被爆者の人権【ひばくしゃのじんけん】

[概括]

〈被爆者援護法の闘い〉

 被爆者における人権の概念について,〈人間の尊厳〉という言葉がはるかに包括的であると述べたのは,原水禁・被爆者運動に生涯をかけた哲学者・森瀧市郎【もりたきいちろう】(1901〜1994、広島県生まれ)である。広島・長崎に投下された原子爆弾による犠牲者は,1985年(昭和60)までに広島20万2000人,長崎9万4000人といわれるが,熱線と爆風の中で瞬時に息絶えた人々や一家全滅による正確な死没者数の不明,さらに,放射能後障害による被害の特異性など,極限の人間性破壊に対する怒りと悲痛が被爆者のその言葉の原点にある。93年(平成5)3月末現在,旧原爆二法による被爆者健康手帳所持者は33万3812人で,いまなお増え続けている。講和条約発効後,被爆者は米国への被害請求権を失ったが,56年8月に発足した日本原水爆被害者団体協議会【にほんげんすいばくひがいしゃだんたいきょうぎかい】(日本被団協)は,国から放置され続けた10年を振り返り〈原爆被害者援護法〉の実現を決意した。当時の国家補償の考え方は,戦前の国家総動員法等によって国との身分関係があるというものであったが,対外的には韓国・朝鮮人被爆者【かんこくちょうせんじんひばくしゃ】の救援が含まれないことに気づき,73年以降,身分関係論を転換した。つまり,国家の戦争責任を明記させることである。それはすべての戦争被害者に対する国家補償・償いの原理であり,将来への非核不戦の証しであるという思想が定着する。しかし,国家補償を旧軍人・軍属の雇用関係に限定する国は,旧原爆二法をはじめ,20年の歳月をかけた悲願の援護法(原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律【げんしばくだんひばくしゃにたいするえんごにかんするほうりつ】、1994.12.16)にも,ついにその戦争責任を明らかにすることなく,連立政権党における一部のかたくなな反対により〈国家補償の精神〉は葬り去られたのである。94年7月,村山首相が行なった〈一般戦災者との均衡論〉に基づく国会答弁に対し,広島の被爆者団体は平和公園内で最大規模の座り込みを行なって抗議した。戦争被害を〈国民が等しく受忍すべきもの〉(基本懇意見書)と決めつける前時代的国家観に対して,被爆者は国民主権,わけても平和主義の危機を内外に問い続けているのである。

〈在外被爆者の闘いと援護法〉

 原爆投下によって,広島5万人(死亡3万人),長崎2万人(死亡1万人)の市内在住朝鮮人が被爆した。また中国人は広島31人(死亡5人)が判明し,長崎も調査中である。いうまでもなく強制連行等,日本のアジア侵略による二重の歴史的被害を被ったこれらの人々は,その後,生存者によって国に被爆者治療を求め(孫振斗【ソンジンドウ】手帳交付裁判、1978年最高裁勝訴),三菱重工に対しては長崎地裁(金順吉【キムスンギル】、1992年提訴)・広島地裁(韓国人元徴用工、1995年提訴),西松組に対しては広島地裁(安野発電所原告5人、1998年提訴)などの補償請求裁判を闘っている。いわゆる在外被爆者は,北米1000人以上,南米約200人,中国13人(判明生存者4人),朝鮮民主主義人民共和国475人(調査時点),韓国推定約2万3000人(83年現在。なお韓国原爆被害者協会登録者9362人)等であるが,国は〈援護法〉の適用を拒否している(同法1条2号)。

 なお、本川橋のたもとにあって、長年、排外主義・民族差別の論議をよんだ韓国人原爆犠牲者慰霊碑は、建設以来29年を経た99年7月21日、平和公園内に移設された。

(正木峯夫)

[広島の部落と被爆]

 原爆の投下により多くの犠牲者を出したが,なかでも部落は差別によって,被害をより大きくした。広島市内にある部落は爆心地より1.7〜2.5kmの距離に位置し,6037人が被爆。家屋はほとんど焼失。即死者約600人,行方不明約400人。残留放射能を浴びた結果,2km以上では他地域にはない急性原爆症の死者は約1000人,死亡率は約33%となり,広島市全体の1.5〜2.5kmの死亡率13.4%の約2.5倍となっている。市内の小学校高学年はほとんど集団疎開をしていたが,部落では300人以上いた児童のうち,差別により30人しか疎開できず,疎開していれば助かった多くの児童が死亡。即死者も他地域の児童と比べて非常に多い。

 さらに被爆直後,部落以外の市民は市外に避難し救助を受けたが,県内最大の都市部落・福島町や南三篠町の住民は,家を焼かれても,差別により市外に頼れる者がほとんどなく,しかも,軍隊が町内に夜も高張り提灯をつけて駐屯し監視したため,避難が難しく,51.79%の人が地区内にとどまった。避難した人も,出身がわかると相手の態度が急変し,21.4%の人が次の日までに帰らざるを得ず,多量の残留放射能を受ける結果となった。こうした原爆と差別の重圧の中でも,被爆直後から食糧はこび等,最初に救援活動を始めたのは部落の青年を中心とした人たちであった。

(下原隆資)

[長崎の部落と被爆]

 <浦上町。冬の気配がしのび寄るころになっても町域に復興のつち音はなく,11月頃,一軒のバラック小屋が建ったのが最初だった。あちこちに焼けトタン,廃材を使ったバラックが建ち始めたが,昭和21年2月ごろまでにわずか5軒を数えるほどで,復興の足どりは他町より鈍かった。…>(長崎市役所編『長崎原爆戦災誌 第2巻地域編』1979年)。浦上町は、1町で被差別部落を形成しており、当時町内会長だった高岡時松は,<消えた浦上町の人々>の小見出しを付け,手記を寄せた。そこには町民の転出先が克明にメモされている。総数220世帯のうち,町にとどまった世帯は21,市内に88,県内18,福岡に18,大阪に49…。長崎市は1946年(昭和21),戦災復興土地区画整理事業区域を決定,49年に長崎国際文化都市建設法が公布される。この事業で,町を横断する道路が造られ,土地,墓地の一部が収用される。浦上町は,64年町名変更により消滅した。

 長崎市は70年,爆心地から2km以内の復元調査事業に着手。80年『原爆被災復元調査事業報告書』を刊行した。それによると,確認された浦上町の総人口1034人,このうち兵役従事者86人を含む125人の長期他出者がいた。したがって被爆時在住者は909人。うち155人(17%)が即死,同年中140人が死亡(合計295人,32%)。調査時点(1970)では436人(48%)が亡くなり,293人の<生死不明者>が数えられる。町民は,<郷土振興会>を組織,毎年8月9日に追悼法要を行なっている。(阿南重幸)

参考文献

  • 森瀧市郎追悼集刊行委員会『人類は生きねばならぬ』(1995)
  • 原水爆禁止日本国民会議『非核社会への旅立ち』(1995)
  • 原爆被害者福祉センター『なぜ国家補償を求めるのか』(1994)
  • 被爆者援護法研究会・韓国の原爆被害者を救援する市民の会『在外被爆者にも被爆者援護法の適用を』(1998)
  • 三菱広島・元徴用工被爆者裁判を支援する会『三菱は未払い賃金を支払え!』(1996)
  • 『中国人強制連行国際シンポジウム広島集会報告集』(同実行委員会、1997)
  • 『広同教30年史』上巻(広島県同和教育研究協議会,1984)
  • 『部落問題と平和教育掘(同前、1995)
  • 長崎県部落史研究所編『ふるさとは一瞬に消えた』(解放出版社,1995)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:54 (1411d)