島根県【しまねけん】

[現状]

 総務庁〈同和地区実態把握等調査〉(1993)によると,同和地区指定数は県内59市町村のうち25市町村97地区である。1917年(大正6)調査では465地区が報告されており,相当数の未指定地区がある。*地域改善対策特別措置法(1982-87)時代に益田市から地区指定が要望されたが認められていない。90年(平成2)の島根県未指定地区調査でも14地区が報告されている。同和対策事業の実施状況は市町村によって大きな開きがある。4町村で地区指定をしながら物的施策が未実施,その一方で12市町村では地区指定はないが個人施策が実施されている。

 89年島根県同和地区実態調査によると,世帯数は1222世帯,人口は3617人と推計される。規模別では,19世帯以下の地区が57地区(75%)、50世帯以上の地区は4地区(5.3%)で,典型的な少数点在型の被差別部落が多いのが特徴である。そして,高齢化と若年労働者の減少が進み,障害者も重度の割合が高く,不安定就労の割合も県平均と比較してかなり高くなっている。世帯収入も低い世帯に偏っており,生活保護率は県平均の5.4倍である。 事業経営の状況は,農業では経営耕地面積が県平均の約2分の1。山林保有面積も大きな格差がある。自営業の経営状況は,土木建設業の割合が県平均の2倍以上となっており,就労者も土木建設業が多くなっている。差別事件は5年間で447件報告されている。同時に実施された県民意識調査では,青年層に問題解決に向けた積極的意見が少なく,啓発については実態面の改善に比べかなり遅れている。

(竹田寿典)

[前近代]

 広瀬町を拠点に,文明年間(1469-1487)に山陰を中心に中国地方を制覇した尼子氏の軍記物である『雲陽軍実記』(1580)では,尼子氏の富田城奪還(1486),復興に〈*鉢屋【はちや】〉集団が絶大な力を出したことがわかる。〈鉢屋〉の起源として,平将門,藤原純友の残党が空也上人に教化され警備・*茶筅(筌)製造・*勧進等を業とするようになったという空也伝承とともに,尼子氏との関係が詳しく述べられ,他の古文書『松阿弥文書』『蒲生文書』でもそのことがうかがわれる。また,堀尾氏の検地帳(慶長・元和年間)では〈御役目御免屋敷〉として〈鉢屋〉が記載されている。〈鉢屋〉は島根県,鳥取県にあたる伯耆・出雲・石見に分布する被差別身分で,別称として*〈長吏〉〈番太〉〈得妙〉〈茶筅(筌)〉等がある。

 江戸時代,島根県は出雲国が松江藩・母里藩・広瀬藩、隠岐国が天領(松江藩預かり地),石見国が天領・浜田藩・津和野藩に分かれており,それぞれに異なった呼び名の賤民身分を設けている。江戸時代、死牛馬の処理は〈皮太〉の特権とされていたが,松江藩では〈皮太〉から〈皮太役〉として運上銀を軒別いくらと取り立てていた。〈鉢屋〉は松江藩,浜田藩,天領いずれにおいても警固役として領内の交通の要所に配置し治安維持にあたらせている。

 江戸後期,松江藩では天明2年(1782)に法令を出し茶筅髪の強制をしている。ここでは,〈馬喰商い〉をすることが不作法とされ,〈座敷へ上がり,百姓と酒を取扱いたし候〉ことが不届きのこととされており,また,文化3年(1806)の覚書でも差別に抗して*脱賤化する者が現れていることを示している。嘉永1年(1848)浜田藩の*穢寺の門徒惣代の文書では,〈寺務相続〉をするにあたって,本山に直接本山との関係を求めるという形で穢寺からの脱却を求めている。この闘いは,3年間にわたって続けられたが,渡辺村(摂津役人村)からの指示によって取り下げられた。嘉永7年の〈脱賤事件〉では,石見国の〈茶筌市蔵〉は,妹とともに,現在の山口県萩市へ移り住み身分を隠して平人同様に御普請場で働いていたため追放され,妹も百姓の妻となったことが露見して追放されている。 天保11年(1840)〈久木八幡宮頭代社参殿【しま】り合【あい】証拠連判状〉では,〈鉢屋〉が笊器製造のような竹細工にかかわっていたこと,また警固の役目についていたことがわかる。明治3年(1870)母里藩刑罰では,平人の身分から〈鉢屋〉身分に落とされる刑罰として〈非人手下〉が制定されている。また,流刑として〈穢多村追放〉という,身分の永久降格が定められている。明治2年から4年にかけての松江藩の上申書「藩政一覧」では,〈鉢屋穢多〉966戸4395人,〈鉢屋非人〉152戸,〈非人〉292人。この場合〈鉢屋穢多〉は〈皮太〉,〈鉢屋非人〉は〈鉢屋〉と考えられる。同じ年代の『歴史付録』では,江戸時代においては,〈鉢屋〉が死刑を執行したり,番所の任務や牢番,そして借金の取り立て〈鉢屋催促〉に携わっていたことがわかる。生業は竹細工・草履作り・勧進などであった。

 母里藩では,従来から盗賊の逮捕,囚人の警固は〈鉢屋〉の役目であったが,明治2年に捕亡5人を置いて〈鉢屋〉をその手下として巡視させている。広瀬藩も維新後に*邏卒【らそつ】・番人に従事したものは〈鉢屋〉がほとんどで,これは松江藩でも同様である。島根県では明治5年に邏卒を廃し,改めて捕亡吏ならびに捕亡吏手付が置かれた(『島根県警察史』)。手付は,〈手付ハ一切旧鉢屋ヲ用フ,其慣手ヲ取ル也〉とされている(『島根県歴史・政治部』)。明治4年に制定された〈島根県徒刑場規則〉では,差別の厳しさが留置場まで及んでいたことが明らかである。また,「明治職官沿革表」では,〈番人〉という呼称に対して差別的拒否反応があったことがわかる。

(竹田寿典)

[近代]

 明治4年(1871)に公布された*〈解放令〉は,松江県では翌年になって回達した。広瀬県では添え書きを付して差別を放置している。また,同年5月浜田県鹿足郡において,〈解放令〉による〈人心紛擾ノ勢ヒ有リシ〉ことが新聞報道されている。これに対し,1877年(明治10)7月4日付『浜田新聞』では,浜田の部落で〈湯屋〉や〈煮売屋〉等での差別に対して徴兵拒否したことが掲載されている。

 93年頃から,出雲地方の部落では製弦業が導入され経済的基盤を支えた。これを基礎に,それぞれの部落で〈戸主会〉や〈小年会〉〈清交会〉などの組織がつくられ*部落改善運動が起こる。これに*地方改良運動の一環として部落改善政策を推進していた内務省が注目し、〈優良部落〉〈模範団体〉として,7部落・団体(出雲地方6,石見地方1)が内務大臣表彰を受けている。

 これらの取り組みへの批判から,1913年(大正2)5月15日,出雲地方の6郡15部落82人が結集し〈出雲同志会【いずもどうしかい】〉が結成された。設立趣意書では,これまでの〈部落の有志〉による取り組みの限界を指摘し,団体活動による部落民の地位と権利,利益の保護を訴えた。*大和同志会,京都府同志会に次いで結成された自主的な運動団体として,島根県の運動史上大きな意義をもつものである。

 24年に出雲市で開催された地方改良講演大会での島根県知事と部落有志の懇談を契機として融和団体の結成がはかられ,翌25年2月〈島根県和敬会【しまねけんわけいかい】〉が会員数1400人で発足した。和敬会は会長が県議会議長というだけでなく名誉会員として県知事をはじめとする県行政幹部が加わり,行政の関与した官製団体の性格が色濃く出ているが,県内をまとめた運動団体として敗戦まで活動した。

 水平社運動については,29年(昭和4)の「松江地方裁判所管内における社会運動の概況」では〈当管下では,…未だ水平社に加入せず,従って水平運動に携わりたる事を聞かず〉とある。また,34年の調査資料「部落概観」で,〈水平社数1〉と記載されているが,具体的な動きについては未調査である。行政教育については,37年松江市立川津小学校が文部省の*融和教育研究指定を受け,41年〈島根県融和教育研究会〉が設置されている。

(竹田寿典)

[戦後の解放運動]

 1959年(昭和34)8月に〈島根県同和事業推進協議会〉が結成され,島根県における戦後の民間運動がスタートした。翌60年10月にはこれを引き継ぐ形で〈全日本同和会島根県連合会〉が結成された。機関誌『同和島根』を発行し,部落解放同盟の支部結成(1977)まで県内の唯一の民間運動団体として活動し,現在に至っている。

 解放同盟は77年11月に松江支部,12月に邑智支部と相次いで支部を結成し,運動の第一歩を踏み出した。78年にこの2支部で島根県連の準備会を発足させ,翌79年には労働団体を中心に部落解放島根県共闘会議を結成した。80年に*大田市長の差別発言に対する糾弾に取り組み,羽須美支部を結成。その後も多くの差別事件に対する取り組みを展開し,85年には県内の幅広い個人・団体を結集し〈基本法〉制定要求国民運動島根県実行委員会を結成した。86年には大田支部を結成。同年,島根県啓発指導員差別講演事件が惹起され,糾弾闘争のなかで県内の多くの未指定地区の問題が浮き彫りになった。93年(平成5)には県立益田工業・農林高校生差別発言事件,浜田土木建築事務所職員差別発言事件,島根トヨタグループ採用選考差別事件と相次いで差別事件が発生。採用選考における差別事件は40社に上り,さらに市町村行政や消防組合でも発覚した。95年3月9日,解放同盟島根県連を結成。96年5月には第1回部落解放島根県講座を開催した。現在8支部で県連を構成しているが,いずれの支部も少数点在という実態のなかで,市町村または郡単位で支部を構成している。

(竹田寿典)

[戦後の同和行政]

 敗戦直後の動きについては明らかではないが,1950年(昭和25)に島根県同和対策協議会が設置され,会長は社会福祉協議会会長(県議会議長)が選任されている。このとき役員11人が選出されたが,そのうち5人は地区代表としての参画である。この協議会は社会福祉協議会に併設されたが,55年島根県に移された。この間数件の同和地区に対する事業が実施されている。57年には島根県社会課に同和対策担当を設置。59年知事を会長に同和対策事業協議会が設置され,同和対策予算が計上された。60年同和地区改善補助要綱が策定され,同和対策としてのスタートを切った。

 *同和対策事業特別措置法の制定(1969)を受けて,同年国庫事業で1町2事業,県単独事業で6市町村9事業が実施された。事業量の拡大とともに行政組織も整備され,71年8月県社会課に同和対策係が設置され,75年には県社会福祉部に同和対策課が設置された。また同年,同和対策への提言機関として島根県同和問題懇話会を設置。83年各市町村長・教育長をメンバーとした地域別同和問題啓発推進協議会が設置された。また,88年県の各課地方機関に同和問題職場研修推進委員が設置され職員啓発の体制がつくられた。

 89年(平成1)島根県は同和地区実態調査を実施。また90年には,未指定地区についての調査を実施した。91年島根県同和対策協議会が設置され,これらの調査を受け提言〈今後における同和対策のあり方〉が出された。この提言を受け,県は94年6月に県政推進の基本計画である〈島根県長期計画〉(1994-2010)にかかわる同和対策の具体的内容と方向として〈島根県同和対策推進計画〉を策定した。この〈推進計画〉では未指定地区への取り組みを述べている。現在,6総務事務所に同和対策担当主査が配置され,隣保館設置数は10館である。また,同和対策課(室・係)を設置している自治体は13ある。

(竹田寿典)

[戦後の同和教育]

 島根県における同和教育の取り組みは,1960年(昭和35)安来市立第二中学校が文部省の同和教育研究指定を受けたことに始まる。その後,いくつかの小・中学校が文部省指定を受けたほか,71年には同和加配教員3人が専任教員として配置され,安来市が文部省同和教育推進地域指定を受けている。またこのなかで,63年に島根県同和教育研究協議会が結成されている。しかし,これらの取り組みは一部の地域や学校・教師にとどまり,広がりを持つものとはならなかった。

 73年島根県同和教育推進協議会が設置され,74年県教委が〈同和教育の指導方針〉を策定,75年県教委学校教育課,社会教育課に同和教育係が設置され,『同和教育資料第1集』が発刊された。このころから全県的な体制の整備が進められていく。77年には2市2郡の小・中学校で島根県同和教育研究会が結成され,同年島根県社会同和教育市町村連絡協議会が結成されている。次いで78年には県教委社会教育課に同和教育室,翌79年には同和教育課が設置された。また,市町村での同和教育の推進組識も整備が進められていった。

 84年に大阪で発生した*道祖本【さいのもと】結婚差別事件【さいのもとけっこんさべつじけん】により高校での同和教育の不十分性が明らかになったことから,翌85年島根県高等学校同和教育研究協議会が結成され,88年より高校での研究指定が始まった。また,89年(平成1)保育所での幼児の差別発言事件により,93年から幼稚園同和教育研究指定が始まり,幼・小・中・高一貫の取り組みがはかられたが,依然〈同和教育は部落問題学習〉というとらえ方が支配的であった。93年県立高校生の差別発言事件を契機に,これまでの同和教育の見直しが取り組まれ,95年高校に同和教育専任教員3人と教育事務所に同和教育指導員を配置。96年『同和教育資料19集』を発行し〈差別の現実から学ぶ〉〈進路保障〉〈すべての教育活動の基底に位置付ける〉などの方向が打ち出された。

 99年現在,市町村で同和教育課(室・係)を設置しているのは10自治体である。

(山本隆利)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:52 (1294d)