富山県【とやまけん】

[現状]

 1975年(昭和50)全国同和地区調査では該当地区なしの県の回答であるが,35年(昭和10)全国部落調査では233地区,8132人という記録があり、61年には4地区,904人という数字がある。10戸以下の部落が約9割を占め,最大規模で50-80戸という典型的な少数点在部落が県内一円に分散して存在している。10戸以上の地区に限定しても30カ所を超えるが,〈同対法〉以降の〈法〉無視の行政姿勢のもと,すべてが事業未実施地区である。

[前近代]

 藩政期に,加賀藩とその支藩であった富山藩のもとに置かれていたことから加賀藩の賤民政策の影響を強く受けているが,その詳細は不明。石川県と同様に,今日,県内の部落は〈*藤内【とうない】〉系と〈皮多〉系の2種に大別される。慶長14年(1609)に近江の木之本から皮革職人を呼び寄せ,高岡城下に居住させたことが,〈皮多〉系部落の形成に関する初見。しかし,圧倒的多数を占める〈藤内〉系部落の形成過程など究明課題は多い。

[融和運動]

 政府の融和事業が本格化する契機となった1918年(大正7)の*米騒動は,同年7月の魚津町(現魚津市)の漁村の女性による米騒動が発端。県内の部落大衆も決起し,その後全国に波及。この米騒動と前後して,県行政・警察による部落に対する治安的対策がはかられ,それが背景となり融和運動が展開された。県は21年頃から国の補助を受け融和事業に着手。大正末期からは,県内約20市町村で道路や下排水路改修などの環境改善事業を実施。また33年(昭和8)頃からは共同作業場の設置や〈経済厚生事業〉に取り組むが,実績は不調。一方,26年4月に富山県融和会【とやまけんゆうわかい】が設立され,融和思想・事業の宣伝や普及を目的とする官民一体の融和運動が始まった。同会は,29年頃から差別事件の調停(地元行政の首長や警察署長などの有力者が仲裁し解決する形)や生業資金の貸し付けにも取り組んだ。39年に富山県大和会【とやまけんだいわかい】と改称され,41年,同和奉公会富山県本部に改組された。

[解放運動]

 米騒動には富山市内の部落民が多数決起した。1923年(大正12)滑川市西町の部落児童が差別発言を受け県・郡・学校当局を糾弾し勝利する。戦後では65年(昭和40)頃まで富山市内に部落解放同盟県連準備会が置かれ活動していた。83年6月26日,富山支部結成。環境改善や,地区集会所の設置(1987.4)など成果をあげているが,いずれも一般対策。全県的な解放行政の確立・推進,さらには少数点在部落の組織化が課題である。

[行政]

 1982年(昭和57)の図書館での差別図書問題などを契機に,県(1982.4),富山市(1983.4)が同和担当者を配置。形式的に啓発講演会や職員研修が取り組まれている程度。富山市のみが,市の単独事業で88年から少額の人権啓発活動補助金を拠出。97年(平成9)6月に小矢部市が市職員の募集に際して戸籍抄本の提出を求めていたことが発覚し,人権水準の低さを露呈した。

参考文献

  • 本田豊『部落史を歩く』(柏書房,1982)
(吉田 樹)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:55 (1411d)