東京都【とうきょうと】

[現状]

 東京の部落は、歴史的には248部落(23区内33部落、多摩215部落)を数え、1921年(大正10)の内務省調査で46部落1651世帯、7658人、35年(昭和10)の東京府社会事業協会融和部の調査で20部落1378世帯、7248人となっている。しかし戦後、東京都が〈東京に部落はない〉という差別行政を続けてきた結果、現在の東京の部落数を正確に表すことは難しい。戦後における実態調査は、全体としては皆無である。部落解放同盟東京都連は、組織化にあたって約40地区に働きかけたが、組織されたのは10支部にとどまった。台東をはじめ江東6区に広がる東部地区の部落と、芝浦屠場の労働者を中心に、品川、大田、港など南部の部落、そして、練馬、国立、八王子の各部落である。

 生活環境としては、東部地区は*皮革業【ひかくぎょう】(*皮なめし、油脂加工、皮革販売、靴、*草履、*太鼓、*鞄、ベルト加工など)が中心で、とくに墨田・荒川の豚革製造は全国生産の90%以上を占めている。しかし、自由化の波と大企業による締めつけ、韓国、台湾などの皮革産業の発展に押されて倒産が相次ぎ、深刻な打撃を受けている。事業規模は数人の家族労働が中心で、とくに靴、草履、鼻緒など家内工業では、夫婦2人という、いわゆる〈四畳半メーカー〉が大きな割合を占めている。多摩地方の部落は、かつて盛んだった履物表、*竹細工関係の仕事はほとんどなくなり、日雇い、土木関係や、都市化の波のなかでアパート経営をするなど多様な姿をみせている。婚姻関係を含めて、埼玉南部や山梨、神奈川の部落との結びつきが強く、形態としても共通点が多い。南部にある芝浦屠場では、長年にわたるただ働き制度を差別行政として糾弾し、労働者の身分保障を実現してきたが、と殺牛の生体確保が難航し、合理化も計画されるなど、と場対策の立ち遅れが表面化してきている。このほか、東京には他府県の部落出身者が多数散在しているが、部落差別のなかで悩み苦しんで訴え出る人がわずかにみられるほかは、その実態はほとんどつかめていない。その数約40万人と推定される。

(松永俊夫)

[前近代]

 天正18年(1590)徳川家康【とくがわいえやす】は江戸に入り、後北条氏分国支配のもとで江戸・日本橋室町の一長吏頭でしかなかった*弾左衛門を長吏支配頭にとりたて、関東の長吏支配体系の再編を行なった。徳川氏の全国支配権確立に伴い、弾左衛門は静岡以東の長吏支配権を与えられることになった。東京では、御府内と在方とで賤民支配の体系が異なっている。御府内では,弾左衛門のもとに長吏集団(寛政2年〈1790〉232軒、以下同じ)があり、これと並立して*非人頭、猿飼頭があり、非人頭のもとに非人集団(734軒)と乞胸頭(*車善七手下)が並立していた。非人集団は、浅草の車善七、品川の松右衛門【まつうえもん】(18世紀後半に藤左衛門【とうざえもん】があとを継いだ)、深川の善三郎【ぜんざぶろう】、代々木の久兵衛【きゅうべい】、木下川の久兵衛【きゅうべい】という5人の非人頭に統率されていた。猿飼頭のもとには、猿飼集団(15軒)があった。在方では、大井、練馬、等々力、東村山、元八王子等の長吏小頭のもとに、長吏小組頭――組下、非人小屋頭――小屋主――小屋者、*猿飼が支配されていた。弾左衛門の下にこうした支配体系が確立するのは、17世紀後半以降のことである。また、弾左衛門は、江戸市街拡大とともに室町→鳥越→山谷堀の北(通称新町)へと移されている。

 *長吏(*穢多)は、皮革、太鼓、雪踏の製造、燈心販売、下級行刑等に従事し、非人は、町々の清掃、下級行刑、日勧進等に従事していた。*乞胸は、大道芸人の集団である。このほか、弾左衛門は*歌舞伎をはじめ、各種芸能の興行権を握っていた。在方では、長吏の場合、農業、履物製造等にも従事していた。また、一部では竹細工、薬製造に従事し、土地を集積した事例がみられる。これら賤民に対する支配は、幕藩体制の動揺とともに強化され、差別的扱いが深められていった。享保6年(1721)穢多金銀納の場合、別包とし、〈穢多納【えたおさめ】〉と書き付けること、享保8年非人は残らず髪を切りザンギリとすること等を命じたことは、その一例である。また、安政6年(1859)の山谷真崎稲荷事件【まさきいなりじけん】に際して、町奉行所は、穢多の生命は平人の7分の1であるという乱暴な判断をあえて示した。これに対して、賤民の反抗もみられた。天保14年(1843)*武州鼻緒騒動への、現在東京都となっている部落からの参加は、その一例であろう。慶応2年(1866)幕府は〈第1次幕長戦争【だいいちじばくちょうせんそう】〉に際し、弾左衛門配下の部落民を動員し、慶応4年弾左衛門および配下のもの60余人の平人引き上げ【へいにんひきあげ】を行なった。

(大串夏身)

[融和運動]

 明治40年代、八王子などで部落改善の試みが行なわれたが、本格的な融和運動は、*米騒動以降である。1921年(大正10)結成された*同愛会【どうあいかい】には、青梅、八王子、練馬などから多数の部落民が参加した。しかし、これも水平社運動への対応をめぐって、同愛会中央と対立し、脱退以後、みるべき動きはなかった。恐慌下、31年(昭和6)練馬町融和会、32年3月東京府社会事業協会融和部、4月吾嬬奉明会、 6月霞村融和促進同志会などが続々と結成され、本格的な融和運動・事業が開始された。事業は*部落経済更生運動を中心に進められ、八王子、練馬、青梅では隣保館が建設された。融和教育の分野ではみるべきものはなかった。46年4月*同和奉公会東京都本部が解散して、融和運動・事業は幕を閉じた。なお、最大の運動としては、34年に最高潮に達した製革工場移転反対闘争【せいかくこうじょういてんはんたいとうそう】がある。

(大串夏身)

[解放運動]

 東京における部落解放運動は、全国水平社結成直後、1922年(大正11)3月20日の東京水平社創立相談会から始まる。東京水平社の活動は、23年9月の*関東大震災によって一時停滞したが、以後、浅草、青梅を中心に順調な発展をとげ、26年2月、東京府水平社連合会を組織するまでに至った。が、*アナ・ボル対立の影響を受け組織が分裂、地域活動は一部を除き活気を失った。この時期、東京水平社の中心メンバーは、*全水解放連盟に拠って活動を続けた。全水第8回大会の戦線統一を受け、30年(昭和5)春、全水東京支部の再建を果たした。全水東京支部は地域の社会運動諸団体と協力し、部落大衆の生活を守るため奮闘した。33年10月には、*高松差別裁判取消請願隊を迎え、その活動に協力し、32年から37年にかけて*浅草白山八幡神社合祀差別糾弾闘争を闘った。戦時下においては、皮革統制反対、履物同業組合の組織化などに力を尽くし、同時に融和運動と合流し、*大和報国運動に参加した。

 戦後は、台東、練馬などを中心に*部落解放全国委員会に参加する者がいたが、大衆的な活動を巻き起こすまでに至らず、60年頃まで、サークル的な組織状態を抜け出すことができなかった。もっとも、練馬、八王子、台東などで、部落大衆によって行政に対する要求活動が組織されたことはたびたびあったが、これらは解放委とは直接の関係をもたなかった。60年、東京都労働局差別事件糾弾闘争【とうきょうとろうどうきょくさべつじけんきゅうだんとうそう】を契機として組織化が進められ、61年、部落解放同盟東京都連が結成された。狭山差別裁判糾弾闘争の高揚、*同和対策事業特別措置法の施行等によって組織化はさらに進み、71年、東京都同和企業連合会【とうきょうとどうわきぎょうれんごうかい】が結成され、相前後して、墨田支部、荒川支部などが確立、練馬支部が再建され、靴工を中心として足立支部が結成された。こうして、大衆的な組織の確立をみ、行政闘争をはじめとする日常闘争が活発化していった。また、解放運動をめぐる全国状況を受けて、東京でも共産党の指導によって正常化連がつくられ、のちに東京都部落解放運動連合会が結成され、組織分裂に至った。同時に共産党は、解放同盟に対する差別キャンペーンを展開した。一方、部落解放東京共闘会議、東京部落解放研究会、東京都同和教育研究協議会などの組織が、多くの人々の力で組織された。

(大串夏身)

[戦後の同和行政]

 東京においては、戦後、長きにわたって同和行政不在の空白期間が続いてきた。部落解放同盟東京都連は1961年(昭和36)9月都議会に〈部落解放行政確立に関する請願〉を提出。同和行政の取り組みを強く求めた。この請願は63年3月に採択されたが、東京都(東知事)はこれを無視し、戦後の東京都における同和行政の開始は、69年1月まで待たなければならなかった。67年に誕生した美濃部都政は、〈同和問題の解決は都政の重要な課題〉と確認。69年1月同和対策本部が発足し、東京都と解放同盟東京都連の協議機関として同和対策協議会もつくられた。しかし、73年になって同対協とは別に同和事業推進協議会(東京都・解放同盟東京都連・履物工組合協議会の三者で構成)設立の動きが露見し、解放同盟東京都連に結集する部落大衆の抗議で白紙撤回された。この背景には、一産業組合に特別な位置をもたせる共産党の指導と、対象地区を指定しないで同和事業を執行しようとする東京都の考えがあり、この時の矛盾は解決されないまま現在に至っている。

 〈東京に部落はない〉ということを前提に同和行政を進めようとする東京都の姿勢は、戦前から綿々と続くもので、その基本的な考え方は、美濃部三選後つくられた同和問題懇談会の〈歴史的にかつて存在した同和地区も現在では、旧態のまま存在しているところは少なく、関東大震災や戦災等によって形態が崩壊・変化し、さらには戦後の流入人口の激増による混住化がすすんで、明確な把握が極めて困難である〉とする答申(1978)に集約されている。戦前、追放、分散を基調にした東京都の部落政策は、戦後、無視・解体方針へと変化したといえる。こうした〈答申〉の考え方にみられるように、その後の東京都の〈同和〉行政は〈部落〉の存在や〈差別〉の存在をあいまいにして実施されてきた。その結果、3地区に限定して実施された環境改善事業は、道路と公園の整備、会館建設が主なもので、〈部落問題の解決〉という目的はあいまいにされた。〈産業労働基本計画〉は、〈悪臭を除去〉する等の〈公害〉対策は実施されたが、皮革や履物産業を伝統的な部落の産業として位置づけ、その振興を促進するための対策は実施されることはなかった。また、〈人権尊重教育推進校制度〉が当初〈学力水準向上事業〉と位置づけられたことに端的に表れているように、本来の〈同和〉教育はほとんど実施されてこなかった。

(松永俊夫)

[戦後の同和教育]

 東京都内では,戦時中青梅市で,学校ぐるみの差別事件に対して,部落の子どもたちの自然発生的な自主休校など,差別教育に対する抵抗はあったが,1969年(昭和44)に東京都の同和行政が開始されるまでは、同和教育は皆無といってよかった。わずかに部落を校区にもつ学校の中で,教師が〈差別があっても負けるな〉と,精神主義的に激励するにとどまっていた。72年都教委は4区13校を〈学力水準向上事業対象校〉を設置し,これを柱に同和教育を開始した。しかし,その内容は〈1人ひとりを幸せに〉〈1人ひとりの学力を高める〉といったふうに,心がけ・建前を前面に掲げたもので,学校現場で相次ぐ差別事件に対しては,教育の〈中立性〉をたてに部落解放同盟と教員集団との話し合いすら拒否するというものであった。その後79年に〈人権尊重教育研究推進校〉に改められ,校数は8区1市33校に増えたものの(1997年現在68校),その内容は〈人権尊重の精神の育成〉〈基礎学力の向上〉〈自己実現の達成〉をはかる教育というもので,同和教育の理念をあいまいにしたまま行なわれ,その基本方針は現在も変わっていない。

 こうした行政の動きに対して,75年東京都同和教育研究協議会が自主的な同和教育実践者を中心に組織され,副読本の作成や部落の子ども会活動とも結びついて解放教育運動を展開し,学校現場での同和教育の中心的な担い手になっていった。子ども会活動は97年(平成9)には10地区で行なわれ,現在も8地区で活動が続けられている。

(藤本忠義)

参考文献

  • 川元祥一・藤沢靖介編著『東京の被差別部落』(三一書房、1984)
  • 石井良助編『近世関東の被差別部落』(明石書店、1978)
  • 荒井貢次郎『近世被差別社会の研究』(同前、1979)
  • 大串夏身『近代被差別部落史研究』(同前、1980)
  • 都立高等学校同和教育研究会『あゆみ』(1982)
  • 解放新聞東京支局編『東京の部落に生きる』(解放出版社、1984)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:52 (1469d)