和歌山県【わかやまけん】

[現状]

 1935年(昭和10)の*中央融和事業協会の調査によれば,県内の部落は75市町村に111地区,また75年に総理府が行なった全国同和地区調査では,31市町村に99地区,人口4万6915人と報告されている。さらに,和歌山県が93年(平成5)に実施した生活実態調査では,31市町村に104地区,4万1465人で地区の人口が減少している。また,地区全体の人口は6万7554人で,混住率は61.4%となっている。うち約半数が紀ノ川沿い(和歌山市・那賀郡・伊都郡・橋本市)にあり,半数が中・南部の長い海岸線沿いに点在し,山間部には非常に少ないという特徴がある。また,和歌山城下を基点に大阪,奈良そして熊野地方を結ぶ旧街道沿いにほとんどの部落が位置している。

 就労の状況をみると,産業構成では,製造業(20.7%),建設業(16%),サービス業(18.3%)、小売り・飲食業(15%)が多く,雇用形態では,常雇いが60%弱であるのに対し,臨時雇い,日雇い,パートといった不安定就労者が16%近く,また自営業および自営業の手伝いが22.7%に及び,大企業等の雇用条件の良い職場で働く人は少ない。さらに,勤労者に対し自営業者が非常に多く16.3%であるが、うち90%近くが個人経営である。

 生活保護世帯は,県平均の4倍近い数値(24.7‰)であり,さらに地域的にみると県中部の御坊市では68.6‰という高率である。こうした産業・就労・生活の実態は,県北部に比べて中部および南部では,さらに厳しい実態が報告されている。

 県内の部落産業としては,和歌山市の皮革産業や橋本市・伊都郡のパイル織物が挙げられる。かつては全国的にも有数の産地を形成していたが,近年その経営状態はきわめて困難な状況に陥っている。農業は,第2種兼業農家がほとんどで,耕作面積30a未満の農家が54%を占め,平均耕作面積も38aにすぎない。また,同和対策事業による収益化のなかで,トマト,シイタケ栽培なども行なわれるようになった。漁業については,歴史的に漁業権から排除されていたが,近年,古座,串本,広川,湯浅などで同和対策事業を使っての近海漁業(一本釣り等)や養殖漁業【ようしょくぎょぎょう】が始められた。また,同和対策事業初期につくられた小規模の共同作業所にかわって大型共同作業所が導入され,それまでの縫製中心から梅加工,水産加工,皮革製品,納豆製造などが行なわれるようになっている。

 同和教育の面では,依然として低学力の課題がある。最近、県教育委員会が実施した学習状況調査によると,数学の正答率は学年が進むにしたがって格差が広がり,中学2年で7.7%もある。また,英語では9.7%の格差が生じている。高校進学率は8%の格差がある。さらに大学進学率は24.4%と,県平均の3分の2程度である。

[歴史]

 県内には,1955年(昭和30)当時,部落だけで一村を形成していた所が3カ所あった。また*町村合併の際に部落の村名を新たな町名に残すことを避けた所もあったが,現在ではあまりわからなくなっている。先にも述べたが,ほとんどの部落が和歌山城下を基点に大阪,奈良そして熊野地方を結ぶ旧街道沿いに位置していることからも,政治・経済と部落の形成が深いかかわりをもっていたことがうかがえる。また熊野三山と深いかかわりをもつ県南部には,起源が南北朝期にまでさかのぼると思われる部落がある。県北部の高野山領の関係もあるが,全体的には*一向一揆【いっこういっき】とのかかわりで形成された部落と,その後の紀州徳川藩との関係で形成された部落とに分けられよう。このことについては,近世および前近代の歴史研究が急がれる。雑賀衆【さいかしゅう】の鉄砲鍛冶の伝承や県北部の打田町西井阪の蓮乘寺,中部の湯浅町北栄の若太夫,御坊市財部の安養寺に残されている逸話や*蓮如直筆といわれる片袖や文書,和歌山市の釘貫家文書をはじめ各地の古文書や郷土史の解析が重要であろう。また,各地の史誌等にかかわって,〈長吏〉〈河原者〉の記載がみられるが,総じて〈○○村の内皮田○軒〉と記述され,部落寺院はほとんど〈冨田本照寺末寺〉となっている。

[水平運動]

 1918年(大正7)に富山県で起きた*米騒動【こめそうどう】は,和歌山県でも各地で発生し,海草郡安原村(現和歌山市)では,部落の住民が部落外の住民も巻き込んで〈騒動〉が展開された。これに対し軍隊が出動し大弾圧を加えるとともに〈米騒動は部落民のために働くようなもの〉と宣伝を行なった。また,県北部の那賀郡では,米騒動を恐れた地主や米屋が廉売を始めた。この米騒動もやがて鎮圧されるが,伊都郡岸上村の青年2人が全国で唯一の死刑になるという犠牲を出した。米騒動の直後,『紀伊毎日新聞』に「俺等は穢多だ」という投書が掲載された。内容は〈俺等はまず平等な人格的存在権,平等な存在権を社会に要求するのだ…〉というもので,即座に反響が現れ,その3日後に「俺も穢多だ」との投書が掲載された。

 米騒動後,和歌山県でも青年たちの行動が芽生えつつあった。21年頃,有田郡御霊村(現吉備町)の〈庄直行会〉,日高郡藤田村(現御坊市)の研究会,海草郡岡町村(現和歌山市)の〈壬戌会〉,那賀郡狩宿村(現那賀町)の〈紫団〉,東牟婁郡本宮村(現本宮町)の〈同友会〉などが,差別撤廃への学習や演説会を行なっていた。また,本宮村苔の出身で〈親鸞主義とデモクラシー〉を説いて独自の活動を続けていた*栗須七郎がおり,県内各地に大きな影響を与えていた。こうした青年たちが22年3月3日の全国水平社創立大会に参加し,大きな感銘と勇気をえて,次々と水平社を結成していった。翌23年,那賀製糸工場で差別事件が起き,さらに藤田村小学校,西和佐村小学校,調月村小学校で次々と教師や子どもによる差別事件が起き,糾弾闘争を通じて各地で水平社が結成された。そして,同年5月17日,和歌山市公会堂で〈和歌山県水平社【わかやまけんすいへいしゃ】創立大会〉が開催された。この日は,紀州徳川家初代藩主の入城を記念した〈和歌祭〉の日であり,徳川家に対する糾弾の意味でこの日を設定したもので,大会では〈徳川一門である紀州侯に抗議する〉との決議を採択している。また,初代委員長に高橋善応(岡町村水平社)が就任している。

 県水平社創立大会以後,*田淵豊吉代議士華族会館事件,和歌山歩兵第61連隊差別事件,*沖野々事件などを闘ったが,度重なる糾弾闘争が暴力行為として弾圧され,さらに各地で開催された水平社演説会も権力の不当な妨害行為を受け,多くの犠牲者を出してきた。また,県水平社内部では,全国水平社の第2期運動(労・農・水の三角同盟)の方針をめぐって論争となり,筒井貞三(岡町水平社)の〈政治を離れた純粋なる水平運動〉との主張に対し,庄・平井水平社(海草郡楠見村)は〈第2期運動は当然,部分的闘争から資本家や権力に対する全体的闘争へ〉と激しく対立した。こうしたなかで,伊都郡では日本農民組合支部が結成され,日高郡や有田郡では*小作争議が激しく闘われ,日高紡績,田辺貝釦争議などでも部落大衆が闘いの先頭に立つなど,第2期運動は地域では着実に浸透していった。しかし,こうした動きに対し栗須七郎や筒井貞三らは激しく批判,県水平社は第2期運動を破棄する方向に進んでいった。また同時に,県水平社大会も28年(昭和3)の第6回大会以降開催されていない。

[融和運動]

 融和運動の支柱として*岡本弥(伊都郡端場村)の存在を無視できない。岡本は,独自に差別に対する糾弾を行なうとともに,*大日本同胞融和会結成(1903)の中心人物であった。1921年(大正10)には*『特殊部落の解放』を著すなど,県内の融和運動に大きな影響を与えていった。和歌山県同和会【わかやまけんどうわかい】は24年3月16日に結成された。これまで県当局は,〈県民同和の告諭〉や〈偕和共済デー〉(3月1日)を行なってきたが,米騒動でみせた部落大衆のエネルギーや県水平社の創立と運動の広がりを恐れたためであった。県同和会の活動は,活動資金の半分が県からの補助金であることからも明らかなように,県行政の融和政策の柱として進められてきたが,その内容はきわめて精神論的であったためさまざまな限界や矛盾を生み出してきた。その行き詰まりを打開するため,〈真生同朋団〉(青年),〈同胞少年少女団〉(子ども),〈光の朋団〉(女性)を発足させ運動を進めるとともに,35年(昭和10)に県融和教育連合会を発足させるなど,融和教育が進められた。

[戦後の部落解放運動]

 1946年(昭和21)1月,戦前の融和運動の指導者であった*藤範晃誠の呼びかけで,県内の融和運動・水平運動の指導者であった人々が海南市日限地蔵院に一堂に会して会議がもたれた。この会合が戦後の部落解放運動の出発となる。有田郡吉備町庄で46年2月に結成された〈新生社〉の活動は特筆すべきもので,海南での会合を受け8月25日に有田郡湯浅町で〈部落解放人民大会〉を開催し,統一的な組織の結成と運動の方向を決定していく。翌47年,和歌山県教職員組合の執行委員会で起きた差別発言を契機に*責善教育の取り組みが始まる。そして48年12月5日,和歌山市の師範学校を会場に部落解放委員会和歌山県連結成大会が開催され,初代委員長に*田中織之進が就任。以後,各地で解放委支部が結成されるとともに,責善教育をめぐるさまざまな動きや朝【あっ】来【そ】差別事件,椒 【はじかみ】村差別事件などが起きている。また,県南部を中心に解放委の役員や市町村関係者も参加して〈人権尊重推進委員会〉が結成されている。

 和歌山県の運動が解放委県連結成以後も戦前からの融和運動の影響もあって観念的な域を脱し得なかったころ,衝撃的な事件が起きる。京都での*オール・ロマンス差別事件に続いて52年2月27日,日高郡御坊町で県議会議員・西川瀁が酩酊のうえ部落出身の同僚議員に対し差別発言を行ない,その後も居直り続けた。このため,解放委と人権尊重推進委員会が中心になり糾弾共闘会議が結成され,全県的な闘争へと広がっていった。共闘会議は闘いのなかで〈差別を生み出す,差別される実態こそが問題〉〈差別は行政のなかに〉として,差別実態を放置し差別者を生み出してきた行政の姿勢を明らかにし,闘いを進めていった。〈5万人の大衆が動員され,4万人の児童が同盟休校に入った2カ月間の闘い〉(部落解放全国委員会編『解放への怒涛』、1952)を通じて、部落大衆は,闘わずして部落の解放はないことを再確認するとともに,この闘いが差別撤廃に向けた行政施策の確立を求める運動の原動力となり,その後の*国策樹立運動へと引き継がれていった。

 しかし,その後部落に壊滅的な打撃を与えた大水害の復旧に向けた取り組みや*勤務評定反対闘争(1957-59)を経験するなかにあって,責善(人尊)運動の動きや県行政などの巧妙な懐柔策も影響し,依然観念的な流れを脱しきれず,部落大衆から次第に遊離し,運動の低迷期を迎える。全国的な国策樹立請願運動の高揚や山口衆議院議員,高垣和歌山市長,小野知事らの差別事件,さらに63年11月に*信太山自衛隊差別事件が起きるも全県的な運動にまで至っていなかったが,*同和対策審議会答申(1965)が出され,*同和対策事業特別措置法施行(1969)へと至る動きを受けて,70年代に入ってようやく運動の盛り上がりがでてきた。73年11月に御坊市で起きた馬頭県議差別事件に対し,部落解放同盟和歌山県連は糾弾闘争を展開。翌74年3月,県議会は同議員の発言を差別発言と認めるとともに,辞任を承認した。一方、60年代後半から生じていた中央本部の方針や〈答申・特措法〉の評価をめぐる県連内部の対立が,70年代に入って表面化する。74年8月,第19回県連大会の開催を一方的に決定した執行部に対し,湯浅,杭の瀬,平井をはじめ11支部が大会中止を申し入れたが,執行部はこれを無視,日本共産党,和教組,高教組から大量動員し県連大会の強行をはかったが失敗に終わる。これを機に,日本共産党,和教組,高教組が中心になって〈正常化連〉(現和歌山県部落解放運動連合会)が結成されるが,最近になって方針の矛盾等から,中心となっていた県南部で脱退者が相次いでいる。

 74年10月8日,和歌山市で第19回県連大会が開催され,方針の是正と組織の正常化がはかられ,県連の再建がなされた。その後,76年に労働組合(13組合),社会党とともに部落解放共闘会議が結成され,さらに,80年に〈特別措置法〉強化改正実行委員会が結成されるなど,着実に運動の広がりをみせている。

[戦後の行政]

 和歌山県は,1947年(昭和22)に厚生嘱託員制度(55人)をスタートさせた。また,県南部の各市町村は,差別事件の頻発にかかわって〈人権尊重推進委員会〉の結成に参画した。52年に起きた*西川県議差別事件について,県議会は西川県議の辞職勧告(追放)決議を採択するとともに,糾弾共闘委員会の請願書を採択し,追加の同和対策事業費1081万余円を採択する。また,事件にかかわって県行政は,子ども会の開設,奨学資金制度を実施するとともに,知事直轄の同和問題研究会(のちの和歌山県同和委員会)を発足させる。54年頃より総合計画の立案も始まり,新宮市で地方改善住宅10戸が建設されたのをはじめ,69年までに計157戸が建設される。しかし,この時期の取り組みは行政の予算の枠内で行なわれていたに過ぎず,同和事業が本格化するのは同和対策審議会答申(1965)以降になる。67年8月に県同和対策室が設置される。72年,各市町村に同和委員会が設置され,県同和委員会――地方同和委員会――市町村同和委員会の相互の連携・援助という和歌山県独自の啓発体制が確立された。また,全世帯を対象にした実態調査が5年ごとに実施され,それに基づいて基本方針(総合計画)が策定される。96年(平成8)頃,一部の市町村で同和室が廃止されるなどの動きがあったが,98年1月〈和歌山県同和行政総合推進プラン〉が策定され,同年9月〈人権教育のための国連10年・和歌山県行動計画〉が策定された。

[同和教育]

 1947年(昭和22)1月,和歌山県教職員組合で〈2・1ゼネスト〉体制について執行委員会が開催された席上,執行委員の南出静夫が〈一部少数同胞もこの闘争を支持している〉と発言。この発言が問題になり,組合内部に責善部が設置され,本格的に責善教育【せきぜんきょういく】の取り組みが始まる。しかし,50年の和教組第5回大会で〈責善教育を全国民運動として展開する〉として,県教育委員会へ移管してしまう。同年2月25日、日高郡で白崎小学校事件が起きる。責善教育を進めようとする校長とそれに反対する村民が激しく対立,解放委員会県連は校長を支持して集会を行なうが,和教組は支援せず校長を退職に追い込んでしまった。また,52年に起きた西川県議差別事件の糾弾共闘委員会にも和教組は〈純粋なる教育運動の邁進〉として参加せず,解放委から〈責善教育自体批判されねばならない。観念教育から,どれだけ真の解決を導き出すことができたのか〉と指摘されても,依然として観念教育から脱し切れずにいた。

 53年7月、集中豪雨が県内各地を直撃し,県民の25%にあたる未曾有の罹災者を出した。解放委によると〈全半壊22部落,死者73人,罹災者1万3000人〉と部落は大きな被害を受けたが,なかでも有田郡,日高郡の部落が壊滅的な打撃を受けていた。部落の子どもたちの惨状を前にして,もはや観念的なとらえ方だけでは応じきれないことを知った教師のなかには,積極的に救援活動や災害復旧,失業対策の闘争に参加する者もあった。

 さらに,57年には盗難の疑いをかけられ、さらに差別的な学校側の対応によって自殺に追いこまれていった吉備高女生徒自殺事件【きびこうじょせいとじさつじけん】が起こり,これまでの責善教育から〈差別される部落の実態〉に目を向けねばならない状況になってきた。この事件と相前後して,勤務評定反対闘争が起きた。〈勤評は,責善教育を阻害する〉〈部落の教育はいっそう悪化し,差別が助長される〉として教組を中心に七者共闘が結成され,部落解放同盟も積極的に参加し,強力に闘争を展開した。

 その後,66年に全同教第18回大会が和歌山で開催され,翌67年には和歌山県同和教育研究協議会が結成された。しかし,69年3月に那賀町教育長,同年5月には南部高校教頭・生徒指導部長らによる差別事件が相次いで起きている。また,70年4月に向陽高校で生徒部長が全校集会で狭山事件にかかわって差別発言をし,生徒の訴えや抗議に対して学校側が機動隊を導入して弾圧を加えるという事件が起きている。さらに,72年4月12日には耐久高校文芸誌『あさも』に「夏菊」という差別小説が掲載され,解放同盟湯浅支部が中心になって糾弾会が行なわれた。こうした教育現場での差別事件の続発は,勤評以降〈報復人事〉〈教育と運動の分断〉というなかですすめられてきた〈人尊教育〉の崩壊を物語るものであった。県教委は,同和教育企画連絡会議を設置するほか,73年12月には〈和歌山県同和教育基本方針〉を策定,さらに75年には同和教育推進協議会を発足させている。

 しかし,部落解放運動をめぐるさまざまな状況のなかで,和同教,和教組,高教組を中心とした同和教育基本方針と相反する動きが次第に表面化し,これに対して県教委は指導を強めていくとともに,92年(平成4)に〈学習状況調査〉を実施し,子どもたちの現状と課題を明らかにしてきた。

参考文献

  • 渡辺広『未解放部落の史的研究』(吉川弘文館,1963)
  • 同『未解放部落の形成と展開』(同前、1977)
  • 谷口幸男・池田孝雄「和歌山県水平運動史」(部落問題研究所『水平運動の研究』6巻,1973)
  • 部落解放同盟和歌山県連合会編『鉄鎖より自由へ』(1982)
  • 同『和歌山県部落解放運動史(戦後編)』(1992)
(池田清郎)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:57 (1354d)