長野県【ながのけん】

[現状]

 県内の同和地区は,1975年(昭和50)調査によると県内120市町村のうち61市町村、270地区に点在し,5518世帯,2万2392人である(ただし,これには実態把握困難な南信地域など,きわめて少数な地域は含まれていない)。93年(平成5)総務庁〈同和地区実態把握等調査〉(長野県分)では,報告市町村59(実際に同和地区はあるが〈調査できなかった〉との理由で報告されなかった所がある),254地区で,4596世帯,1万5849人となっている。地区規模別では60世帯以上は全体の5.5%,5世帯未満が23.6%,9世帯以下が約半数で,混住率は7.4%と全国平均に比べてかなり低く,典型的な少数点在型部落である。環境面では同和対策事業により整備が進められてきたが,今日的状況からみたとき老朽化等の問題や,少数点在と立地条件の劣悪さから〈法〉の適用から漏れ,総合的な改善がなされていない地区や,事業未実施,未指定地区も多く存在している。

 部落の住宅事情は〈持ち家〉率が88.8%と高いが,建築時期は1970年代に集中しており,その5割は耐用年数が切れようとしている。なお,下水道普及率は市町村普及率の2分の1となっている。産業は,部落産業的なものはほとんどみられず,36.4%(75年調査では48.7%)が農業を営んでいる。農業経営の状況では,第2種兼業の占める割合が高い(69.6%)。また,同和対策事業の近代化施設導入によって19.8%と専業率(75年調査:6.8%,90年調査:14.4%)が高くなってきたが,近代化施設平均面積は県平均と比べ,2分の1となっている。1戸あたりの経営土地面積(自作+借地)は30a未満が54%で,全体と比べ,依然として零細である。売上高でも,〈販売無し〉が42.7%(全国19.3%)で,〈50万円未満〉を含めると7割を占めている。就労状況をみると常雇率は就業構造基本調査(全国:1992年)の65.0%に対し,部落は56.8%と常雇率が低く,臨時雇い・日雇いは10.9%とやや高い。企業規模は,10人未満が42.2%,100人未満が8割を占め,同調査と比べ,15ポイント高い。また年収では,300万円未満は同調査47.8%に対し,部落は63.2%,100万円未満は23.2%になっている。逆に700万円以上は同調査7.1%に対し部落は2.9%でしかない。年収平均では,県平均と比べ約100万円の差がある。有業者の産業分類別の就労状況では建設業が約2割を占め,事業経営を行なっている24.6%の世帯のうち建設業は45.5%と高く、本県の特徴を示している。ところが建設業の76.8%が個人経営で,従業者1人から4人までの事業所が72.8%を占めている。

 一方、生活保護世帯は県内平均2.4%に対し,部落は5.1%と2倍強となっている。教育についても格差はかなり大きく,97年の高校進学率は県全体の97.4%に対し部落は94.1%,大学については県全体の37.4%に対し部落は15.9%で,依然格差は縮まっていない。

[前近代]

 近世以前についてはほとんど明らかになっていない。ただ,善光寺や諏訪社などの門前に〈非人〉が居住していたものと推測されている。また中世の城や市場とのつながりが想定されている集落もある。近世初頭には,松本・松代・上田藩などが〈かわた〉〈かわや〉を城下町へ移住させ,頭【かしら】を通じて統制している。一方,宿場や口【くち】留【どめ】,番所など交通の要衝に移住させられたり,代官所の設置に伴って移住させられた者もある。このほか,中後期に村から招請されて,主として村の警備役として移住した事例も相当数ある。領主から命じられて皮革製品を上納したり,城の掃除,犯罪人の捜査,処刑,牢番などに従事することもあったが,もっとも日常的な役目は村や町の警備役だった。その警備担当区域を*旦那場と呼び(そこで死牛馬が生じたときには,その処理も行なった),旦那場から一把稲をはじめとする反対給付を受け取った。こうした役目のほかに,農業や草履作りなどの細工業,医薬業,芸能などに従事して生計を支えた。なかには*渡守や堤防の見張り役などに従事した者もいる。当初は〈かわた〉〈かわや〉,あるいは〈ちょうり〉などと呼ばれたが,1650-1700年頃から徐々に〈えた〉と呼ばれるようになった。そのころから五人組帳や*宗門改帳が別帳にされたり,取締令が出されるなど,次第に差別が強化されていった(それにつれて,*差別戒名も多数みられるようになる)。しかし,後期にはそうした差別に反対する闘いも各地で取り組まれた。

[融和政策・運動]

 1903年(明治36)の〈*大日本同胞融和会〉発足を受けて,本県でも1907年に北佐久郡北大井村(現小諸市)の〈青年同志会〉を最初に,その後県の指導により〈矯風報徳社〉,南佐久郡に〈大正会〉等が結成された。これらはいずれも,言葉遣いを改める、博奕をなくし,喧嘩や暴力をやめ、風紀をよくするなどの取り組みに終始した。一方行政の改善施策は部落の分散,住居,衛生,交際,警察の取り締まり等,環境改善や恩恵的・治安対策的施策であった。18年(大正7)の*米騒動には本県においても部落大衆の参加がみられ,市民大会や米の安売り要求によって,大衆運動の力を初めて知った部落大衆は,これをきっかけに,自分たちの力で解放をかちとらなくてはならないという自覚を持ち始めた。これに対処するため,20年10月,信濃同仁会【しなのどうじんかい】が上田市で発会式を行ない本県最大の融和団体として発足。本部を置く上田市を中心に,小県から北信地方に組織化が進んだ。構成員は社会階層からみると部落の上層,地域の有力者等が目立つ。その後,長野県水平社の創立とともに,水平社運動と対立しながら,吹き荒れた戦時色のなか,県の融和事業十カ年計画遂行の名により37年(昭和12)4月長野県同仁会【ながのけんどうじんかい】と改称し(本部・県庁社会課),41年同和奉公会長野県本部となり実質的な運動を停止した。

[水平社運動]

 1922年(大正11)の全国水平社創立は,部落大衆に大きな波紋を巻き起こした。創立大会には,県内でもっとも早くから自覚的な解放運動が起こった埴科郡雨宮村(現更埴市)の*小山薫が参加したが,第2回大会には小山,*朝倉重吉(小諸)ら20人以上の参加をみた。長野県水平社【ながのけんすいへいしゃ】はこうした動きのなかで24年4月23日,小諸町で創立大会を開催。関東水平社から*村岡静五郎,*平野小剣,竹内喜春,辻本晴一,中央から*米田富らの応援を受けた。南・北佐久郡,小県郡をはじめとして県内各地に次々と水平社が組織され差別糾弾闘争を展開。同時に農民運動,労働運動との連携もみられるようになる。26年秋には県水平社本部も設置され,闘いの拠点となった。同年には*臼田警察署差別糾弾闘争を,警察権力を相手に20日間闘いぬいた。これは県水平社の実力をみせつけるとともに,差別をする者はたとえ警察といえども絶対に許さないとする姿勢を鮮明に打ち出した闘いであった。

 本県の差別糾弾闘争で特徴的なものは,山林の入会権をめぐる闘争である。28年(昭和3)には小県郡西塩田東前山(現上田市)で,30年には南佐久郡平賀村瀬戸(現佐久市)で起きているが,いずれも部落側が勝利している。とくに*高橋市次郎が指導した瀬戸区有林闘争【せとくゆうりんとうそう】は県内最大の闘争であった。31年南佐久郡岸野村沓沢で起きた*沓沢区有林入会権差別糾弾闘争は,区側代表との交渉の際に暴力をふるったとして9人の幹部が検挙され,裁判の結果5人が懲役刑という不当判決を受け投獄された。幹部指導者を奪われた県水平社の打撃は大きく,満州事変以降社会運動全体に対する弾圧が強まったこともあり,運動は徐々に衰退していった。

[戦後の解放運動]

 戦争によって中断させられていた解放運動の再建をめざした部落解放全国委員会の結成(1946)を受けて,翌1947年(昭和22),解放委長野県連結成準備会を上田市で開催。ちょうどこのころ大きな差別事件が相次いで起きた。1つは小県郡祢津村で起きた村祭りと入会権からの排除事件,もう1つは同郡和田村で起きた結婚差別による心中未遂事件である。戦後の民主化のなかでも差別事件がなくならないことに憤激した部落大衆のたちあがりのなかから,解放委長野県連が結成された。48年5月2日長野市の本派本願寺別院で開催された創立大会には県内各地から338人の代表が参加。平均年齢33歳,16歳の少年も参加した。初代委員長に朝倉重吉を選出。戦前の水平社,信濃同仁会の幹部の大同団結がはかられた。創立された長野県連は翌49年松本治一郎不当追放取り消し要求闘争と資金カンパ活動に組織をあげて取り組み,連帯の力を示した。闘争カンパは8万9000余円,署名は3万5000人に達した。そうした闘いの積み上げを基礎に,県連では53年5月に機関紙『解放情報』の発行を始めた。県内では依然として差別事件が多発し,51年には県・県教委が初めての啓発資料『開けゆく日本』を発行し差別の不当性を訴えた。59,60年には部落差別による自殺事件が相次いで起きた。郷里を遠く離れ,愛媛県新居浜の青年と結婚した南沢恵美子は身元調査を行なわれ,婚家の差別と迫害に耐えきれず遺書を残し自殺した(*南沢恵美子結婚差別事件)。こうした差別の壁を打ち破るために県連は,58年から〈高校生の集い〉を開催し現在に受け継がれている。64年からは県連独自で部落解放研究集会を開催し,行政に対して具体的な提言を行なってきた(1996年に実行委員会へ引き継いだ)。また,本県での*国策樹立請願運動の1つのピークは61年であった。県内各部落をまわり請願行動への参加を訴えた。県・県議会への請願は,同時に全国的な運動の一環でもあり,請願行動東日本隊の出発地ともなった。68年には須坂市二睦で入会権差別事件が起き,県連では他の民主団体と県民共闘会議を結成し,4年を費やす長い闘いを続けて勝利した(*二睦入会権差別糾弾闘争)。このころ,結婚や教育現場における差別事件が相次ぎ,一方狭山闘争の高揚の中で,70年から各地に解放子ども会が結成された(それまでにも自主的な子ども会活動があったが,1999年現在86の解放子ども会がある)。

 島崎藤村の小説*「破戒」は,県内の部落で取材して書かれたものであり,県内の解放運動はつねに全国的な問題として取り上げられた。48年*信濃毎日新聞は社説で「部落解放を忘れるな」を取り上げた。マスコミの取り組みとしては,全国的にみてもかなり早いことが注目される。56年には朝日新聞が長野版で,「生きている差別」のキャンペーンを行なったほか,74年には『ルポ 現代の被差別部落』を出版した。また,作家・*柴田道子は部落に入り,71年『被差別部落の伝承と生活――信州の部落・古老聞き書き』を発刊した。77年には臼井吉見の小説*「事故のてんまつ」が発表され,部落を〈観光コース〉に入れたチラシが出されるという悪質な差別事件が起きた。こうしたなかで,県内でも*〈部落地名総鑑〉事件をはじめ,続発する差別事件に対する差別糾弾闘争,市町村への県内行動(行政交渉,支部オルグ等)に加えて,全国に先駆けて〈県差別戒名調査委員会〉を設置し,*差別戒名(法名)の調査などを行なった。一方,76年には部落解放県民共闘会議結成,80年信州農村開発史研究所設立,82年県解放教育研究会結成,85年基本法制定県実行委員会結成,88年世界人権宣言長野県実行委員会結成等の運動を展開。さらに,部落の文化遺産調査,部落史調査委員会による活動など,文化・歴史の調査、研究活動にも取り組んでいる。

[教育]

 1872年(明治5)政府は*学制を発布したが,部落の子どもたちは差別・貧困により,ほとんど学校へ行けなかった。また,村役人が部落の子どもを学校へ出さないよう説得して歩いた村もあった。1878年上水内郡のある部落の代表は,長野県権令(県知事)に〈就学嘆願書〉を提出するという行動を起こした。しかし,就学が実現したのは86年のことであり,しかも部落の子どもだけ別の学校に入学することになった。こうして部落児童が公教育から締め出されていたなかで,北佐久郡のある部落では,苦しい生活のなか80年に〈惟【い】善【ぜん】学校〉(旧えた頭が自宅を開放した)という独自の学校を設置した。一方,部落の児童が本校から排除され,部落のなかの分教場にいるという差別に対し,それを撤廃させるなどの実践をした教員・*保科五無斉(百助),伴野文太郎,*赤羽王郎らの残した業績は大きく評価されている。

 戦後の1950年(昭和25)4月に起きた森小学校給食差別事件【もりしょうがっこうきゅうしょくさべつじけん】が契機となり,同和教育の取り組みが始まった。翌51年,県教委は啓発資料『開けゆく日本』を発行。53年相次いで起きた学校内の差別事件をきっかけに,長野県同和教育連絡会議(のちに信濃教育会など関係団体が加わって現在の長野県同和教育推進協議会となる)が発足し,教育・行政・運動体が一体となって同和教育を推進する体制が生まれた。56年に高校生に対する奨学金制度を県単独事業で創設。次いで同和教育青年学級を県内2地区に指定。58年には部落解放モデル地区指定,研究指定校制度を創設し,地域ぐるみの同和教育を実践した。しかし,このころ結婚差別等によって若者が自殺する痛ましい事件が相次いで起きたことから,差別をはねのけ,たくましく生きぬくことを願っての〈出身指導〉が実践された。70年〈同和教育の基本方針〉(1974年補完)を県教委が策定し、また同年には解放子ども会も創設。4年後には同和教育推進教員が配置され,以後その拡大がはかられてきた。

[戦後の行政]

 1947年(昭和22),社会党の林虎雄が知事に当選した。林は戦前から朝倉重吉たちとともに農民運動,労働運動に尽力し,水平運動にも連帯して闘ってきた。このことが,戦後の解放運動に有利に働き,積極的な施策が展開された。部落解放全国委員会長野県連準備会の働きかけにより,林知事は当選直後に長野県振興委員会を設置し,ただちに部落問題特別委員会を発足。県として方策を諮問し,翌48年には〈部落問題対策の答申〉が出された。このなかで〈部落の解放なくして日本社会の民主化なく,日本社会の民主化なくして部落の解放はない〉との基本認識のもと,〈経済生活の安定〉,青年層による解放運動の活性化等を提起。これを受け,部落問題特別委員会規程で長野県部落解放委員会(会長・林知事)に発展。52年には知事の諮問機関として部落解放審議会が条例で設置され,実質的な解放行政が始められた。行政機構は,当初民生部厚生課が担当したが,71年には社会部厚生課内に同和対策室を新設。さらに73年に同和対策課として独立し,現在に至っている。この間,50年の農業用機械器具無償貸付制度をはじめとして,部落解放更生資金貸付,部落環境改善補助,地方改善地域における生徒に対する奨学金交付(1967年廃止後,教育委員会に移管)等の諸制度が創設された。69年の*同和対策事業特別措置法制定後は,各市町村においても行政機構等の整備をはかり,とくに〈同対法〉期限の後半ごろから対策事業が積極的に推進されてきた。96年,県は〈長野県人権教育のための国連10年推進本部〉を設置し,98年行動計画がだされた。

参考文献

  • 塚田正朋『近世部落史の研究――信州の具体像』(部落問題研究所,1986)
  • 尾崎行也『信州被差別部落の史的研究』(柏書房,1982)
(土屋宗四郎、高橋典男)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:51 (1469d)