福岡県【ふくおかけん】

[現状]

 県内の同和対策事業対象地域は、1993年(平成5)の総務庁調査によれば県内74市町村に617地区(1993年調査では調査票未回収が2町村あるので、以下はその数字である)。世帯数3万7332、人口11万1784人である。87年(昭和62)の調査では、それぞれ3万9075世帯、13万5956人であるので、やや減少傾向にある。生活圏では、県西部の福岡地域に120地区、県北部の北九州地域に244地区、農村型の県南部・筑後地域に38地区、旧産炭地の県東部・筑豊地域に215地区となっている。

 同和対策事業については、対象地域の市町村道の改良率は74.5%と、市町村全体(49.8%)と比べて高い。また土地改良事業の整備状況も、対象地域の整備率は49.9%と、市町村全体(40.6%)と比べて高く、事業の進展がうかがえる。住宅環境は、面的整備事業の〈施行区域内〉の〈整備が完了した区域〉にある住宅は74.4%、〈未整備区域〉は25.6%と改善がみられる。また九州最大の被差別部落である北九州市北方地区の環境改善事業も完成するなど、物的事業についてはかなりの地区が改善されたといえる。しかしながら、下水道の普及率は県全体の54.5%に対し、同和地区は31.6%にとどまり、依然として物的事業の必要性を残している。  経済状況については、〈生活保護世帯〉と〈住民税非課税世帯〉の合計が31.1%、ほぼ3世帯に1世帯の割合で、92年国民生活基礎調査(全国)の15.9%と比べ、高い割合を示している。また生活保護世帯のうち10年以上受給し続けている世帯が55.9%に達し、厳しい経済状況を裏付けている。

 15歳以上の世帯員のうち有業者は58.1%。有業者の産業別就労状況は、建設業が25.0%ともっとも高く、次いでサービス業(18.5)、製造業(13.6)、卸売・小売業、飲食店(13.6)である。サービス業のうち廃棄物処理が2.5%を占め、近年の就業の特徴を示している。就業別では、〈技能工、採掘・製造・建設作業者及び労務作業者〉が40.1%ともっとも多く、県の92年〈就業構造基本調査〉の29.2%を上回っており、専門的な技能・知識をあまり必要としない職業にしか就けない実態を示しているものと思われる。就業先は、1-30人までのいわゆる中小企業に約5割が就業しており、県全体の46.0%と比べやや高く、300人以上の大企業には11.2%と、県(22.9%)の約半分である。官公庁への就業は8.1%で県全体と同率であるが、就業内容では現業職などが多いのが特徴である。また有業者の年収は、200-249万円の層が13.3%ともっとも多く、400万円未満が82.7%と大部分を占めている。

 部落差別のもっとも厳しい面を表している婚姻は、〈夫婦とも地区の生まれ〉が53.2%、〈夫は地区、妻は地区外〉が26.4%、〈夫は地区外、妻は地区〉が13.2%、〈夫婦とも地区外〉が7.2%である。これらをまとめると、〈夫婦の一方が地区外〉は46.8%となり、地区外との婚姻は進んでいることがうかがわれる。

 高校進学率は、関係地区で90.0%と以前に比べ改善されてはいるが、福岡県全体の96.1%と比べるとまだ格差は存在する。90年の県〈同和〉教育実態調査では、学力において各教科で約10ポイントの格差が存在し、とくに基礎学力が弱い。また基本的な生活習慣についても地区外に比べ7ポイントの格差がある。

 読み書きの状況をみてみると〈全く読めない〉2.6%、〈カナなら読める〉3.9%、〈漢字も少しは読める〉8.0%で、高齢者になるほどその割合は高く、〈普通に読める〉割合は75歳以上では6割未満となっている。20歳代から40歳代の青・壮年層にも〈全く読めない〉が3.4%いる。さらに性別でみると女性の約3人に1人が〈読むことに不自由している〉実態がうかがわれる。

(竹森健二郎)

[中世]

 中世の福岡県域において、非人を中心とする被差別民衆が数多く存在したであろうことは、十分に推測できる。聖域としての香椎宮・筥崎宮・太宰府天満宮などを中心として、北部九州に分布している社寺は、当然のことながら信仰の対象として己れを清浄に保つ必要があり、そのためには穢れをキヨめる集団を維持しなければならなかった。〈*散所〉と〈*河原者〉である。たとえば文治3年(1187)『筥崎大宮司分坪付帳』(『筥崎宮史料』1)に、〈さんしょの物とものさい所〉(散所の者共の菜所)を認めていることは、筥崎宮においても寺社の清掃・警備に従事している〈散所〉の集団が存在していたことを意味する。同様に大内氏の評定衆、杉宗長・竜崎隆輔らの連署書状に、筥崎大宮司が訴えた〈エヒス河原〉のことを問いただしていることは、〈河原者〉の存在と関連して重要な意味をもつ。このような〈散所〉〈河原者〉の集団は、当時おびただしく流浪していたと思われる〈癩病者〉の統制・支配のためにも欠かすことのできないものであった。

 なお被差別民衆として、座頭や盲僧などの周縁身分の者を明らかにする必要があろう。たとえば『高良玉垂宮神秘書』が、遷宮の式次第について述べたところで、御神幸の先触れとして座頭がキヨメの役割を果たしていたとしている。このようなキヨメの能力は、正月行事などにおける慶祝芸能にもみられるところであって、高良山における地神盲僧の芸能座〈モモタウ〉は、市祭のとき高良から運ばれてくる市恵比須の神体を建てる儀式を行なったという。高良社が〈モモタウ〉座その他の手工業者を通じて市祭を支配していたことがうかがえる。

(松下志朗)

[近世]

 近世に関してはかなり解明が進んだが、その成果によれば県域内の近世被差別部落は藩域ごとに固有の展開を遂げており,一律には論じられない。福岡県域は17世紀初頭以降,小倉・福岡・久留米・柳川の4大藩体制で廃藩時まで持続したので,以下藩ごとの部落史を述べる。

〈福岡藩〉

 慶長5年(1600)12月,黒田長政はいったん旧領主小早川秀秋の居城名島城に入る。翌6年からの領内の検地帳指出しと福岡城の築城および城下町造成に着手。翌々7年正月にはいち早く定【さだめ】書【がき】により〈革多役【かわたやく】〉としての皮革上納を課し〈田畑作〉は〈百姓並〉,ただし五節句ごとの絆綱【はづな】・掃【はわき】の城内出役を付課,別途博多松原の〈かわた〉に〈博多松原番【はかたまつばらばん】〉を命じた。慶長7年本藩の検地は終了。慶長9年、父如水死後に実施した隠居領のみの検地も終了。この段階の筑前には15郡中9郡27カ村にわたり革屋・革多・皮多が所在した。17世紀末,元禄期(1688-1704)にはそれらの大部分を含み〈穢多村〉として14郡に40カ村,18世紀末頃はすべての郡で約95カ村,弘化4年(1847)には,革座【かわざ】の傘下にあった〈下村【したむら】〉が133カ村に達した。福岡藩の場合,慶長期(1596-1615)に〈かわや〉と〈かわた〉の表記が混用されていたが,それに*穢多の公称を準用(初見は寛文期〈1661-73〉)した後も,被差別部落では〈かわた〉の称が一貫して使用された。それは福岡藩の皮革生産に対する政策的対応(藩政初期〈かわた役【かわたやく】〉の本命を皮革上納とし,播州より皮工を招致して,皮革精製技術の改良をはかったこと,藩政中期革座の設置と,藩外からの荒皮輸入を認めるなどの生産増進策等)と無関係ではない。しかし〈かわた村〉全体としては,個別的には零細であったが農業従事の意義も無視できない。とりわけ近世中後期が顕著である。西日本一帯に及んだ享保大飢饉(1732)で,筑前の被害はとくに甚大で,多くの民衆が餓死した。享保期(1716-36)初めより相次ぐ連年の凶作で百姓数が減少,労働力の慢性的不足による浮地【うきち】・散田【さんでん】(永荒地,無主田)の発生が,深刻な事態を招いた。その再開発のために起用されて有効だったのが,近村から引き入れた〈かわた百姓【かわたびゃくしょう】〉である。元禄以降の〈かわた村【かわたむら】〉の著増は,もっぱらそうした分出=新村の成立による。福岡藩の部落が頭支配でなく,村支配のかたちをとっていたのもその関係であろう。同藩の被差別部落民の生業は皮革生産と農業,それに関連する履物細工その他の皮革加工,草履・筵【むしろ】などの藁加工といった雑業,副業などであった。他藩に例の多い警察・行刑の役務負担は比較的少ない。慶長期から一村に〈博多松原番〉の課役があったが,それに類する番役負担は他に1,2ある。*行刑役は幕末に至り,博多近郊の3カ村に処刑時の現夫出役と,他村からの夫役銭切立が制度化されていた事実が認められるが,その成立時期等は不明である。

〈小倉藩〉

 慶長5年(1600)細川忠興は,前中津領主黒田の居城中津城に入城後,翌年から領内一円の検地帳を村方からの報告に基づいて作成した。翌々年からは居城を小倉に移すため築城を開始。近世初期における小倉藩の被差別民に関する知見は,入部後22年を経た元和8年(1622)の〈人【じん】畜【ちく】改帳【じんちくあらためちょう】〉まで降る。同帳には各種の中世的な職能,身分呼称がみえる。その主なものを順次拾うと,〈かわた〉22人のあと,〈ざるかたげ【ざるかたげ】〉155人,〈はかせ〉15人,〈はちひらき〉57人,〈ささらすり【ささらすり】〉6人,〈念仏申【ねんぶつもうじ】〉1人,〈つゝら作り【つつらつくり】〉1人などがあり,いずれも少数。そのうち〈かわた〉のみ,県域内6郡の分布をみると,規矩【きく】(企救)2人,田川なし,京都【みやこ】1人,築上なし,仲津2人,上毛【かみけ】郡なしである。しかし嘉永5年(1852)田川郡85カ村に対し〈穢多村〉48カ村757軒3745人,安政6年(1859)規矩郡の474人などと対比するとき,その間230年の経過があり,領主の交替があったにしても変化があまりに大きい。小笠原小倉藩における〈穢多〉呼称の初見は元禄2年(1689)である。寛永期(1624-44),入部後しばらくは〈*皮田〉呼称があった。今後解明すべき課題として,人畜改帳記載の〈かわた〉と小笠原藩初期の〈皮田〉および改称させられた後の〈穢多〉,この三者の関連の問題が残る。

 譜代大名小笠原は,外様大名の多い九州諸藩に対する目付役としての使命を体しており,差別政策においても幕府のそれを準用,あるいは上回った。統制機構としては,人別支配は村方にあったが,同時に頭――組頭による縦割り支配のルートもあった。また穢多と改称された後,その身分的役目が拡大され,斃牛馬処理を含む皮革生産,牢番,村番,犯罪人の探索と検挙,刑罰の執行と清掃の諸役が課せられた。さらに同藩の差別法令【さべつほうれい】はもっとも頻繁に出されており、享保13年(1728)を皮切りとして明治2年(1869)に至るまで前後約20回に及ぶ。なかには幕府法令の伝達が含まれているが,その場合でも追加法令を加えるなどの処置をとっている。それらの法令は同藩の差別政策が年を追って深化拡大された状況を歴然とさせる。これらは藩財政の破綻と農民収奪の強化,農村農民の疲弊という悪循環のなかで,もはや余儀ないものとなった被差別民の農業進出に対処する差別分断策にほかならない。

 同藩では延宝期(1673-81),この地を襲った大暴風雨による甚大な被害を引き金として,農村が窮乏化の一途をたどった。一方,藩としては18世紀初め,幕府の貿易制限令以来,沿岸に出没する中国密貿易船対策に多大の出費を迫られ,ために年貢増徴をはじめ,種々の糊塗策を講じたが,それらはかえって農村の衰微を招くばかりであった。さらに享保大飢饉や,その前後の連年の凶作がそれに拍車をかけ,潰【つぶ】れ・逃【ちよう】散【さん】が相次いだ。こうして発生した散田の復旧や新田開発に投入されたのが〈穢多新百姓【えたしんびゃくしょう】〉である。福岡藩の場合と軌を一にするが,小倉藩の〈穢多村〉分出はそれより著しく,幕末には190カ村余りを数えた。なお同藩における近世中後期の部落増を,石炭業の展開に関連づける解釈があるが,誤りであろう。部落民の農業進出のためとするのが妥当である。

〈久留米藩〉

 *穢多頭を世襲した小川家の歴代記によれば,元和7年(1621)有馬豊氏入部に際し,御井【みい】郡染村の外記という者が筑前秋月の八丁越まで出迎えた功により翌8年呼び出しをうけ,〈牢番頭役〉(役高665石)を拝命,〈惣長吏頭〉として城内居住,名を藤川孫太郎【ふじかわまごたろう】と改めたという。頭役家はその後,7代勘兵衛の代(1684-1707)に十次兵衛【じゅうじべえ】と改名,以後世襲名となる。一時760石まで加増されていた役高はこの時廃止。8代目は享保8年(1723)牢屋敷とも庄【しよう】島【じま】移転,10代目の時,寛保3年(1743)三潴【みずま】・御井郡境の新屋敷に牢屋敷とも移転。14代目より小川と改姓した。元祖外記登用の件【くだり】は弾左衛門のそれと相通ずるものがあり,信憑性はいま1つである。しかし同藩の被差別部落民支配が〈*長吏〉役,つまり行刑警察が課役の主体であったこと,中途役高を引き上げたものの頭役を相当重用していたことなど示唆は多い。同藩では史料上〈かわた〉の称は見当たらない。19世紀まで皮革は自給されなかった。領内の被差別民に*斃牛馬処理や皮革生産に従事させたことが確認できるのは17世紀初めである。

 被差別部落の初見は、寛文5年(1665)宗門改めに関する法令の中にある〈穢多・乞食・諸勧進など,寺を相定め,その掛々より相改むべき旨〉の記述である。しかし被差別部落民を1カ寺へ結縁させるようになったのは元禄2年(1689)である。同藩の穢多は最初,刑吏として登場する。延宝7年(1679)定書が発布され,禁制の衣類剥ぎ取りを穢多に命じた一項がある。享保年間(1716-36),庄島牢屋敷移転の前後,行刑制度が整備され,その一環として享保9年〈穢多・非人之事〉定【じよう】格【かく】によって,その身分・役務が確定された。江戸での穢多頭*弾左衛門と*非人頭*車善七の対立が決着した時点でもあった。定格では,*非人は穢多の手下とすることを明示したうえで,次のように規定した。1.穢多頭十次兵衛は帯刀,上下着用。ただし扶持なし。2.穢多組頭は脇指。3.非人頭は無刀・白衣。4.惣非人より穢多頭へ,1人あたり月に銭5文ずつ上納。5.穢多・非人による国境俵留めの監視厳行。また統制機構に関しても,6.従来,穢多は村別の支配であったが,今後は穢多頭の統括下とすること,7.在々の穢多の中から5,6人の組頭を選任すること,8.非人も非人頭の統括下におき,他所からの入り込みなどがないよう,年々増減を確認すること,と定めた。

 同藩では正徳期(1711-16)藩政改革を断行,しかし,その年貢増徴策は,連年にわたる凶作・災害が重なって,農村農民に大きな動揺をもたらした。そこで従来,被差別民に課していた以上に,警察(村番・櫨番・夜廻りなどの各種番役が主)行刑の役務を強化し,それによって不穏事態の発生に備えたのが,定格を含む一連の対策となった。被圧迫者同士を反目させる陰湿な分断政策である。同藩の穢多には,芝居(物真似芸)興行が特許されていたという特色をもつが,それは宝暦4年(1754)に発生した百姓惣一揆の鎮圧に活躍した〈功労〉の見返りであったという。

 ところで同藩の被差別民には田畑の所有が認められず,農業は小規模な請【うけ】作【さく】程度で,部分的に荒地の開拓や散田復旧に従事したにすぎない。ほとんどが,竹細工・藁細工・皮細工などの雑業,櫨【はぜ】蝋【ろう】さらしの雑役などに雇われた。さて同藩には嘉永3年(1850)〈長吏村【ちょうりむら】〉が17カ村あった。おそらく近世を通じて大きな増減はないと思われる。ただしそれ以外に,一時的な〈穢多小屋〉が何カ所かあったらしい。人口は延宝3年(1675)678人,元禄10年(1697)842人,宝永6年(1709)828人,安永9年(1780)1348人,文政5年(1822)1738人,明治5年(1872)2173人と推移,中期以降の増加が目立つ。しかし福岡・小倉藩の比ではない。

〈柳川藩〉

 関ヶ原の戦いで豊臣方に参じた立花宗茂が,一度は失脚しながら大坂夏の陣(1615)の戦功と田中改易で再び旧領に復帰した(1620)。近世初期における柳川藩の部落の状況は,〈かわた〉〈長吏〉など名称の問題を含めて不詳。ただ大正初年の『旧柳川藩志』に,城下に近い一部落について〈元柳川町西町附近に一廓をなし,四方柳を植え其内にありしゆへ之を柳の内と唱へ,田中吉政時代に今の地に移し,以前の名を呼び柳の内と唱【とな】ふと言ふ〉と,その俗称の由来を記している。〈柳の内のもの【やなぎのうちのもの】〉の起源が田中入部以前,おそらく前期立花時代であることを示唆していて注目を引くが,伝聞の域を出ない。ところで同藩の部落関係史料は現在のところ乏しく,全容を描くにはほど遠い。しかし19世紀の人口資料が比較的充実しているので,それを中心に略述する。まず文化7年(1810)に穢多743人と非人167人,次いで弘化3年(1846)がそれぞれ840人と201人,明治2-3年(1869-70)では937人と169人。この間,穢多人口の最高は明治初年の937人,非人人口の最高は安政5年(1858)の224人。両者合計で領内総人口の1%前後を推移し,県域内ではもっとも停滞的である。(他の3藩に比べ非人人口が相対的に多い)。

 その生業役務は、上記〈柳の内のもの〉について〈常に皮細工を職とするゆへ呼んで穢多となす〉〈此人,罪人斬首のとき其の任に当れり〉とあって,皮革の生産と行刑吏としての出役が主であったことを伝えている。しかし,皮革生産は斃牛馬の処理および荒皮の採取までで,〈御用皮〉の鞣【なめし】など、精製は原皮をすべて福岡に送ってなされた。行刑に関しても死刑執行以外の牢番,罪人の探索・検挙等は〈土居のもの【どいのもの】〉と俗称された非人の役目で,久留米藩が穢多に課していた禁制の衣類剥ぎ取りも,同藩では横目役人の配下にあった〈司役【つかさやく】〉の非人の任務であった。〈柳の内のもの〉は正月に俗に〈七つ鼠【ななつねずみ】〉という〈えびす舞【えびすまい】〉をして城下を回ったり,町や在に徘徊して〈獅子舞〉を行なうなどの芸能でも稼いだ。しかし、その他の穢多村5カ所は主要街道に沿って配置されたとの説があるにしても,固有の身分的職業については、なお明らかではない。

(中村正夫、松下志朗)

[融和政策・融和運動]

 本県における部落改善策への動きは,1890年(明治23)9月2日県知事・安場保和による訓令に始まる。これは,前年に警察部長を県内の部落に派遣した結果に基づく治安対策的色彩の濃いもので、基本的性格は,明治4年(1871)身分*〈解放令〉が〈聖天子〉によるものであること,差別が存在するのは頑迷な人民がいるためであり,〈新平民ヲ度外視スルノ陋習ヲ除去〉すること,差別されないように部落の人々の〈品行ノ改良〉をはかることなどを指示。下からの*部落改善運動は,1910年代に入って始まっている。1912年(明治45)1月企救郡企救村北方を中心に,〈部落内全般ノ悪風陋習ヲ芟除シ淳良敦厚ノ美風ヲ鼓吹スルヲ以テ目的〉とした西北方徳育会【にしきたかたとくいくかい】,13年(大正2)6月飯塚町下三緒に青年会としての励正会【れいせいかい】,14年5月に北方の永万寺に本部を置いた鎮西公明会【ちんぜいこうめいかい】(のち公明会)、同年企救郡松ケ江における互助組織としての進徳会【しんとくかい】,16年福岡市外堅粕町に,*内務省主催*感化救済事業講習会の出席者を中心とした博愛社【はくあいしゃ】などの存在が確認されている。なかでも奈良の*大和同志会と連携した動きを展開した公明会は,注目に値する。機関誌*『公明』【こうめい】を発行し,大分までを含めた改善運動をめざして大きな影響を与えたが,財政難により行き詰まる。また16年飯塚町役場〈特種部落改善ニ関スル施設〉に見られるように,市町村としての改善策も動き始めていた。

 福岡県行政としては,20年度に内務省が初めて部落改善費を予算化し,本県に補助金が交付されたのを受けて、21年1月27日〈部落改善奨励補助規程〉により制度化した。水平社創立以後は,23年8月23日〈地方改善奨励費補助規程〉と改称。融和団体としては,25年5月11日行橋町に本拠を置く自治正義団【じちせいぎだん】が発足して一定の活動を展開し,*『覚醒』【かくせい】(1934)などを発行。全県的な融和団体としては,28年(昭和3)9月10日福岡県親善会【ふくおかけんしんぜんかい】が設立された。九州では大分,佐賀,熊本に次いで4番目の設立である。役員はすべて公職によって占められ,民間の入り込む余地がなく,他県に比べても,その活動はきわめて低調であった。融和事業に関する方針は,28年6月福岡県訓令21号のように出されてはいたが,ほとんどは国などの上からのものを受けたもので,県独自のものは少ない。国からの補助金の推移を見ると,*全九州水平社による生活権擁護闘争の高揚のわりには相対的には少なかった。だが32年からの*地方改善応急施設事業費だけは兵庫県と並んで多く,また36年度からの*融和事業完成十カ年計画発足により飛躍的に伸びている。福岡県行政の独自予算は,それに応じた伸びを見せていないのが特徴。また本県には,融和教育推進のための独自の研究会は存在せず,親善会が代行した。親善会には教育関係者が役員に参加していないこともあり,融和教育への指導は,けっして活発ではなかった。*中央融和事業協会による研究指定校もあったが,実践記録などは発見されていない。

(川向秀武)

[水平社運動]

 明治初期、〈解放令〉の内実を勝ち取るべく,宅地拡張の要求闘争や〈*復権同盟〉の組織化が指向されたが,その後天皇制国家確立の過程で,改善運動へ後退した。しかし大正デモクラシーの時代思潮のなかで,*博多毎日新聞社差別糾弾闘争,炭坑暴動(*米騒動),*小作争議,*黒田長政三百年祭募財拒否闘争等々,主体的たちあがりの機運が高揚、全国水平社の創立はその組織的団結への点火剤となった。1923年(大正12)5月1日全九州水平社(全九水)創立,同年7月1日には福岡県水平社【ふくおかけんすいへいしゃ】も結成されたが,本県の水平社運動は35年(昭和10)の組織改変まではむしろ全九水(1925年に全水九州連合会と改称)を主力とした。初期の運動は*中村村長,島本信二代議士など差別者に対する徹底的糾弾闘争であった。その後〈差別を支持する組織の根本に眼を開く〉とし,軍事教育反対闘争,*福岡連隊差別糾弾闘争(1926-28)へと移行,とくに後者は反軍闘争にまで発展し,12人の犠牲者を出した。全水九州連合会は31年〈*水平社解消意見〉を提起するが(全水第10回大会),県内での実質的運動は昭和恐慌下の生活破壊を背景にした生活権擁護の闘いであった。30年の入会権闘争(*西田部落区政差別糾弾闘争)やその後の地方改善応急施設費闘争は,33年以降全水に定着する*部落委員会活動の萌芽ということができる。

 本県の水平社運動は,九州全域の組織化の原動力となり,かつ全水運動のなかで主要な役割を担い続けたことに特徴を有する。*松本治一郎や*井元麟之らは,むしろ全水の活動家であり,このような基盤の強固さは,労農運動への積極的かかわりのなかで培われたといえよう。つまり,労働運動では原田製綿所争議(1926),敷島炭坑争議(1932),福博電車争議(1936)等々を闘い,農民運動においても,組合員数において*全農福佐連合会は72.5%,全農福岡県連合会でも60.3%を占め(1933),社会運動総体のなかで水平社の果たした役割は大きかった。36年2月21日第19回衆議院選挙において,福岡1区から松本治一郎が当選したのは,労働者・農民などの広範な支持を得ていたからである。そして松本の当選は,全国の水平社同人を大きく励ました。しかし37年の日中戦争以降,水平社運動も挙国一致体制に巻き込まれ,42年1月自主的消滅を余儀なくされた。

(原口頴雄)

[戦後の解放運動]

 1945年(昭和20)9月、松本治一郎を中心に無産政党結成準備会の活動と並行して戦後の部落解放運動が始まった。翌46年4月、部落解放全国委員会の結成(1946.2)に続いて、解放委福岡県連を結成(会長・野田貫造)。46年9月、差別発言をした国鉄折尾駅助役が部落の青年に殴打され死亡する事件が起こり、解放委県連は、真相の究明と被告の支援に全力を挙げて取り組んだ。

 49年に松本治一郎・井元麟之・*田中松月が吉田内閣によって公職追放を受け、50年4月全九州人民大会には、共闘関係を含め約5000人が参加、松本治一郎不当追放反対の請願隊が結成され、4月30日から国会前でハンスト闘争に入った。51年8月、松本の不当追放が解除され、2年半にわたって闘われた公職追放反対闘争に勝利。また*板付基地撤去闘争、旧産炭地における*鉱害復旧闘争、*山林解放闘争、行政闘争なども1950年代から闘われている。とくに鉱害復旧闘争は、部落のみならず周辺地区全体の闘いとして取り組まれ、県連の組織化とあわせて大きな成果を上げた。

 56年9月の*福岡市長選挙では、被差別部落出身の高丘稔候補に対して相手候補が差別キャンペーンを行ない、高丘は落選。この差別キャンペーンに対して、部落解放同盟は糾弾闘争を展開し、闘いは全国に広がった。この差別事件を契機に、差別行政反対闘争や福岡市同和教育研究会の結成をみるなど、福岡における部落解放運動の一大画期となった。〈総資本対総労働の闘い〉といわれた*三井三池争議(1959-60)では、60年3月以降7月まで、県連は連日の動員で第1組合を支援しこの闘争を支えた。この闘争からは、それまで解放同盟を〈左翼暴力団〉視する労働者側の差別意識を一定克服し、また労働者との分断を図ろうとして第2組合が撒いた〈差別ビラ〉を乗り越え、労働者との共闘を強固に固めるなどの得がたい教訓を得た。

 産炭地筑豊では、炭鉱の閉山による求職闘争と鉱害復旧闘争を中心とし、運動が進められた。また、部落解放要求全国行動の取り組みからは、約9割の部落を組織したことや、63年には全国最初の識字学級が開かれるなど、日常闘争と結びついた形で運動が進められた。69年に制定された*同和対策事業特別措置法を武器として、市町村に対して差別行政反対闘争と要求闘争が県内各地で展開された。70年代には狭山差別裁判糾弾闘争が活発に展開され、労働者との共闘も大きく前進した。また近年では、県内各地で人権問題市民懇談会や〈狭山市民の会〉が結成されるなど、市民を巻き込んでの人権活動も活発に取り組まれるようになった。

 環境改善事業は一定の成果をみせたとはいえ、県南部の大牟田市では未組織部落もあり、炭鉱の閉山に伴って厳しい生活状況がある。また、旧産炭地の筑豊では、*失業対策事業対象者の約8割が部落大衆であり、部落内に鉱害が多いことなど、石炭六法の期限切れ(2002)を前にして厳しい状況が続いている。近年は、高齢者福祉の問題など、県内の被差別部落の抱える課題は多い。98年(平成10)末現在、県内565部落に解放同盟県連の支部が結成され、1万6887世帯が加入している。機関紙『解放新聞福岡県版』(月刊)は9500部発行されている。

(竹森健二郎)

[戦後の行政]

 52年杉本知事は、部落解放全国委員会福岡県連の要請を受けて久留米市・八女郡の部落を視察し、同和行政の必要を痛感し、翌53年、民生部社会課を窓口として下水排水路、共同浴場等の環境改善事業に着手。66年、副知事および各部長で構成する同和対策会議を設置し、同和対策について必要な施策の樹立・連絡調整およびその推進をはかった。さらに68年民生部に同和対策室を設置し、翌69年福岡県同和地区調査を実施。国の同和対策長期計画に準じて福岡県同和対策長期計画を策定した。さらに72年、同和対策室を同和対策局に昇格させ、調和のとれた同和行政を推進するため、県内各界の代表者等で構成する福岡県同和対策事業推進懇談会を設置。この間、逐年同和対策事業の充実・拡大をはかり、74市町村、617地区を対象とした生活環境の改善等物的事業については、相当の成果をあげた。

 しかし、同和問題解決のためには、物的事業とあわせてその正しい認識と理解を深める啓発事業の充実・強化がなにより必要であり、もっとも重要な課題として残されている。県民に対する啓発事業の推進について、とくに81年度から毎年7月を同和問題啓発強調月間に設定し、県・市町村はもとより、県民あげて差別をなくす運動を展開している。このため、市町村が積極的・効果的に啓発事業を推進できるよう財政援助も行なっており、とくに84年度から本県独自の措置として、市町村の財政負担の軽減をはかるため、啓発事業費補助金の補助率を3分の2とするなど、啓発事業の充実・強化に努めている。

 同和問題の早期解決をはかるため、県は85年に〈福岡県同和問題早期解決のための基本的法制定実現期成会〉を結成、国会・政府に対して要請行動を開始。89年(平成1)、90年と県独自で県民意識調査、同和地区生活実態調査を行ない、今後の同和問題解決のための指針とした。91年には物的事業の残事業調査を行ない、事業の完成をめざした。

 92年福岡県職員による、福岡・佐賀・熊本・兵庫各県への差別ビラ大量ばらまき事件が発生し、あらためて県職員・県民啓発の重要性が確認され、95年10月には、部落差別の発生の防止、違法な調査などを規制するために〈福岡県部落差別事象の発生の防止に関する条例【ふくおかけんぶらくさべつじしょうのはっせいのぼうしにかんするじょうれい】〉(資料編C-3)を制定した。また、96年11月には、県全額出資の財団法人〈福岡県人権啓発情報センター〉を設置(理事長・麻生渡福岡県知事)、県民の人権啓発のための情報発信センターとしての機能を果たしている。また〈ふくおか新世紀計画〉の中では、〈新しい人権社会の形成〉を基本構想に位置づけ、同和問題をはじめとするさまざまな人権問題の解決をはかり、人権が尊重される社会の確立をめざしている。

(竹森健二郎)

[戦後の教育]

 福岡県は北九州工業地帯,筑豊産炭地帯を中心に生産労働者の数も多く,革新勢力・教職員組合運動も強い地域であったが,部落解放教育の胎動は,1956年(昭和31)の*福岡市長選挙差別事件の触発を待たねばならなかった。翌57年4月,3人の教師によってサークルとしての福岡市同和教育研究会が結成され,その後の組織活動の結果61年5月27日,県内6地区30人の代表によって福岡県同和教育研究協議会が結成された。63年12月に行橋市で始められた識字学級は,筑豊で大きく育てられ,県内のみならず,全国的に部落解放運動,部落解放教育に大きな影響を与えた。64年度から同和教育推進教員が配置され大きな役割を果たした(1997年現在425人)。67年度には北九州市の企救【きく】中学での3年にわたる要求運動で,初の30人学級が実現し,69年9月には同和養護教諭の配置の実現もみた。76年3月には県同教の傘下として福岡県高等学校同和教育研究協議会が結成された。97(平成9)年度現在、県同教の会員数は約2万人、地区同研数は87。『解放教育への軌跡』『部落【むら】の文化の創造と再生を』など出版物も多数に上り、94年から機関誌『WINDS』(季刊)を発行。県同教が県内に呼びかける研究集会は年間約70に及んでいる。なお県教育委員会は59年度,社会教育課で初めて同和教育予算を計上し,61年には福岡県同和教育十カ年計画を策定した。70年2月には福岡県同和教育基本方針が策定され,72年には同和教育課の前身である同和教育室が設置された。また、90年に実施した〈福岡県同和教育実態調査〉で明らかになった課題(部落の子どもたちの低学力の実態や、負の方向に傾斜しがちなセルフイメージ、その背後にある諸々の生活の現実など)を受けて、県同教などの協力のもとに98年、小中学校および高校用の同和教育副読本『かがやき』を作成し、県内のすべての公立小・中・高校に配布した(政令都市を除く)。

(林 力)

参考文献

  • 松下志朗『九州被差別部落史研究』(明石書店、1985)
  • 同編『近世九州被差別部落の成立と展開』(同前,1989)
  • 福岡部落史研究会編『福岡の部落解放史』上(1989)
  • 川向秀武「福岡県における融和事業と融和教育」(『部落解放史・ふくおか』27号、1982)
  • 小正路淑泰「自治正義団史論」(同66号、1992)
  • 福岡部落史研究会『福岡県被差別部落史の諸相』(1979)
  • 松下志朗「久留米藩の被差別部落」(『久留米市史』2巻、久留米市,1982)
  • 米津三郎「小倉藩の差別政策」(北九州同和対策推進協議会『いぶき』3号,1983)
  • 松尾隼一「豊前地方の被差別部落成立史」(同)
  • 井手幸喜「福岡」(部落問題研究所『部落の歴史・西日本篇』、1983)
  • 筑後地区社会同和教育推進協議会『ちくご――筑後地方における被差別部落の歴史』(1985)
  • 川向秀武「近代福岡県の被差別部落の生活課題と解放運動」(『福岡県社会福祉事業史』上(1982)
  • 新藤東洋男『部落解放運動の史的展開』(柏書房,1981)
  • 福岡県同和教育研究協議会編『解放教育への軌跡』I・II(1979・91)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:55 (1469d)