長崎県【ながさきけん】

[現状]

 1999年(平成11)現在、同和対策事業対象地区は長崎市1地区,佐世保市2地区。しかし県内全域に少数部落が点在している。1935年(昭和10)内務省の調査によると,62地区,3189人が数えられたが,〈同対審答申〉直前の64年調査では,7地区,349人と激減している。また,72年調査では〈0〉報告が行なわれ,〈差別なし部落なし〉とされた。76年,結婚差別事件を機に県が窓口を設け,今日まで部落の環境改善・雇用・生活安定にかかわる事業,啓発等が行なわれている。96年(平成8),同和問題に関する意識調査(長崎県)が行なわれ,部落問題の解決に向けた課題が明らかにされた。〈指定〉〈未指定〉を問わず,結婚差別や差別落書き,差別発言が繰り返され,部落問題の認知率は約半数と,全国に比べ20ポイントの開きがある。未指定地区の問題を含めて,部落問題がいまだ全県的な取り組みとなっていない。県は,97年度中に〈人権教育のための国連10年〉推進本部の設置,99年5月〈行動計画〉を策定した。

(山口 渉)

[前近代]

 現在の長崎県は江戸時代、主に幕府の直轄領であった長崎,島原・大村・平戸・五島・対馬の5藩,佐賀藩諌早領の諸国に分かれていた。中世期には今のところ,関連資料が認められておらず,部落の形成については,それぞれ諸藩・所領の政策や事情と関連して展開される。ここでは,長崎・島原・諌早・対馬に絞って,形成をみていく。

 幕府長崎は,貿易港として元亀1年(1570)以降,町形成が行なわれる。6カ町・内町・外町と町域は拡張し,外町には,毛皮屋町(後に新橋町)・皮田(皮屋)町がみえる。長崎には,鎖国以後鹿皮・牛皮などの皮革類が大量に輸入されている。『長崎の唐人貿易』(山脇悌二郎,1964)では輸入皮を,〈す(素)皮で輸入された牛の皮も少なくない。これは中間品であって,丹殻(紅樹皮ともいう)でなめしていたらしく,長崎と大坂のかわたは,これを専業にしていたものであった〉と説明し,寛永18年(1641)唐船97艘が輸入した皮革は5万2950枚(鹿皮4万1550枚)であることを明らかにしている。一方,慶長1年(1596)の26聖人殉教以降開始されるキリシタン禁令【きりしたんきんれい】政策は,皮屋町(住民)に行刑役としての任務を強制していく。これについて宣教師の書簡は,〈平蔵(長崎代官末次平蔵)は皮屋町の者に殉教者を留置しておくよう下命しましたが,町の者たちはその命令に従いたくない旨答えました。このように彼らが答えたのは,今回が初めてではありません…〉と伝えている(結城了悟「ホアン・バブティシタ・デ・バエザ神父の二書簡について」『キリシタン研究』第10輯、1965)。

 島原藩では,安永6年(1777)の史料に〈村々,胡乱者徘徊につき,A・B両所のえたども村々心がけ相廻し,胡乱者差し押さえ候様。もっとも御旧領の節,右えた仰せつけられる徒者相来たり候〉(A・Bは地名、「村方號令纂集便覧」『長崎県史』史料編所収、1964)とあり,えたの役割と由来が記されている。ここで御旧領とは,寛文9年(1669)丹波福知山からの松平忠房入部を指し,このとき徒者(えた)が来たというのである。同年の〈覚〉には,4カ村の部落に胡【う】乱【ろん】者【もの】探索の役目が与えられ,その報酬として村々から合力銀が徴収できるとされている。このとき他の3カ村には,牛馬皮の取り扱いが許されている。佐賀藩諌早領では,〈郡【こおり】崩【くずれ】〉(明暦3,1657)と呼ばれるキリシタン発覚事件の際に,牢屋がつくられその番を務めたとされる。

 対馬藩では,皮革業が国益増進策として採用され,寛政1年(1789)筑前から〈屠者〉が呼び寄せられる。死牛馬の提供を百姓が拒んだことから一度は帰されるが,文化10年(1813)履物(雪駄)業の振興という目的を持って再び招かれる。その際,雪駄の皮は〈朝鮮出,且つ田舎にて斃れ牛馬の皮売り渡し候て〉(『毎日記』,1813)とあり,朝鮮皮が輸入されていたことがわかる。対馬では,それまでえたの存在はなく,典型的な差別政策が展開される。

〈えたの儀他国においては門内並びに敷居内にも一切入らせず,通用の言葉も至って下賤に申すことに候〉(同前)であるから,藩内でもその旨を徹底すること,皮収集のため〈田舎廻り〉のとき目印としてあみ笠に赤木綿を付けたものをかぶらせる等々の〈触〉が出される。

 以上が部落の形成に関する諸藩の動向である。他藩とも共通することは,皮革業と警察的役務に関係する点である。17世紀後半以降,〈穢多〉という呼称が定式化され,居住地の制限,キリシタン禁教による宗門人別制によって身分制度に組み込まれていく。

(阿南重幸)

[近代]

 江戸時代,県内全域にわたって形成された部落は,賤称廃止令を経ることによって,またさまざまな歩みをみせる。平戸藩領であった壱岐では,斃牛を扱えばえたに復籍されるとの噂が流れたことに対し,県はこれを否定し,廃止令は天地造物の真意に基づくもので,牛馬の皮を扱うことは,農夫の田畑を耕し漁夫の漁【ぎよ】鼇【ごう】を得,士商各々その業を営むことと何ら違いはないのだと戒める(「明治6年庶務課庶務掛事務簿」)。大村藩領だったある部落は,開拓農家となる。島原では,と場を開く鑑札を願い出る。こうして〈平民〉への編籍は,部落住民のエネルギッシュな行動として現れる。長崎では,*部落改善運動に着手する。1875年(明治8)の『長崎新聞』(後の『鎮西日報』)は,〈中馬込は新平民にてわずか160戸の小郷なれども,方今文学普及のご趣意を奉体し,昨7年建校以来生徒日に加増し…〉と伝え,県内各小学校が中馬込に恥とならないよう,鼓舞される。

 ちなみに、このとき寄せられた基金は4000円とされる(「学校監視表」明治10年学務課教育掛事務簿)。また,学校設立伺には2人の助訓履歴として,それぞれ幕末7カ年習字・漢籍・算術稽古を修めたことが記されている。両者とも皮屋町住民である。1922年(大正11)内務省社会局から出された*『部落改善の概況』には,1895-96年にかけて,部落の先駆者岩見常二郎・梅本仁四郎・高松恒作らが改善の烽火を挙げ,青年団を中心に真宗青年教会(東本願寺)を組織し,道路改良や会館建設に着手したことが伝えられる。これには,文庫部、運動部,職業紹介のために人事部が置かれた。また,製靴業で渡航していた上海・ウラジオストックにも支部があった。一方,行政は1903年(明治36)、県内の部落調査を行ない,〈戸数695戸,人口3990人,その人情風俗は野卑軽薄の風あるは他の種族と大差なし…」(『東洋日の出新聞』1907)と伝える。21年、長崎県は〈細民部落改善方法〉として,出稼ぎおよび移住の奨励,世間より嫌忌される業態を撤廃すること,部落改善の機運を進め部落民の自覚を促すため表彰を行なう,などを発表している。部落の下水改良・共同浴場の建設などが県議会で審議され,公会堂建設や育英奨励も行なわれた。36年(昭和11)政府の〈*融和事業完成十カ年計画〉のもとに長崎県誠心会【ながさきけんせいしんかい】が組織され,『長崎県社会事業』という機関誌が出された。これは水平運動と拮抗した融和団体である。

(阿南重幸)

[解放運動]

 1903年(明治36)『鎮西日報』は,〈道徳説話〉で長崎市内の部落住民が,同業他社である長崎新報に押し寄せた記事を掲載している。5,6年前のこととされるこの事件は,当地を〈穢多町〉と書いたことに抗議したものである。総勢150人とあり,おそらく全町挙げての抗議行動であろう。ちょうど前項の改善運動が始まったころであり,差別に対する糾弾闘争はすでにこのころから取り組まれている。長崎県水平社【ながさきけんすいへいしゃ】は,28年(昭和3)長崎市浦上町において組織された。*福岡連隊事件の控訴審が長崎高裁で審議され,部落はこの波及を受け,前記〈改善運動派〉と袂を分かち,青年団を中心に66人で結成されたのである。結成前には,荊冠旗を押し立て第2回メーデーに参加したことも伝えられる(『長崎労働組合運動史物語』,1972)。32年〈福連事件犠牲者歓迎紀念 全国水平社長崎支部〉と記された写真が残され,*松本治一郎と長崎水平社の面々が写されている。なお,この集会の模様は『思想研究資料』31集(1932)に〈一般聴衆水平社員及びその家族300名〉と記される。

 戦後、原爆の惨禍を受けた長崎の部落は,町名が変更され,解体されたかにみえたが,差別がなくなったわけではなかった。71年,長崎市は〈開港400年記念事業〉を行なったが,このとき出版された『長崎図録』に差別古地図【こちず】が掲載された。この事件を契機に,磯本恒信・梅本光男・長門隆明らが解放運動の再建に着手。73年部落解放同盟長崎県連(準)を旗揚げ。86年長崎・佐世保・島原・平戸に5支部を得て,解放同盟長崎県連が発足。

(阿南重幸)

[行政]

 長崎県(1985.4),長崎市(1978.4),佐世保市(1979.4)が,同和対策室を設置,他市町村では企画(調整)課や,社会教育課が窓口となっている。長崎県は,1976年(昭和51)企画課に同和対策担当を配置,加えて県同対協を設置した。78年,同和教育・同和対策基本方針を策定。同年,県社会教育課に同和教育推進係が設置された。翌79年,長崎県同和対策長期計画が策定され,長崎市1地区,佐世保市2地区の指定地域を対象に同和対策事業が進められた。93年(平成5),県内で初めての〈人権と同和問題についての意識調査〉(報告書1996.3)が行なわれた。なお,99年,県教育庁生涯学習課に同和教育室が設置され,『同和教育を進めるために』を32集まで刊行している。

(山口 渉)

[教育]

 1974年(昭和49)11月20日,長崎県同和教育研究協議会を結成。翌年,長崎と佐世保で地区同教が生まれ,今日までに県内すべての9地区および高校で組織化され,現在会員は3500人。同和教育推進教員は4人,他に準同推教員(非常勤配置)が20人。年1回の研究大会・同和教育講座を開催している。被爆県であるがゆえ,同和教育と平和教育の接点を模索,進路保障の取り組み,地域や学校での差別事件を教育課題として追求してきた。96年(平成8),全同教大会を長崎で開催,部落問題学習への取り組み,同和教育を据えた人権教育の新たな展開を追求している。

 『戦争は最大の差別である』『平和&人権』『足跡【あしあと】』『ナガサキを問いつつあしたへ』『時間を歩く』などの刊行物がある。

(山口 渉)

参考文献

  • 長崎県部落史研究所編『論集長崎の部落史』(1992)
  • 『論集長崎の部落史と部落問題』(1998)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:51 (1411d)