賤民【せんみん】

[ヨーロッパ]

 ヨーロッパ各都市の現在のたたずまいからはうかがい知ることは難しいが,19世紀まで都市内外に差別された人々がいた。ヨーロッパにおける賤民の端緒はおそらく<人間狼>であろう。氏族団体の平和を乱す行為,たとえば夜間の殺人や放火などを犯した者は団体から追放され,平和喪失者,つまり死者として追放された。その妻は未亡人とされ,子どもは孤児とみなされた。ひとたび平和を喪失した者は村にとどまることができず,森に隠れ,辛うじて生き延びたのである。狼の毛皮を身につけ,同じような運命の者が集まって十二夜には村を通過する。村人は戸口に食料をおき,戸を硬く閉じて通過するのを待っている。こうした行進は<荒野の狩人>と呼ばれ,死者の軍勢とみなされていた。

 中世社会において賤民は名誉をもたない者であり,共同体から排除され,自らの共同体を構成しえない者たちである。ここでいう共同体は狭義の共同体だけではなく,人間が自然と結ぶさまざまな関係のなかでつくられるイメージをも含んでいる。人々は家を中心として菜園を含む小宇宙のなかで暮らしていた。その外側には森や牧場を含む大宇宙が広がっており,そこは人間には理解できない大きな力の源泉とみなされていた。人々はそのような大宇宙と互酬の関係を結んで生活していた。民話で語られているように大宇宙には贈与者がおり,小宇宙の人々にさまざまな運命を贈っているとみなされていた。死も好運も不運もそして性の力も本来大宇宙から小宇宙に贈られてくるものと考えられていた。

 小宇宙と大宇宙との関係はさまざまな分野で人々の生活にかかわっていた。死は大宇宙に移行することであったから,生きている人を処刑する<死刑執行人>は大宇宙と小宇宙とのはざまの存在とみなされていた。中世初期には処刑は高位聖職者が行なうことになっていたのもこのことと関係がある。<魔女>とみなされた人々も小宇宙と大宇宙のはざまにあり,特異な力をもつ存在とみなされていた。<産婆>も同様であり,豊饒や性,大地や水,火とかかわる職業も同じ位置にあるものとみなされていた。皮剥ぎ,羊飼い,粉挽き,娼婦,浴場主,外科医,犬皮なめし,亜麻布織り工,家畜を去勢する人,遍歴楽士,陶工,煉瓦工,煙突掃除人などもみな二つの宇宙のはざまに生きる人々であった。その意味で本来特異な力をもつ異能力者であった。これらの人々は身分の序列外にある者とされていた。

 12世紀以降のヨーロッパに都市や村が成立するとそれらは小宇宙として意識され,村の垣根の外,都市の壁の外は大宇宙の世界とみなされていた。しかしそのころにはキリスト教が浸透し,かつてのような二つの宇宙の観念はキリスト教の一元化された教義にとってかわられつつあった。キリスト教は二つの宇宙の観念を認めながらも、それをキリスト教の教義のなかに取り込み,大宇宙の力をすべて神のものとした。その結果、大宇宙の力はかつてのような位置を失い,二つの宇宙のはざまに生きる人々も異能力者としての位置を失っていった。しかし人々は相変わらず呪術的世界に生きていたから,現実には大宇宙の力を信じていた。彼らの意識はキリスト教の前で隠され,民間信仰として細々と生き続けることになった。こうしてかつての異能力者たちに対する人々の関係は陰微な変化を受け,賤視の対象となっていったのである。

 賤視は畏怖から生まれる。かつての異能力者に対する畏れはキリスト教のもとで認められず,畏れが蔑視と結びついたのである。畏怖の対象が貶められるとき,その視線は陰微な形をとる。こうして大宇宙とかかわるさまざまな職業が14〜15世紀には賤視の対象に変わっていったのである。ヨーロッパにおける賤民は19世紀にキリスト教の世俗化が進行し,呪術的世界が崩壊すると解体され,啓蒙思想のもとで職業の平等の原則とともに解体されていった。

 現代のヨーロッパには、職業差別を主とした歴史的な賤民差別は存在していない。かつての差別の痕跡は今では地名からも消え、文書館で調べてはじめて、現在の〈百合通り〉が過去には〈刑吏通り〉と呼ばれていたことがわかるのである。現在ヨーロッパで問題となっている差別はトルコ人などの難民に対する差別と*ロマなどの少数民族に対する差別である。

(阿部謹也)

[インド]

 インドの賤民制は,ヒンドゥー教の〈浄・穢〉観の浸透したカースト社会の内部において,不可触民制という形をとって発達した。

〈4ヴァルナの形成〉

 カースト社会の歴史は,インドに進入したアーリヤ人が先住民を隷属させた時代(B.C.1500〜)にまでさかのぼる。当時は肌の色の違いが征服者と先住民との違いを示していたため,〈色〉を意味するヴァルナという語が〈身分・階級〉を意味するようになった。B.C.1000年以降,アーリヤ人がガンジス川流域に進出して農耕社会を完成させるようになると,アーリヤ部族の内部に階層の分化が生じ,バラモン(司祭階級),クシャトリヤ(王侯・武士階級),ヴァイシャ(庶民階級)という3ヴァルナが成立した。先住民の多くは上位3ヴァルナに奉仕する隷属階級シュードラとされ,政治,経済,社会,宗教など生活のすべての面で差別を受けた。ここにカースト制度の初期の形である4ヴァルナ制度が成立した。

〈不可触民チャンダーラ〉

 仏教が誕生する直前のB.C.7世紀頃,シュードラのさらに下に賤民階層が形成された。諸種の賤民集団の最下位におかれたのが,穢れをもたらすとして排除された不可触民チャンダーラである。*『マヌ法典』【まぬほうてん】(B.C.200〜A.D.200頃成立)をはじめとするヒンドゥー法典類によると,各種賤民はヴァルナ間の逆毛婚に由来するとされる。逆毛婚とは男が下位身分,女が上位身分の組み合わせを意味し,不可触民チャンダーラは,非難さるべき逆毛婚中でも最悪の組み合わせ〈シュードラの父とバラモンの母〉から生まれた子に起源すると説明されている。もちろんこれは,バラモン的な身分観念に基づく机上の理論である。実際には,アーリヤ農耕社会の周縁に住む狩猟採集民の一部が,賤民として組み込まれたのである。

〈カースト社会の形成〉

 6世紀以降のいわゆる〈中世〉の時代に入ると,ヴァルナの枠組みに大きな変化が生じた。ヴァイシャが商人階層のみを指すようになり,シュードラは農民を含む一般大衆のヴァルナとなった。これに伴い,シュードラ差別は解消に向かうが,それとは逆に不可触民差別は強化され,また不可触民とみなされる社会集団の数も増した。また同じころから,4ヴァルナと不可触民から成る五つの大きな社会の枠組みの内部に,多数のカースト(ジャーティとも呼ばれる。内部での結婚,共同の食事,共通の職業などで結ばれた排他的な社会集団)が生み出された。それらの集団をヨコ(分業)とタテ(上下の身分)の関係で結び合わせたカースト社会が,徐々に形成されたのである。

〈カースト社会の中の不可触民〉

 時代は降るが,イギリスの植民地時代の調査によると,インド全土に存在するカーストの数は2000〜3000にも及んでいる。中程度の村は20〜30のカーストから構成されており,それらはバラモンを最上位とし不可触民カーストを最下位とする上下関係で並んでいる。この関係はヒンドゥー教の〈浄・穢〉観に基づくものであり,不可触民(ヒンディー語でアチュート,英語でアンタッチャブルと呼ばれる)は極端な差別の対象となってきた。たとえば,ヒンドゥー教徒であるにもかかわらず寺院への立ち入りが禁じられ,一般ヒンドゥー教徒用の井戸の使用も禁じられたのである。また多数存在する不可触民カーストの間にも上下関係が持ち込まれ,それらカースト間の排他意識は上位カースト間にみられるものより強かった。西部デカンを例にとるならば,この地方のどの村にも住んでいる主要な3不可触民カーストは,チャーンバール(チャマール,皮革加工),マハール(村落の雑用),マーング(筵・縄作り)の順に上下の序列がつけられている。清掃カーストのバンギーは,インド全土で不可触民の中でも最下位のカーストとされている。

〈差別の撤廃へ〉

 不可触民差別撤廃に向けての運動は,19世紀後半に一部の知識人や都市に住む不可触民によって始められた。その運動は1920年代になると,国民会議派を率いるガンディーと,不可触民出身の*アンベードカルによって担われ,さらに進展した。不可触民をハリジャン(神の子)と呼んだガンディーが,差別者側の懺悔と行動に重きをおいたのに対し,アンベードカルは被差別者の側の覚醒と行動こそが必要であると主張し,両者はしばしば対立した。独立後,50年に施行されたインド共和国憲法【いんどきょうわこくけんぽう】の17条で,不可触民制は廃され,不可触民差別は犯罪として刑罰の対象となった。同憲法はまた,旧不可触民を〈指定カースト〉すなわち地位向上政策の対象に指定されたカースト(現在400〜500を数える)と呼び,彼らに対し政治,経済,教育などの諸面で特別な優遇措置(留保制度=リザーベーション・システム)を講じるよう求めている。同じような差別を受けてきた部族民(指定部族と呼ばれる。主として山地に住む先住民族)もまた,こうした優遇措置の対象となっている。州と中央の議会における留保議席制度,公務員採用や昇進における優遇,奨学制度上の優遇(特に大学を中心とした入学)などである。独立後半世紀たった今日,こうした優遇政策の成果は諸方面にみられるようになった。閣僚中には必ず指定カースト出身者が加わり、また97年にはナラヤナンが指定カースト出身者として初めて大統領に選出された。しかし、社会に深く根を下ろした不可触民差別の撤廃までには,なお多くの困難が存在している。91年の国勢調査の段階で,指定カースト人口は約1億4000万人(総人口の16.5%),指定部族の人口は6800万人(総人口の8.1%)を数える。

(山崎元一)

[中国]

 中国の身分制は,紀元前10世紀をさかのぼる古代王朝・周の時代には存在したと推定されているが,史料的には定かではない。奴隷として扱われた奴婢の起源は古く,甲骨文【こうこつぶん】にもみえている。皇帝を頂点にして身分制が法制化されたのは秦・漢時代からで,6世紀からの隋・唐の時代に入って成文法として完成した。国家の法秩序と政治機構を体系化したこの〈律令【りつりょう】〉は,世界法制史上の画期的な法典であった。刑罰によって社会秩序を規制する〈律〉と政府の官僚制を定める〈令〉,つまり刑法と行政法を骨格としているが,そのなかに貴族と賤民を上下秩序の両極とする身分制についての詳細な規定が含まれていたのである。図に見られるように,皇帝・貴族・士族・庶民・賤民の5身分に大別されるが,民衆を良民(士族と庶民)と賤民に区分するので〈良賤制【りょうせんせい】〉とも呼ばれている。士族は士太夫【したいふ】と呼ばれるが,科挙に合格した知識人官僚層であって,武士ではない。

 賤民は官賤と私賤とに分けられ,そのなかでも宮廷芸能に従事する太常音声人と朝廷の直属工房で働く雑戸は準賤民ともいうべく,良民との通婚も一部認められている。賤民の職業は原則として世襲であり,一般的には良民との通婚を禁じられていた。賤民でも良民になることができたが,その条件はどの位置にいる賤民であるかによって個別に定められ,刑罰の適用にも差があって,きわめて複雑に体系化されていた。その数がもっとも多かった奴婢は,最下層の隷属民で奴隷として売買された。これらの奴婢は,国家権力に対する反逆,社会秩序に対する背反によって罪に問われたものが多く,戦争の俘囚も含まれ,困窮・債務のために身売りした者もあった。良民と奴婢との間には部曲と呼ばれる賤民層があり,主として荘園における農業労働に従事した。

 中国の賤民制度を思想的に基礎づけているのは,広い意味での儒教思想に基づく〈貴・賤〉観念である。貴と賤【きとせん】はいずれも経済的価値を表す〈貝〉を用いた文字であるが,貴は価値の高いこと,賤は価値の低いことを表す。つまり貴賤観は,職業の経済価値観の高低を基軸とした相対的な身分観念である。その点ではインドにおけるヒンドゥー教・カースト制のような〈浄・穢〉観に基づいて血統・家柄を絶対視する身分差別観とは異なる。カースト制では穢れとされている不可触民から解放されることはあり得ないが,中国では一定の条件が満たされれば良民に上昇し得たのである。

唐律令の身分制度

 礼儀・制度・文物などの社会秩序を保つために身分制がどうしても必要だと説いたのは,荀子から韓非子へと伝わる法家思想であった。荀子は社会の生活規範を守るためには,貧富貴賤の等級をつけ,上位が下位を支配するのが政治上の便宜であると説いた。韓非子は君臣上下の分を定め,国家の基幹産業である農を尊び,商工などの雑業や遊芸の民を卑しめるのが統治の道理であるとして,専制官僚制に基づく徹底した農本主義を説いた。唐律令において,農民が良とされ,商・工・巫【ふ】・芸などの職人が価値的に賤とされたのはこの韓非子の思想を直接的な基礎としている。ただ注意すべきは屠殺や食肉・皮革の仕事に従事する者を,不殺生戒に基づく不浄観をもって賤視していないことである。その点では、ヒンドゥー教やその強い影響をうけた後期仏教の密教思想とは大きく異なっている。中国においては,古代から肉食【にくしょく】の風習が民衆の生活のみならず宮廷でも一般化し,祭祀儀礼でも肉が用いられ,肉食にまつわる不浄観はなかった。

 このような良賤制の思想は,隋・唐帝国時代における中国文化圏の拡大とともに東北アジア一体に広がっていった。北方系騎馬民族の諸国家から,南はベトナム,東は朝鮮から日本に至るまで、律令制を国家統治の基本法としたのであった。大和王朝の賤民制も唐律令の良賤制を下敷きにして制定された。

 中国では唐以降,宋から金,さらに元,明,清とめまぐるしく王朝が交代した。唐律令によってその原型を定められた賤民制度が,どのように変化していったのかを系統的に明らかにするまとまった研究はまだなされていないし,史料もまだ十分に出そろっていない。蜑(蛋)民,山西戸【がくこ】,九姓漁戸と呼ばれた賤民層もあり,寮民,柵民,堕民,丐民,世僕なども賤民であった。清の時代では,娼優,隷卒,乞頭,六色などの賤民がかなり広く存在した。貴族は奴婢を所有していたが,この奴婢制も公的には1909年に廃止された。しかし,身分差別が実質的に終焉したのは,第2次大戦後における中国革命後であった。

 一例として蜑民【たんみん】の場合をあげておく。南中国の河川や沿海で,陸上に土地・建物を持たず,親子代々船を住居とし,漁業や水上運輸などに従事した船上生活者である。船上生活者のことは宋代から文献に現れてくるが,その起源については不明なところが多い。陸上の社会からはずっと賤視されていたが,1727年になって雍正帝は彼等が陸上に移り,家屋を建て,農業に従うことを許した。しかし身分的差別はその後も続き,船上生活者の間だけで通婚を重ねてきた。中華人民共和国の成立後,国家政策によって陸上への住みかえが進められ,現在では船上生活者はごく少数となった。また意識の上での改革も進み,歴史的な蔑称である〈蜑家〉を改め,今では〈水上人【ソイションヤン】〉と呼んでいる。

(沖浦和光)

[朝鮮]

 古代から近代初期までの各時代に賤民とされた人びとには、身分制度の最下層におかれ非人格的に扱われた身分的賤民の奴婢【ぬひ】と、支配思想により社会通念化された賤業に就き蔑視された職業的賤民がいた。

 身分的賤民の原初は、『漢書』「地理志」における古朝鮮の〈八条禁法〉にまで遡及する。いわば〈他人の所有物を盗んだ者は、被害者の奴婢にする〉という慣習法である。古朝鮮に続いた小国の変遷統合により形成された国家の高句麗・百済・新羅から統一新羅に至ると、既存の世襲奴婢と捕虜奴婢のほかに、負債、刑罰、人身売買などによる奴婢も発生し、所有形態は官衙に隷属する公奴婢と、貴族や良民が所有する私奴婢となった。ところで奴婢の社会的性格については、西洋古代の奴隷と同じであったとする説には異論が多く、まだ定説は確立していない。中世の高麗王朝の下では、既成の奴婢構成のなかに反逆者家族の奴婢化が加えられるようになった。そして社会経済の発展に伴い奴婢の数を確保する必要から、奴婢世襲を法定化する〈賤者隨母法〉を制定(1039)し、身分の統制を強めた。一方、奴婢たちは身分統制と収奪の強化に抗して、しばしば身分解放を求める反乱を起こした。

 近世の朝鮮王朝になると、治国法の一つ〈刑典〉に、公賤と私賤に分けて公・私奴婢の身分と刑罰に関する綿密な条項を定め、さらに刑曹(司法省にあたる)の外局として、奴婢の帳籍と訴訟事務を管掌する掌隷院を設けた。また逃亡した奴婢を原状に戻すための時限立法〈奴婢推刷法〉を制定することもあった。ところで奴婢の存在形態は、官衙内または所有主の家に住みながら、直接的に収奪(労役)される〈率居奴婢〉、官衙内や所有主とは同居せず、隷属する官衙の労役か、所有主が示す労働に従事する〈外居奴婢〉、官衙や所有主の経済基盤とは関係なしに独立した生活を認められる条件として、官衙や所有主にしかるべき納付をする〈独立奴婢〉とに分かれた。そして初期は〈率居〉と〈外居〉の奴婢が多く、社会的性格は人として扱われる割合が四,物として扱われる割合が六の〈人四物六〉といったところであったが、後期になるにつれて〈独立奴婢〉が増え、社会的性格は〈人六物四〉へと変わっていった。しかも〈外居〉と〈独立〉の奴婢は私有財産の所有を認められ、奴婢を所有して働かせることもできた。なお蓄財をした奴婢のなかには良民の戸籍を買って身分を変える者も現れた。さらに商業の発展、農業生産力の増大により〈外居〉〈独立〉の奴婢の経済的自由は広まった。それは奴婢から良民への身分変動の加速をもたらし、奴婢制度の崩壊へとつながるものであった。そして1801年には公奴婢が解放され、1894年には近代改革により賤民制度の全廃に至った。とはいえ富裕階層の家には、聴直【チョンヂギ】(主人の下僕)、床奴【サンノ】(食膳運び)、上直【サンヂギ】(奥方の下女)といった呼称で奴婢の遺制が1920年代の初期まで残っていた。

 さて職業的賤民であるが、こちらは奴婢のように人格的自由の拘束は受けないが、就業または世襲している職業に対する社会的賤視に囲まれて、人格的自由の制約を受けた人たちである。その起源は、支配階級の北方異民族流民に対する差別意識と、流民が携わった生業への賤視に発したとする説、古代三国が新羅に統一される過程で、抵抗をした良民集落を特殊行政地域の郷、所、部曲を設けて移し、その住民を準賤民とみなし、なお住民たちが興した手工業の製紙、製糸、製陶および鉱業への賤視に起源するという説がある。実際には高麗時代に顕在化した楊水尺(水尺、禾尺とも呼ぶ。尺は匠の意。屠獣および柳器製造に携わった人)、才人(芸能人)、津尺(渡し舟のこぎ手)、駅丁といった人びとであった。さらに朝鮮王朝になると、〈心を労する者は治者、労力を使う者は被治者〉といった儒教的社会通念による〈八般私賤〉〈七般公賤〉および良民の最下限の人たちが担わされた〈身良役賤〉といった賤業観が一般化した。〈八般私賤〉は*白丁【ぺくちょん】(高麗時代の楊水尺)、広大(高麗時代の才人)、鞋匠(履物工)、喪輿軍(葬礼時の人夫)、僧尼、妓生、巫覡および身分的賤民の奴婢を指した。〈七般公賤〉と〈身良役賤〉は役の担い手が公奴婢か良民かの違いであって、皁隷(官衙の下僕)、羅将(司法機関の獄吏、拷問担当)、烽軍(軍の通信すなわち烽火の係)、漕軍(海軍の水夫)、水夫(官・衙の水汲人)、日守(時刻を報じる鐘打人)、駅保などで、書物によっては郷吏(地方の下級官吏)、使令(伝令)、官妓を役賤に含めているものもある。この前近代的通念としての賤業観は、まだ人びとの意識のなかに潜在していて、完全に止揚されたとはいえない。

(梁 永厚)

[日本]

〈古代〉

 賤民の語は、従来、*五色の賤【ごしきのせん】、渡来系氏族手工業者が多い*雑戸【ざっこ】と*品部【しなべ】、*蝦夷と*俘囚【ふしゅう】などにあてられてきた。今日の研究水準では、古代の賤身分は、中世以降の賤民とは異質とされており、賤民の語はあくまでも便宜的用語にすぎない。また、部落に関する古代賤民起源説や人種起源説は、歴史的根拠をもたない妄説である。古代の賤身分は、7世紀末、中国の律令継受に際して導入された良賤制によって成立した国家的身分であり、当初、奴隷である*奴婢【ぬひ】に付与された。奴婢の服色はケガレを象徴する橡墨色【つるばみぞめいろ】(黒衣)であり、清浄を象徴する天皇の白衣の対極に置かれた。とりわけ、*公奴婢【くぬひ】(官奴婢)や今良【ごんろう】(解放された官奴婢)は、宮中行事のなかで、天皇の権威と清浄性を強調する機能をもたされた。唐制に倣い、大宝令から公奴婢は*官戸【かんこ】と官奴婢【かんぬひ】に、*私奴婢【しぬひ】は*家人【けにん】と私奴婢に区分され、さらに、養老令から、山陵守護と清掃を任とする*陵戸【りょうこ】が新たに賤身分に加えられる。これは当時の唐制に合わせた措置であり、陵戸の職掌に由縁するものではない。品部・雑戸は良人身分であり、このうち主として軍事的生産に携わった雑戸は、官司の直接支配を受け、社会的にも隔離されたが、その後、品部と変わらぬ扱いとなり、10世紀以降には技術労働から離れ、官司に所属する農民と化していく。良賤制【りょうせんせい】は平安中期には、ほぼ解体に瀕しており、系譜的に中世の被差別民にはつながらなかった。

(神野清一)

〈中世〉

 古代や近世と違い、中世の賤民は法制上の身分ではなかった。古代良賤制は延喜年間(901〜923)に解体し、法制上では良賤制はなくなったが、賤民制のイデオロギ−はなお継承された。そのイデオロギ−は貴賤制と良賤制の二つに分けて考えることができる。貴賤制は権威主義的ではあるが相対的な身分の序列をいい、そこにおける〈賤〉は一般的な卑賤感を示すと考えられる。良賤制は賤民制と良民制をあわせて意味し、いわゆる賤民制はこの良賤制における賤民である。中世では良民という表記方法は乏しく、〈平民【へいみん】〉あるいは〈平民百姓〉などと表記され、賤民は、散所民や非人がそれに該当すると見られてきた。

 *散所については、近年の研究では、古代の準賤民である*雑戸・*品部の系譜を引く職人層を中心に編成され、そこにさまざまな生活困窮者や病人が流れ込んできたと見られてきた。しかし、丹生谷哲一の散所民の実体的研究によれば、必ずしも雑戸・品部で構成されるのではなく、田堵と呼ばれた平民層を含んで構成される雑色階層であると考えられるようになり、必ずしも賤民制と結びつかないと考えられるに至った。

 賤民については〈*非人【ひにん】〉を中心に展開してきた。〈非人〉の用語は異類異形の者に対する仏教者の思想に基づくといわれるが、橘逸勢【たちばなのはやなり】が〈非人の姓〉を被り流罪とされた例が早期の例に属する。〈非人〉を構成するのは、刑余者を意味する放免や生活困窮者、また*癩者も含んでいると考える説もある。明恵上人らのように異端的な僧侶の中には〈非人〉を自称する者もいた。黒田俊雄は、〈非人〉を人格的結合から離脱した階層と見て、〈身分外の身分〉と規定した。人格的結合とは封建的な主従関係を媒介とした結びつきをいい、そこから疎外された階層である。身分とは言い難い側面がある。〈非人〉から離脱してさまざまな卑賤な身分、たとえば、中世後期には*犬神人・*清目や*声聞師・*河原者などが生まれたが、非人観からの離脱は完全だったとはいえない。網野善彦は〈非人〉を清目に関係する〈職能〉,あるいは奉仕を帯びた神人あるいは寄人など、また大山喬平は〈非人〉を〈凡下の一種〉と指摘するが、鎌倉幕府法の〈非人〉規定は親族から離脱した貧困者と考えられるに過ぎず,大山氏は体制内に組み込まれた〈非人〉の姿のあり方に注目したものと思われる。

 〈非人〉あるいはそれに類する身分が生まれたが、彼らに対してはさまざまにイデオロギ−上の抑圧が加えられ、たとえば非人は〈禁忌〉や〈種姓〉にかかわる身分とされた。この禁忌は仏教や神道的な解釈に基づいており、そこから〈*穢れ〉が導き出され、ついに〈*穢多【えた】〉という用語が賤民内部の一部に適応された。また平民に近似した表記である〈王民〉観も中世後期に現れるが、これは種姓上の概念であり,これら疎外された賤民観である〈穢多〉と〈非人〉が現れるが両者に明白な分離があったわけではない。また、中世の政治権力は複雑に分岐し、宗教界では異端宗教を生み出すなど、イデオロギ−的にも一元化されておらず、種姓観に基づく身分制度は成立しなかったと見るべきである。

(吉田徳夫)

〈近世〉

 近世(織豊時代〜江戸時代)の〈賤民〉には,次のように多種多様な人々がいた。すなわち,〈*穢多〉〈*非人〉をはじめとして,常陸地方にえびす・おこも・きらく・たらう・ぢい,江戸を中心に*乞胸【ごうむね】,加賀藩に*藤内【とうない】,近畿地方に夙,中国地方に*茶筅【ちやせん】(筌・洗とも書く),周防に宮番・茶屋,薩摩藩に*死苦【しく】(のちに〈えた〉と改称)・*慶賀【けんご】・*行脚【あんぎや】,同藩ならびに高鍋藩に*青癩【せいらい】などがあり,その他,各地に青屋・*猿飼(猿曳)・*物吉【ものよし】・*隠亡・三昧聖【さんまいひじり】などがいた。享保年間(1716〜36)の*『弾左衛門由緒書』には,その配下に属するものとして,次の職種を挙げている。*長吏・座頭・舞々・猿楽・陰陽師・壁塗・土鍋師・鋳物師・辻目睡・非人・猿曳・弦差・石切・土器師・放下師・笠縫・渡守・山守・*青屋・坪立・筆結・墨師・関守・獅子舞・簑作り・傀儡師・傾城屋・鉢扣(鉢叩)・鐘打。これらの職種に従事したすべての人々が必ずしも弾左衛門の支配に服していたわけではなかったが,これらの職種は程度の差こそあれ卑賤視されていたと考えられる。また,本居内遠の*『賤者考』には,江戸中期における紀州の〈賤民〉や社会的下層民として50種ほど列挙されている。

 ところで,近世の〈賤民〉には,〈えた〉〈ひにん〉・藤内・*鉢屋・慶賀などのように幕藩権力によって特定の職種を固定されるとともに,行刑・警察的役務を負担させられた,いわば法制的ないしは制度的な〈賤民〉身分の者と,夙・隠亡などのように,近世権力による直接的な政治的編成と統制を受けず,多分に中世身分の遺制として残存したと考えられる,いわば慣習法的ないし社会的な〈賤民〉身分とが存在したが,近世〈賤民〉身分の中核に据えられていたのは,いうまでもなく前者であった。その前者の特徴は,第1に,中世の〈賤民〉のように流動的ではなく固定的であり,社会的身分ではなく法制的身分であったこと,第2に,支配権力に特定の職業と役負担(主として行刑・警察・掃除の役務)を強制ないしは固定されていたところにあったといえる。近世〈賤民〉については、その起源・生活実態・反差別闘争・近現代社会とのかかわりなど,未解明の部分も多く,今後,究明すべき課題は多い。

(寺木伸明)

参考文献

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  • 渡辺広『未解放部落の史的研究』(吉川弘文館、1963)
  • 部落問題研究所編『部落の歴史と解放運動 前近代篇』(1985)
  • 部落解放研究所編『部落解放史 熱と光を』上巻(解放出版社、1989)
  • 塚田孝『近世日本身分制の研究』(兵庫部落問題研究所、1987)
  • 峯岸賢太郎『近世被差別民史の研究』(校倉書房、1996)
  • 原田伴彦・中沢巷一・小林宏編『日本庶民生活史料集成』14巻(三一書房、1971)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:58 (1358d)