兵庫県【ひょうごけん】

[現状]

 1993年(平成5)の全国同和地区実態把握等調査(『結果の概要』兵庫県版)によれば,県内同和地区は83市町村に地区数341、同和関係世帯数3万7200(地区全体6万8040)、人口11万7297人(地区全体20万6156人)である。混住率は56.9%。同和関係世帯数は全国で2位、人口は1位である。市部では,地区住民は小規模企業での技能・生産・運輸の単純労働に従事している割合が依然として高い。郡部における地区内農家の耕作面積は30a未満の農家が42.4%を占めており,県全体と比べても小規模農家の多いことがわかる。地区の生活保護受給率は25.1‰あり,県平均の8.2‰と比べると3倍強の格差がある。

 95年1月17日の*阪神・淡路大震災は,淡路島や阪神間の同和地区,とりわけ同和対策事業が不完全にしか実施されていなかった地域に大きな被害を与えた。神戸市長田区の番町地区では42人が死亡,木造住宅1400世帯が全半壊した。被害を受けた住宅は,地区内にありながら同和対策事業の住宅改良事業対象地域外として,なんらの事業も実施されてこなかったもので,いずれも老朽化が著しく,密集した区画に建てられていたために倒壊家屋が地区内の道路を塞ぐという状況がいたる所で見られた。西宮地区では死亡者が62人,1000戸の木造住宅が全壊,316戸が半壊した。寺院を中心としたこの地区は,戦前の融和事業として33年から37年にかけて地区整理事業が実施され,道路の整備・区画が行なわれてきた。そのため,比較的広い道路が確保されていたが,一区画における住宅の密集が進み,木造住宅の老朽化も進んでいた。しかし,表面上は整備されたように見えていたことが,戦後の住宅改善事業を遅らせていたと言える。

(川端 勝)

[前近代]

 県内における部落の成立期については、16世紀中葉戦国期、織豊政権期、江戸幕府成立当初、寛永・慶安期(1624-1652)または寛文・延宝期(1661-1681)に求める見解があるが、まだ確定していない。また、その源流には,中世の〈賤民〉の系譜を引くものが多いが,その〈賤民〉も必ずしも確然としたものではない。本県には文禄3年(1594)、慶長13・14・15年(1608・1609・1610)の検地帳など,近世初期の検地帳に登録された農民の肩書に〈*かわた〉〈*さいく〉〈*おんぼう〉〈おどり〉〈はち〉などという呼称が出ており,また,絵図面に〈かわた村〉〈*夙村〉が散見する。その後,こうした肩書農民が〈嶋村〉(丹波地方)、〈向村〉(但馬地方)、〈土橋村〉(東播地方)、〈かわた村〉などという地に移動させられ,寛永・慶安・延宝年間前後に,行政村として出てくる事例が多い。ただし,これには地域的・時代的なずれがあり,一度に出現してくるのではない。城下や地域に散在していた〈かわた〉〈さいく〉などが部落の源流であると考えられ,山麓の斜面の地や河川流域の低湿地に移住させ、百姓村から切り離すことによって近世の部落ができたと考えられる。身分を社会の最底辺に置かれたうえ,封建権力の末端を担う刑吏役・死牛馬の掃除役・*皮革業に、そして多くの住民は農業・農業日雇い、藁細工等の雑業などに従事した。元禄年間(1688-1704)には〈えた村〉〈穢郷〉などとして幕藩体制の支配のもとで,被差別地域に固定された。検地帳や宗門改帳なども別帳にされ,檀那寺も一般農民の系列から外され、〈*穢寺〉として別枠の本末寺院系列とされた。

 差別政策は篠山藩でみられるように,近世中期に入ると厳しくなり,とくに享保年間(1716-36),死牛馬の処理,年季奉公・日雇いなどの制約,仕置人足の強要,少し遅れて浅黄無紋の着衣の制限などが行なわれた。百姓・町人などのなかにまぎれて住んだりしたので,近世後期には,たびたび〈*えた狩り〉などの取り締まりを受けた。幕末,第2次幕長戦争のとき,江戸浅草穢多頭*弾左衛門が上方にきて部落に人足役を命じたが,応じなかった。姫路城下に近い*高木村の皮革生産は、摂津*渡辺村の皮革問屋との間に賃哂契約を結び、天保11年(1840)には姫路藩の専売事業となり,藩財政を潤おした。明治4年(1871)*〈解放令〉の発布に一役かった*大江卓の部落解放建議は,維新を迎えて悲惨な生活にあえぐ神戸の窮状を見るに見かねたことと,開港に伴って来日する外国人に部落の惨状をさらけ出したくないという心情から出たものであった。

(小林 茂、安達五男)

[改善事業]

 1876年(明治9)の武庫郡芝村(現西宮市)の村営浴場〈戎湯〉設置など,明治初期から部落の改善が始まるが,改善事業が部落内部から始まるのは明治後期からである。92年以降,神戸市番町地区の長田村一部協議会,武庫郡六甲村都賀改進会,加古郡部落改善連合会,三原郡賀集村福井北組改善会,武庫郡芝村自彊会,武庫郡住吉村仲区青年会,宍栗郡菅野青年団など改善団体や青年会が部落改善に乗り出した。一方,大森喜作【おおもりきさく】を中心とする神戸市新川地区の〈神戸矯修会【こうべきょうしゅうかい】〉,城崎郡の大部孫太夫による〈貯蓄組合〉の組織(1905)、氷上郡和田尋常小学校校長・高室寿太郎による就学奨励の取り組み(1907)など民間篤志家による改善事業も行なわれた。これらの改善団体は,教育奨励,衛生観念普及,風紀向上,貯蓄の奨励を主な事業内容としていた。兵庫県当局は,1920年(大正9)以降これらの団体に奨励金を〈下付〉。17年に設立された〈兵庫県救済協会【ひょうごけんきゅうさいきょうかい】〉が社会事業の一環として改善団体,郡町村当局との協力で,部落での感化救済講習会を開いている。

 また、部落改善事業のなかで教育に積極的に取り組んだ教師たちに触れておきたい。福田忠太郎は独学によって小学校教員になり、1902年には揖保郡誉田尋常高等小学校の校長になり、学区内の部落に〈矯風会〉をおこし、住民の啓発活動に取り組んだ。武庫郡住吉村の改善指導者として活躍した森川長左衛門は福田忠太郎校長の誉田尋常高等小学校に勤務したあと、1909年に住吉尋常高等小学校に転勤、住居も部落に移し青少年の夜学奨励や風俗改善に努めた。穀内寅蔵は三原郡T村の学齢児童に就学をすすめるため家庭訪問を繰り返し教育奨励に奔走した結果、1901年部落児童の就学をかちとった。氷上郡国領村出身の*細見春吉は11年、氷上郡春日部小学校訓導として赴任。〈青年夜学会〉を村内の空家で開き、不就学の青年を集め、漢籍・そろばんを教え、女子には手芸を教えた。小学生の出席督励のため朝夕の通勤時に部落に立ち寄り、欠席児童の家庭を訪ね出席を督励して回った。神戸の桜井善五郎は、宇治野尋常小学校に1889年から1912年まで約20年にわたって勤務し(当時宇治野尋常小学校に勤める教師の多くは1年余で転勤していた)、マッチ工場で働き不登校になった児童を集め、宇治野夜学会をつくり、修身・国語・算術を懸命に教えた。

 しかし,県当局が部落改善事業に着手するのは,米騒動後である。19年2月に県は部落の有力者を集め,〈部落改善協議会〉を開催,翌20年3月には〈生活改善協議会【せいかつかいぜんきょうぎかい】〉を開催し,風紀向上,旧慣陋習の打破,生活改善,部落と一般住民との融和促進を協議。21年,〈兵庫県地方改善促進会【ひょうごけんちほうかいぜんそくしんかい】〉が設立され,また県は〈兵庫県社会改良事業奨励規程〉を制定し,改善事業団体・功労者の表彰や共同浴場改築,改良井戸設置,橋梁架設,青年会場設置などの事業補助を恒常的に開始した。22年の全国水平社創立以後,兵庫県へのその影響拡大に対抗して,23年7月に〈地方改善協議会〉を開催,官製融和団体兵庫県清和会【ひょうごけんせいわかい】を発足させた。県当局は,以後,清和会への補助を軸に融和事業を推進,社会改良としての改善施設設置補助,職業講習,31年(昭和6)から功労者表彰などを行なった。政府は,地区整理10カ年計画として,飾磨郡花田村高木地区(1922-32),西宮市芝地区(1933-37)に対し事業を行なった。

(小林 茂、安達五男)

[融和運動]

 兵庫県清和会【ひょうごけんせいわかい】は〈正義人道ノ観念ニ基キ旧来ノ因襲的陋習ヲ打破シ同胞融和ノ実ヲ挙クル〉ことを目的に掲げ,会長に県知事が就任。同会は,*金子念阿【かねこねんあ】、*内海正名【うつみまさな】らを理論的指導者に,小田直蔵【おだなおぞう】らを実務推進者として活動を展開。1925年(大正14)には県内1市22郡に市,郡長を長とする支部を設置,30年(昭和5)に支部数26,会員15万人の全国一の地方融和団体に成長。36年(昭和11)から有馬郡支部貴志村分会などを設置した。清和会は,県の予算補助のもと,共同浴場の新・改築,橋梁架設,道路改修,青年会会場,公会堂新・改築などの改善事業への補助,融和講演会,技術習得講習会,育英・産業奨励,差別事件解決,各府県融和団体との連絡提携などを行なった。

 32年末より,*部落経済更生運動を展開,同年2月の全国融和事業協議会で内海正名が〈満蒙移住〉を提案。38年5-6月には同会副会長・和田甚九郎【わだじんくろう】が〈満州〉視察を行ない、移民奨励活動を強めた。これらの事業は,機関紙*『清和』によって宣伝された。41年9月に県清和会は〈同和奉公会兵庫県本部【どうわほうこうかいひょうごけんほんぶ】〉と改称した。同本部は,清和会の事業を受け継ぎながら*資源調整事業を開始したが,戦争の深刻化とともに融和事業は有名無実となった。なお33年10月に和田甚九郎を中心に民間融和団体〈兵庫県更生連盟【ひょうごけんこうせいれんめい】〉が創設されている。

(小林 茂、高木伸夫)

[戦前の教育]

 旧姫路県、明石県、竜野県、赤穂県など10藩の領域からなる飾磨県は1876年(明治9)6月、小学校の学区区域を定めた〈飾磨県布達第54号〉を公布し、飾磨県域全体に〈*部落学校【ぶらくがっこう】〉を設立した。そして、86年2月から3月にかけて兵庫県は〈学区改正布達〉を県内全域に公布し、〈部落学校〉を拡大していった。本校とは別に、戸数12戸の小さな部落にも分校・支校を置き、校舎、訓導を配した本校への通学を阻んでいった。部落の学齢児童の就学を再三にわたって求めた丹波国氷上郡のH村惣代・北山半兵衛に対し、本村の村役人は教場の狭さや〈旧身分の区別〉を理由に就学を拒んだ。そうした本村の差別意識のうえに学区改正の布達が行なわれ、〈部落学校〉が確立されていった。このようにして明治5年(1872)の学制公布以後,県内では,飾磨郡,赤穂郡,印南郡,武庫郡,加東郡,川辺郡などで〈部落学校【ぶらくがっこう】〉が設立された。90年頃から〈部落学校〉の本村や一般村の学校との併合が始まったが,部落児童の多くは,不就学もしくは本校内の簡易学校や夜学校への通学を余儀なくされた。

 この間77年,82年の神西郡での〈部落学校〉設置強要に対する抗議,1918年(大正7)の武庫尋常小学校長の差別発言への抗議,22年の武庫郡精道村小学校移転差別事件への抗議など部落大衆による教育差別に対する闘いが行なわれた。水平社による教育差別糾弾の代表例は,神崎郡寺前小学校事件である。兵庫県清和会も25年の伊丹高等女学校差別事件に介入した。*融和教育の全県的取り組みは, 30年代に入ってからである。31年(昭和6)に県内小学校長会が3月14日の国民融和日に融和教育研究会などを行なうことを指示。32年以降,県内小学校において融和記念日訓話が行なわれた。35年には,〈*融和教育研究指定校〉に神崎郡甘地小学校が指定された。清和会は,38年に〈融和教育協議会〉を開催,兵庫県融和教育振興委員会を設置。県学務課も39年に〈融和教育講習会〉を行ない,同年,〈兵庫県融和教育研究会〉を設立。41年末以降,県内で同和教育研究協議会が各市郡において開催された。社会教化事業の取り組みも,35年以降,県や清和会によって強化された。これら一連の融和・同和教育の取り組みも,形式的,対策的なために,学校内外での差別事件は後を絶たなかった。

(小林 茂、安達五男)

[水平社運動]

 県内の差別に対する闘いは1882年(明治15)の兎原郡住吉村住吉神社神輿拒否事件(*兵庫県住吉神社神輿拒否事件),1908年の武庫郡六甲村都賀地区での宿営忌避に対する軍隊への抗議,13年(大正2)の神戸市宇治野・宇治川地区民による町名改正をめぐる抗議行動,18年の武庫郡武庫村守部新田地区村民による校長の差別発言に対する糾弾行動などがある。18年の*米騒動には,神戸市,明石市、飾磨郡花田村,川辺郡六瀬村,武庫郡芝村,朝来郡梁瀬村,栗鹿村などで多くの部落民が参加した。しかし,部落民が自発的に差別糾弾にたちあがったのは,全国水平社創立後である。全水創立大会には,県から*岸本順作【きしもとじゅんさく】,*清水喜市【しみずきいち】などが参加。22年5月に神戸市番町地区で演説会が開かれ,11月26日に同市新川地区で兵庫県水平社【ひょうごけんすいへいしゃ】の創立大会が開かれた(神戸水平社の結成も兼ねる)。同年中に武庫郡住吉村,芝村,美方郡浜坂町,翌23年には神戸市番町地区、筒井地区、加古郡阿閇村,氷上郡成松町,神崎郡甘地村,飾磨郡城南村,飾磨郡花田村などに水平社が組織され,4月の播磨水平社【はりますいへいしゃ】,同年7月神崎郡水平社【かんざきぐんすいへいしゃ】,24年には飾磨郡,加東郡など郡,地方レベルでの水平社も組織された。県水平社の初代委員長には*長田調五郎【ながたちょうごろう】が就任。

 県内水平社は,創立後直ちに徹底糾弾の闘いを開始。23年8月の加古郡別府村での差別発言に対する糾弾(*別府事件【べふじけん】)と、この直後の神崎郡寺前村尋常高等小学校糾弾闘争は,初期県水平社の徹底糾弾闘争の代表例である。両事件は警察の弾圧により,脅迫罪などで、水平社から犠牲者を出した。別府事件の結果,25年に長田調五郎が下獄,新たに岸本順作が委員長に就任。この間,24年5月から約2年半にわたって闘われた加東郡上東条村の小作争議は,農民組合と水平社の共闘を実現した。また,兵庫県水平社による26年の東亜エナメル争議の調停,同年の三菱倉庫争議への連帯などの動きがある。 しかし,全体として20年代は水平社と労農運動との結びつきは弱く,20年代末には県内の水平運動は沈滞した。29年末に*前田平一【まえだへいいち】が〈兵庫県水平社革清同盟【ひょうごけんすいへいしゃかくせいどうめい】〉を組織し,岸本委員長に運動の沈滞と兵庫県清和会との癒着の責任を問い,県連の刷新を掲げた。一方,神崎郡水平社も大会を開き,県水平社の不振を一掃するために岸本らの排斥を決議。同年12月の県委員会で,新たに前田平一を委員長に清水喜市,*新井磯次【あらいいそじ】などを委員に選出。

 県連は,30年8月に闘士養成の目的で社会問題講習会を開催。同年の6月には,武庫郡住吉町の朝日燐寸工場閉鎖に対する反失業闘争を組織した。10月には,帝国鉄工の解雇反対闘争を指導,また7月には,神戸水上警察署,翌年には御影署糾弾闘争を闘った。このような反失業,反権力,差別糾弾の闘いの頂点が*北中皮革争議【きたなかひかくそうぎ】であった。*高松差別裁判糾弾闘争では,全水県連から*小西松之助【こにしまつのすけ】,吉田繁治【よしだしげじ】が行進隊などの諸活動に参加,県内では,署名,基金,ニュース宣伝活動が展開された。33年12月には,県連委員長に*中根新次郎【なかねしんじろう】,35年には,小西松之助が就任。この時期の全水県連は,神戸市,武庫郡,川辺郡、飾磨郡、神崎郡,加東郡などで影響力をもち,他に,独自に氷上水平社、水平同志社(氷上郡)が組織されていた。34年9月の氷上郡幸世村の松茸山入会権差別事件では,全水総本部*松田喜一常任の指導のもと,部落委員会活動が実践された。*佐藤中将糾弾闘争の高揚のなかで,35年3月に全水県連大会を開催,佐藤中将糾弾,姫路第10師団への抗議を決定。5月,軍隊内における差別撤廃の即時実施を同師団に要求した。

 しかし35年には,糾弾に対する弾圧が加東郡内で始まり、中元文雄前県連副委員長らが恐喝などで懲役刑を受けた。そのころ,県連神崎郡支部は,郡内各村での村長,助役,農会長の要職獲得戦術で対処した。しかし,37年に清水喜市が兵庫県清和会の理事,39年には,新井磯次が同指導員に就任するなど,活動家の融和運動への移行が顕著となった。30年代末には,県連の分裂から統一行動がなされなくなり,解散する支部も出た。38年の全水15回大会以後も総本部との連絡は,吉田繁治,*谷口貞次郎【たにぐちていじろう】らによって保たれたが,独自活動は皆無に等しかった。県連の活動家の多くは,県清和会の内海正名らとともに,*大和報国運動に参加した。

(小林 茂、高木伸夫)

[戦後の解放運動]

 戦後の組織的活動は,1946年(昭和21)の部落解放委員会兵庫県連の結成に始まる。初代委員長には,*長田調五郎が就任。県連は,47年12月に平田友治県議差別発言事件【ひらたともはるけんぎさべつはつげんじけん】を糾弾,県の部落対策予算の拡大を闘いとった。48年10月の3回大会時点で県連は24支部を確立,翌49年3月より*松本治一郎公職追放反対闘争を開始したが,県連は分裂し、運動は沈滞。同年10月に,県連再建大会を開き,委員長に福岡修二を選出。12月に『解放新聞兵庫』を創刊。この間,山田県議差別事件や皮革産業防衛闘争などを闘った。しかし,53年に自由党から衆院選に立候補した県連顧問・和田甚九郎の除名問題で県連が分裂。和田らは解放委県連と同名の別組織を53年5月に結成,杉本信雄を委員長に選出。一方,解放委県連(委員長・前田平一)は55年に部落解放同盟県連へ改称,翌56年の大会で委員長に新井磯次を選出。この間,53年末から54年にかけて解放委西宮支部を中心に,大阪グリコ闘争が闘われた。解放同盟県連は,55年に*小野闘争,56年に*南光町山林解放闘争を闘い,差別行政反対闘争を展開。59年には統一の機運が現れ,同年12月に統一大会を開き,部落解放兵庫県連合会の名称で,委員長に杉本信雄が就任した。

 61年の部落解放国策樹立請願行進隊の県内行動を契機に,解放同盟番町支部が結成。この後,解放県連内の解放同盟支部が65年の*自衛隊富士学校差別糾弾闘争を行ない,同年6月,部落解放同盟兵庫県支部連絡会議(支部連)を組織。支部連は,西宮市役所稲美係長差別事件,〈悪の公式〉糾弾,神戸市・尼崎市・宝塚市での住宅要求闘争,神戸市で同和更生資金予算化闘争などを闘った。支部連は,*矢田教育差別事件の評価をめぐって解放同盟中央本部と対立。70年の解放同盟芦屋支部結成以後,解放同盟中央本部の指導のもとで,新たに解放同盟各支部が結成され,芦屋市などで教育闘争,西宮市での行政闘争,未組織地区へのオルグ活動が取り組まれた。この活動を基礎に73年5月,解放県連は解放同盟に加入し,部落解放同盟兵庫県連へ発展、委員長に*小西弥一郎が就任した。同県連は発足後,西宮市差別行政糾弾闘争,*八鹿高校差別教育事件を闘い,75年に尼崎育成調理師学校差別事件糾弾を行なった。闘争の進め方などで内部意見が統一しなかったが,78年2月に大会を開き再建統一した。その後,芦屋市議会差別糾弾闘争(1982),総務庁地域改善対策室の熊代室長講演会阻止闘争(1987),北播・丹波差別落書事件糾弾闘争(1987),財団法人〈兵庫県人権啓発協会〉設立反対闘争(1991),姫路労働基準監督署の職員差別発言事件糾弾闘争(1993),神戸相互タクシー乗務員差別発言事件糾弾闘争(1996)などを闘った。また,97年(平成9)には県議会に対し〈部落差別をなくしていくため人権擁護施策の充実を求める請願〉を提出し,3月議会での採択を実現。これに基づく〈人権擁護施策の充実を求める意見書〉は同年12月議会において採択され,内閣総理大臣をはじめとする関係各大臣に提出された。一方、支部連は部落解放同盟への加入に反対し,75年に部落解放同盟正常化県連を組織。76年には*全国部落解放運動連合会(全解連)県連と改称した。

(川端 勝)

[行政]

 1947年(昭和22)に県は部落対策費として約50万円,平田県議差別事件後の48年には200万円の予算措置を行ない,環境改善,トラホーム治療などの保健衛生事業,簡易公民館設置などの事業を開始。49年8月に,〈同和事業中堅人物研究講習会〉を主催。50年には約575万,53年は約700万と予算を増大させ,以降,地区に厚生館や隣保館を建設。60年から神戸市上池地区,西宮市芦原地区などに*モデル地区事業を開始。同年,西宮で同地区事業で住宅地区改良事業,61年に神戸市内で同和向公営住宅建設事業,62年に農林業対策にも着手。64年に県民生部に同和対策室設置,68年に〈兵庫県同和対策基本要綱〉を策定,以後,奨学金制度,同和問題相談員制度など新事業を実施。70年には,同和対策室を同和対策局に昇格させた。69年から78年の間,県は国費を含めた総額1127億円の予算を投入し,産業基盤整備,環境改善,同和教育の推進などを行なった。しかし,75年の尼崎育成調理師学校差別事件以後,県は,『県政資料』で糾弾闘争を否定する見解を発表,部落解放同盟県連への助成,委託費を打ち切った。76年には,自動車運転免許取得助成の廃止,82年には,〈*地域改善対策特別措置法〉の施行に伴い,同和局を地域改善局に名称変更し,就職支度金・分娩費補助など多くの県単独事業の廃止,同和対策事業の削減,縮小をした。90年(平成2)には,〈財団法人兵庫県人権啓発協会〉の設立をめぐって県は解放同盟県連と対立。91年,県議会のあっせんを受けた解放同盟県連が反対闘争を終結したことにより,県は92年に〈財団法人兵庫県人権啓発協会〉を設立した。97年,県は地対財特法の一部改正に基づき,同和対策事業(物的事業)として公共下水道整備事業(県内22地区)のみが残されているとの見解を明らかにした。98年には,地域改善局を人権啓発・地域改善対策課に名称変更した。

(小林 茂、川端 勝)

[戦後の教育]

 戦後初期の部落に対する教育実践には,不就学対策としての西宮市立芦原小学校の特別学級設置などがあるが,組織的に行なわれるのは,1950年(昭和25)の〈兵庫県同和教育中央委員会〉発足以降である。同委員会は,51年に同和教育読本として『友愛読本』を刊行。53年,同委員会は,兵庫県同和教育協議会【ひょうごけんどうわきょういくきょうぎかい】と改称(1976.6、兵庫県同和教育研究協議会に改称),同年に全同教に加入。兵同教は54年より年1回同和教育振興大会(1966年から県同和教育研究大会)を開催。県教育委員会は,50年より同和教育研究指定校を設置した。59年には神戸市立玉津中学校事件,62年には布引中学校事件,64年には丸山中学校事件など同和教育不在状況が露呈。県が〈同和教育基本方針〉を制定したのは68年3月であった。70年4月に同和教育指導室を設置。この間,61年以降,小・中学校用学年別副読本『友だち』『信愛』(のち*『友だち』に改題)を発行。73年より〈同和教育推進地域〉指定を行なった。

 一方,59年6月に県立湊川高校定時制に部落問題研究会が結成。以後,神戸,阪神,姫路地域の高校に部落研が組織され,いわゆる〈語り【かたり】〉を中心とした部落研活動を展開。68年の湊川高校,飾磨高校,69年の尼崎工業高校,御影工業高校などの*一斉糾弾【いっせいきゅうだん】は,部落出身生徒を中心に据えた教育実践の契機となった。この部落研活動と教育実践は,『ほえろ落第生たち』【ほえろらくだいせいたち】(福地幸造編,1965),『問われているもの』【とわれているもの】(兵庫県高教組解放教育専門委員会,1970。1972年に新刊)などにまとめられた。この教育実践は,就職差別反対と進路保障闘争に発展,72年には,兵庫県進路保障協議会【ひょうごけんしんろほしょうきょうぎかい】が組織された。県教委は,解放運動と解放教育運動の高揚を前に,71年より〈差別を許さぬ県民運動【さべつをゆるさぬけんみんうんどう】〉を提唱したが,74年の*八鹿高校差別教育事件,75年の尼崎育成調理師学校差別事件以後,同和教育の見直しを主張。75年3月に307号通知〈同和教育の推進について〉を出して、解放運動と教育との間に一線を画することを県内の学校現場に指示し、学力促進学級など地区の教育事業の縮小,同和教育推進教員の削減を行なった。

 76年には第28回全同教研究大会が15年ぶりに神戸市で開かれたが、県教委による同和教育見直しの動きもあって運営面で苦労している。また解放学級の名称が矮小化され、同和地区内教育事業と改称された。

 79年の同対法3年延長を契機に県教委は同和教育副読本『友だち』や『高校生と同和問題』の改訂を4年がかりで行なった。81年には、県内の各種団体や教育関係団体を網羅していた県進路保障協議会を〈所期の目的を達した〉として解散させている。82年には同和教育指導室を地域改善対策室に名称変更し、長年定着してきた同和教育という表現も〈地域改善対策としての教育〉への言い換えを強要してきた。同和奨学資金についても、大学・短大は貸与制に切り替えられた。このような情勢ではあるが、84年には兵庫部落出身教職員の会(礎友会)が発足するなど自主的な同和教育運動が裾野を広げつつあり、官製化された同和教育に対峙する役割を果たしている。

 87年には地対財特法が制定され、県と県教委は基本的には同和行政と同和教育の打ち切りを意図していたものの、全国情勢をうけて受け皿だけは繕った。しかし、同和奨学資金は、大学・短大に続き高校・高専も貸与制としたほか、高校生用同和教育副読本を『生き方の探求』に改訂。90年(平成2)以降小・中学校用副読本『友だち』を再度改訂して道徳的内容を強化したものにしている。

 97年の*人権擁護施策推進法の施行を受けて県教委は地域改善対策室を人権教育推進室に名称変更し、98年には68年制定の同和教育基本方針を30年ぶりに見直すとして人権教育基本方針を策定した。

(小林 茂、坂本三好)

参考文献

  • 神戸新聞社会部編『差別の壁の前で』(解放出版社,1984)
  • 第28回全国同和教育研究大会地元実行委員会「解放へのあゆみ」編集委員会編『解放へのあゆみ』(兵庫県同和教育研究協議会,神戸市同和教育研究協議会、1976)
  • 小林茂『部落差別の歴史的研究』(明石書店,1985)
  • 兵庫部落解放研究所編『記録 阪神・淡路大震災と被差別部落』(解放出版社,1996)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:55 (1469d)