徳島県【とくしまけん】

[現状]

 1993年(平成5)に総務庁が実施した〈同和地区実態把握等調査〉によると、県内30市町村に95地区あり、同和関係人口は1万0433世帯、3万0103人である。35年(昭和10)の*中央融和事業協会の調査によれば41市町村に87地区,4926戸,2万5578人であったから,今日の95地区というのは信用できる数字といってよいであろう。75年調査によれば100世帯以上の部落はおよそ3分の1あり,20世帯以下の地区も20カ所ある。生活保護率をみると県全体では1.95‰であるのに対して部落のそれは10.02‰という数字を示している。生活基盤の劣悪さを物語っているといえよう。県内の部落は河川周辺の低地帯や山あいの傾斜地などきわめて条件の悪い所に立地を余儀なくされている。飯尾川あるいは江川沿いなどにいくつもの地区をみることができる。

[前近代]

 徳島県の歴史のうえに部落が政策的に固定され,分断支配が顕著に強行される過程は、3段階に分けることができる。その最初は承応3年(1654)に徳島城下周辺の*穢多が夫役を免除される代償に城下の*掃除役を賦課され,次いで延宝2年(1674)から棟附帳【むねつけちょう】を別帳に仕立てられ,さらに元禄2年(1689)には服制【ふくせい】(髪形や傘使用の禁止、また百姓より軽い衣服とする)が規定されて,いよいよ差別が顕在化されていった。番非人も17世紀末から制度化され,ほぼ元禄期には*茶筅・*猿牽・探禾【たんか】・掃除などの雑種賤民も,藩体制の末端に差別的編成を完了していった。藩の分断政策が進むにつれて差別が厳しくなるが,その一例として穢多の栽培した葉藍は品質がよくないと決めつけ,不当な安値で買い取る藍師が多かったので,寛政7年(1795)正当な価格で買い上げるよう、藩が命じているほどである。部落差別が格段に強化される契機は,棟附帳が別帳化されたころからで,それ以降処刑執行については,すべて藩の長柄・作事の下級藩士が行なっていたものを,刑場の設営から処刑まで,一切を穢多に命じて執行させたが,これは穢多が疎外される決定的な理由となった。徳島藩が穢多・非人を支配の末端において政治的に利用することが顕著になるのは,同藩で最大の農民蜂起である上郡一揆の発生を契機とするが,そのころから非人の〈違法〉行為が多発している。それは不当な身分差別に対する部落大衆の抵抗を意味している。

[融和運動]

 日露戦争を契機として県内で部落改善事業が進められ,1908年(明治41)には当時の県内部落改善事業の実績が県内務部でまとめられ,県内各地の部落における改善事業の概略を知ることができる。21年(大正10)の細民部落改善事業では,衛生施設や道路改修費などの国庫奨励金交付申請を20余の部落が行ない,4200円の補助金が交付された。28年(昭和3)には県社会課が県内市町村に融和団体設立を奨励し,同年1月28日には徳島県融和事業協会【とくしまけんゆうわじぎょうきょうかい】が設立され,会則第3条に〈人類相愛の原理に基き旧来の陋習を破り同胞融和の徹底を期する〉ことを目的として,水平運動に対抗する官製の組織活動が本格化した。さらに同年6月には徳島県融和団体連合会【とくしまけんゆうわだんたいれんごうかい】に改編され,その後県内各市町村で融和会が結成されていった(27団体)。連合会は31年,県会に差別言動取締令発布【さべつげんどうとりしまりれいはっぷ】を建議。同年12月18日の県会で満場一致の可決を得た。教育の方面では36年6月に〈之が教育教化に携はるべきは国民教育の要衝に在る教育者を以て其の第一当面者と為すべく〉として*融和教育研究指定学校を制度化。つづいて41年には戦時体制下に県の融和教育方策が出され,〈日本民族の成立を明らかにし肇国の大理想を体得せしめ国民一体道義日本を世界に発揚し皇道宣布に邁進する素地を培ふ〉ことをめざした。その後同年7月28日に財団法人同和奉公会徳島県本部【どうわほうこうかいとくしまけんほんぶ】が設立され,差別撤廃の目的を放棄した*同和奉公会として,戦争に全面的に協力する団体となってしまうのである。

[解放運動]

 明治4年(1871)の*〈解放令〉に伴って,名東県では〈解放令〉の趣旨徹底をはかる触書を県内に通達した。翌年県内各地の部落では,村の氏神の氏子に加わることを要求。旧氏子に反対され県が調停に入ったが,不当な差別を放置する措置をとっている。1923年(大正12)に徳島県でも全国の水平運動に呼応して,連日デモが繰り返され,羽野春美【うのはるみ】の来県を契機として名東郡新居村で運動の第一烽をあげた。翌24年12月24日に同郡加茂名町の公会堂で加茂名水平社【かもなすいへいしゃ】が結成されたのが,県内における解放運動組織化の第一歩である。そして25年の中等学校汽車通学生による差別発言事件,27年(昭和2)の勝浦郡における旧士族の差別と警察・検事局の差別的取り扱いに対して水平運動は高揚,33年の*高松差別裁判事件の支援活動を通じて組織化も進み,徳島・小松島・富岡など15支部1009人が同人として組織されたが,その後運動は停滞し政府や県が組織する融和運動の拡大につれて衰微していった。

 戦後の1946年(昭和21)に部落解放徳島地方委員会が結成されており,富岡簡易裁判所で発生した判事の差別的暴言事件に対する糾弾活動などの運動が注目されるが,その詳細は明らかにされていない。これに対し戦前の融和運動路線を継承する人々は,48年に徳島県同和会を結成し,〈行政・教育・運動の一元化をはかるため,対話と協調の路線を重視する〉として運動を展開している。その後,69年7月19日に阿南市役所で部落解放同盟徳島県連結成大会が挙行された。県連の拠点は小松島市に置かれ,県内の他市町村に運動を拡大していった。とくに同年6月に予定されていた初の県知事交渉を成功させるため,連日連夜のオルグ活動が精力的に進められた。

[行政]

 部落解放同盟徳島県連による県知事交渉が1969年(昭和44)に行なわれ,それを契機として急速に県の同和行政も再編強化された。まず県厚生部に同和対策課が設置され(1969),つづいて県教育委員会に同和教育振興課も置かれ(1972),〈知ろう 考えよう なくそう部落差別〉をスローガンに掲げ,全県的な同和行政が展開されることになった。また70年に財団法人徳島県同和対策推進会【とくしまけんどうわたいさくすいしんかい】が設立され,県の委嘱を受けて,多大な成果を上げつつある。96年(平成8)12月25日に〈徳島県部落差別事象の発生の防止に関する条例【とくしまけんぶらくさべつじしょうのはっせいのぼうしにかんするじょうれい】〉(資料編C-6)が制定され,〈部落差別の解消を図る見地から,同和地区に居住していること又は居住していたことを理由としてなされる結婚及び就職に際しての差別事象の発生の防止〉(1条)をめざし,県民の基本的人権の擁護に努めることになった。また県内50市町村すべてにおいて部落差別撤廃・人権擁護に関する条例が制定されたことは画期的であり,将来に大きな展望をひらく契機となった。

[教育]

 戦後の同和教育は1957年(昭和32)の*全国同和教育研究大会開催(徳島市)を契機として最初の盛り上がりがみられる。しかしその後は,校区に中規模以上の部落を包含する小・中学校で積極的に実施されはしたものの,戦前からの融和教育の路線が色濃く投影され,他の地域や高等学校ではほとんど取り組まれなかった。全県で同和教育が実施されるようになるのは,同和対策事業特別措置法施行(1969)以降である。59年度に設置された*福祉教員【ふくしきょういん】が,被差別児童・生徒の就学保障に取り組んだ成果を継承し,児童・生徒の*進路保障を核として,同和教育の急速な普及と深化がはかられていく。しかし,差別意識が払拭できず,差別事象・事件が後を絶たない現状を打開するため,91年(平成3)県教育委員会は〈徳島県同和教育基本方針〉を作成し,県内の教育行政と教育現場において同和教育の徹底を期している。その課題として1.教育内容の改善充実,2.進路保障,3.組織体制の確立,4.保護者の啓発,5.諸条件の整備などに取り組むことの必要性を強調している。その延長線上で県教委は,『徳島県同和地区民俗文化史調査報告書』を第4集までまとめ,教育現場で活用している。また県教育研修センターでは実践報告として『同和教育研修資料』を第3集までまとめるなど,活発な活動を展開している。

参考文献

  • 池田町教育委員会・池田町同和教育推進審議会編『池田町を中心とした部落史編年資料集』(1973)
  • 三好昭一郎『被差別部落の形成と展開』(柏書房,1980)
  • 武知忠義『徳島近代史研究』(教育出版センター,1982)
(三好昭一郎)

トップ   差分 リロード   一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:52 (1469d)