鳥取県【とっとりけん】

[現状]

 1993年(平成5)現在,県内の39市町村中,32の市町村に107の部落が存在し,その人口は2万3562人である。全県は61万人ほどの人口で,部落人口は少ない数字ではない。また,県の面積に比較して部落数は多く,県内各地に散在している。隣県の島根は10戸に満たない部落が圧倒的に多いのに対して,同じ山陰地方でも県内の部落は30戸前後のものがほとんどである。このうち100戸を超える地区が13ある。職業は,戦前は小作農が多く,そのかたわらで藁細工を行ない,俵・草履などを編んでいた。藁細工は1960年(昭和35)頃までにはほとんど姿を消した。また日雇い仕事も多かった。農地解放によって多少の農地を得たが,農業で自立できるほどの規模ではなかった。そのため,河原を開墾して田んぼや畑にしている部落もみられた。その後も戦前と変わらずほとんどの人が日雇いの土木建設作業員として現金収入を得ており,不安定な生活実態であるから生活保護受給率も高く,労働内容の質も量もきついために寿命が短かった。山崩れや地すべりの起こりそうな部落があり,台風や梅雨どきには毎年被害をうけている所が少なくなく,川の遊水地になっているような部落もあった。このように劣悪な地区の環境も,同対法制定以後,*小集落地区改良事業をはじめ道路の整備・水路の改良,住宅の整備,危険な山すそにおける急傾斜工事などの推進によって県内ほとんどの地区で環境改善が行なわれた。あわせて農業基盤整備事業の取り組みですべての田地が整備された。

 93年同和地区実態把握等調査によれば,同和地区農家の経営土地面積は,30a未満が一番多く35.9%,次いで30-49aが25.3%で,50a未満が61.2%と大半を占める。また,就労の状況では,有業者を産業分類別にみると,建設業が31.4%ともっとも多く,次いで製造業の20.3%,サービス業の11.4%の順となっている。就労形態別の特徴をみると,1.臨時雇い,日雇いの比率が全国水準より高いこと,2.自営業主(雇人なし)が全国および中国地方の同和地区より低いこと,3.会社団体などの役員が少ないことなどがある。さらに収入の面をみると1年間の収入または収益(税込み)が〈収入なし及び50万円未満〉が5.8%,〈50-99万円〉が6.7%,〈100-149万円〉が16.2%,〈150-199万円〉が15.3%など〈200万円未満〉の合計は44.0%を占めており,〈500万円以上〉は5.7%にとどまっている。また,生活保護率も鳥取県全体の6.7‰に対し,同和地区では14.7‰である。

[前近代]

 県内の部落はなんらかのかたちで千【せん】代【だい】川【がわ】と関連があり,これは部落形成史上でも重要な意味をもっていると思われる。近世鳥取藩内には〈穢多頭孫次郎〉がおり,その下に各村の頭,頭廻し,小頭がいた。孫次郎は公務のとき脇差をさすことが許されていた。穢多の職掌は広く,公役としての皮革(武具・馬具)製造,馬綱の取立,死牛馬処理,刑場での処刑および死体のとり片づけ,さらし首などであった。鳥取県の大きな特徴といえるものに*鉢屋【はちや】がある。鉢屋は竹細工を業としたところから*茶筅とか*ササラとも呼ばれた。鉢屋は*時宗の流れを汲む放浪の念仏僧として,念仏を唱えて諸国を放浪し,*鉢たたきとも呼ばれた。藩内の鉢屋は犯罪者の取り締まりにあたり,牢屋をもっていた。牢のあるところでは牢番として,牢のない所では自分の家に罪人を一時預かりした。非人も下級警察機能を司っていた。鉢屋は世襲制であった。東伯町別宮の転法輪寺が鉢屋の信仰の拠点であり,出雲富田城を尼子氏が奪回したとき鉢屋が大きな役割を果たした。県内には近世以前の城下町に皮多が居住していたことが確認されている。尼子,毛利,豊臣秀吉らの戦国大名との関連のなかで部落形成史も考察される必要がある。

[融和運動]

 融和団体〈鳥取県一心会【とっとりけんいっしんかい】〉は1923年(大正12)10月30日に設立された。会長は県知事,役員には県内務部長,警察部長らが就任した。これより先,17年9月,県は訓令33号で地方改善の方針を指示した。23年2月には社会事業補助奨励規程も施行され,部落改善や感化教育の事業についても補助金を出すようになった。県が取り組んだ融和運動の1つの特徴として裁縫作法講習会があるが,これは県内各地でくまなく開かれた。戦時下には満州移住奨励事業なども行なったほか,各市町村融和団体も組織された。県融和教育会は35年(昭和10)10月に創立され,毎年研究発表・講演会を開いた。39年には『児童融和の教育』が発刊された。

[解放運動]

 戦前の水平社運動は大きな盛り上がりを迎えることなく終始した。1923年(大正12)東京府豊多摩郡代々幡村出身の木村隆義【きむらたかよし】(当時21歳)が同年7月12日,八頭郡智頭町本折を中心に県水平社本部を組織した。この時は*南梅吉中央執行委員長を呼び,水平社講演会を開いた。24年5月26日,奈良県水平社執行委員の*駒井喜作が来県し,西伯郡庄内村で水平社宣伝講演会を開いた。28年(昭和3)5月には岩美郡浦富町で汽車の中で乗客が指4本を出して差別したのを岸本千代蔵【きしもとちよぞう】が発見,糾弾した。県内でこうした差別事件は頻発したが個人的に問題を解決してしまい,組織的な運動とはならなかった。

 47年2月,米子市役所において部落解放全国委員会鳥取県支部連合会が結成され,戦後の解放運動が再開された。大会では委員長に中本政治【なかもとまさはる】,書記長に松尾憲次郎【まつおけんじろう】を選出した。51年2月,はじめて県連大会を開き,同和予算3000万円獲得の件など5件を可決。52年鳥取市内智頭街道の民家を借り,県連事務所を置いた。この間,組織拡大には松尾書記長が身銭をきって奔走。50年には〈エッタの酒がのめるか〉と差別発言した八頭地方事務所長の糾弾(辞職させた),55年には差別記事を掲載した読売新聞を糾弾した。戦後の県内の解放運動にとって忘れられないものに*山林解放闘争がある。52年八頭郡佐治村と船岡町で始まり,要求を100パーセント認めさせた。翌年には気高郡青谷町,54年には岩美郡国府町,日野郡江府町,鳥取市吉岡でも闘いが開始された。とくに54年に始められた3つの闘いは数年間続けられ,江府町,鳥取市の闘いは同盟休校にまで発展し最終的には要求を認めさせて解決した。60年代には同和会県連が結成されたが解放同盟はこれを克服,同和会県連と組織統一を実現した。72年には八頭郡河原町で町会議員の差別事件,県内大手企業である日の丸自動車の差別事件【ひのまるじどうしゃさべつじけん】(発端は71年10月)の糾弾闘争を通して,県内の解放運動は大きく前進した。

 同対法制定以後は組織も量的に大きく発展した。72年部落内業者の強化育成と地区住民の生活向上・安定をめざして鳥取県部落解放企業連合会を結成。当初50余人だった会員も99年(平成11)現在では800人を超える会員が結集している。また73年,県内に8人の生活相談員と2人の職業相談員を配置。76年の*〈部落地名総鑑〉購入事件発覚によって,購入企業と差別事件を起こした企業に別の企業が参加して〈四社合同同和問題連絡会(四社懇)〉が発足。その後,90年2月に鳥取市同和問題企業連絡会,94年10月に倉吉市同和問題企業連絡会,さらに96年11月に米子市同和問題企業連絡会が結成されている。87年には,鳥取県部落解放研究所が設立され,調査・研究・啓発活動が始まる。90年代にはいって,県内の市町村と鳥取県行政に〈部落差別をはじめあらゆる差別の撤廃にむけた人権条例〉制定運動を展開し,すべての市町村と鳥取県(鳥取県人権尊重の社会づくり条例、1996.7公布)(資料編C-5)の人権条例の制定を実現する。また鳥取県同和対策総合計画が策定され,さらに改定も加えられて,同和行政の推進が鳥取県政の最重要課題の1つとして取り組まれている。

[行政]

 1947年(昭和22)に結成された解放委員会県連は,同年4月の県知事選に西尾愛治を社会党・日農とともに推薦し当選させた。49年には戦後初めて40万円の同和予算が組まれ,次年度からは毎年10-30万円ほど増額された。50年代の勤評・学テ反対闘争のなかから同和教育を実践せよという要求が出されたのを受けて,58年県に同和対策協議会が発足した。同年には鳥取県同和教育研究協議会,鳥取市同和教育研究協議会も発足。59年12月,八東町立中学校で毎日のように差別事件が起きていることがわかり,解放同盟八東町支部は17項目の差別行政反対の請願書を提出。同町では3カ年計画で当面の要求について完全実施すると約束。簡易水道の設置などを手がけた。62年には県教委主催の同和教育講習会・研修会も始まる。67年には県同和対策推進協議会が生まれ,全県的な連絡体制が整い,69年には県厚生部に同和対策課が設置された。

[教育]

 部落の子どもに長欠・不就学児,〈非行児〉が多い現実をなんとかしようと、53年,八頭郡同和教育研究会が結成された。戦後の鳥取県の同和教育実践のさきがけとなった同会は,同郡内の小・中・高校の校長が中心だった。のち全国同和教育研究協議会岡山大会をきっかけに58年には発展的に解消して鳥取県同和教育研究協議会(会長・岸本政秋)となった。同会は全県的に同和教育を推進していきたいという県教育委員会の意向をうけて,市町村単位の自主的同和教育推進団体と統合され,72年には鳥取県同和教育推進協議会【とっとりけんどうわきょういくすいしんきょうぎかい】となった。その間,教師は部落の子どもを学校に来させるため,各部落を回って学校に連れてくるという実践を行なった。 また〈土曜学習会〉なども開いて,子どもや親との結びつきを深めていった。そうした実践を踏まえて,64年,県同教は『同和教育の実践』第1集を刊行した。同和加配教員も70年から始まった。59年には鳥取市立倉田中学校が文部省指定の同和教育研究指定校となった。60年代には学校現場で,差別事件が相次いで起こり,部落出身生徒が集団暴行を受けたり,教師が差別発言を繰り返す事件が起きた。県内の同和教育は行政主導の面が強く,克服すべき課題も多い。

 93年総務庁調査の『同和地区生活実態調査報告書』によれば,教育機関卒業者の状況で〈小・中学校〉が53.4%,〈高等学校〉が40.1%,〈短期大学〉が2.8%,〈大学〉が2.2%,そして〈高等専門学校〉1.4%であり,高等教育機関の卒業率は6.4%となっている。これを年齢階層別にみると,年齢が高くなるほど〈義務教育〉卒業者が多くなり,〈45歳-49歳〉の56.4%,〈50-54歳〉の73.6%,〈55-59歳〉の88.3%という数値で、戦後の部落差別の厳しさを示した数値といえる。高等学校卒業者の進学率をみると,大学・短期大学の進学率は,73年度以降は県全体の水準の約2分の1で推移してきたが,近年は格差が縮小しつつある。しかし,それでも全国の同和地区の平均値を下回っている。

(中田幸雄)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:51 (1354d)