみられるような教育の問題,これと密接に関連する不安定就労の問題,産業面の問題など,格差がなお存在している分野がみられる。また差別意識の解消については,同和教育や啓発活動により一定の成果がみられるものの,結婚問題を中心に差別意識が根強く残るとともに,差別事象についてもいまだに生じており,これら残された問題の解決に向けた積極的な取り組みが今後の重要な課題となっている。

(清田昌助)

[教育]

 大分県同和教育研究協議会(大分県同教)の芽生えは1972年(昭和47)の部落解放同盟大分県連の再建に始まる。72年に結成された部落解放教育推進協議会(解放同盟地協・市教委・教組支部・校長会で構成,いずれも中津市)の教育要求は同和教育推進教員の配置であった。この運動が74年に3人の同和教育推進教員の配置を勝ち取り,第2回*九州地区同和教育夏期講座の開催へとつながった。これを契機に76年6月23日,6市1町1754人の会員で発足した県同教は,約20年を経た99(平成11)年度末現在、1万5015人(県同研9375人,高同研4285人,社同研1355人)を擁する研究団体へと発展した。また88年には第40回全国同和教育研究大会を開催し,教育内容の深化と広がりが進んだ。しかし,県内の学校現場を中心に差別事件が相次いで表面化した。その課題を克服する取り組みの1つとして,96年に県内の教材や実践を編集した部落解放学習実践資料集『きりひらく-熱と光を-』小・中・高校各編を発刊。つづいて,人権作文集『ひかり』(1-20集)に掲載された児童生徒の作文を6つの視点で編集した人権読本『わたし 語らい 響き合い』小学校低学年・高学年・中学校・高校用を97年から99年にかけて刊行。主な事業は,99年度末現在,県同教研究大会(23回),社同研研究大会(12回),部落解放学習実践交流会(公開授業研究,12回),課題別研究会(7課題・19回),部落解放大分県高校生・中学生集会(解放同盟と共催,21回)などの開催。県同教ニュース『大分の「同和」教育』(23集),人権作文集『ひかり』(23集)『「同和」教育実践記録集』(22集)などの刊行である。

 県教育委員会は,77年に同和教育担当専任職員を配置し,6月大分県同和教育基本方針を策定。79年には同和教育室を設置。97年に『学校同和教育指導資料』(郷土史料)を刊行。98年4月〈人権教育のための国連10年〉大分県行動計画を策定し,同和教育室内に人権教育推進班を設置した。

(江口孝臣)

参考文献

  • 豊田寛三「大分県の近世被差別部落史覚書」(『おおいた部落解放史』創刊号,1983)
  • 同「府内浜の市と被差別民衆」(同前10号,1991)
  • 久米忠臣「八幡奈多宮社人・太郎左衛門」(同前17号,1997)
  • 『大分県同教結成20年記念誌 歩みをたばねて』(1997)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:51 (1417d)