HIV感染者の人権【えっちあいぶいかんせんしゃのじんけん】

 HIV(ヒト免疫不全ウイルス Human Immunodeficiency Virus)は,1982年(昭和57)に発見されたウイルスの名称。HIV感染症は一般的に性行為感染症で,HIVに感染することによって免疫機能が低下し,免疫不全を起こす病気である。HIVの感染力は非常に弱く,感染しても進行はゆっくりで5〜10年以上はとくに目立った症状が現れないため,抗体検査でしか判断できない。一方,AIDS【エイズ】(後天性免疫不全症候群 Acquired Immuno Deficiency Syndrome)は病名ではなく病態を表し,日本では24の決められた症状(日和見感染症や悪性腫瘍など)のうち二つ以上現れた段階でAIDS発症と診断している。しかし,94年(平成6)のAIDS国際会議では<長期生存者>が全感染者の8%存在することが報告されており,感染しても全員が発症するかどうかは不明である。現在,HIV感染症は医療技術の進歩により,血漿中のウイルスを検出限度以下にすることでAIDSの発症と進行を遅らせることが可能になった。しかし,根本的な治療方法は確立されておらず,長く闘病しなければならない疾病の一つとなっている。

〈薬害としてのHIV〉

 82年7月,アメリカで血友病患者【けつゆうびょうかんじゃ】にAIDS症例が報告され,血液による感染の疑いが出された。83年3月に米国立防疫センター(CDC)は血液製剤の危険性を指摘し,同年5月には米食品医療薬品局(FDA)が各製剤メーカーに血液製剤の加熱処理を指示,販売を緊急認可した。また,ドイツ,カナダでは加熱製剤が認可され,フランスはアメリカの危険な血液製剤の輸入を禁止した。

 しかし日本は,危険を回避する対策をとらず,アメリカから血漿や血液製剤を輸入し続けた。加熱製剤が認可されたのは,製薬会社の加熱製剤への切り替えが完了した85年7月である(認可以降も回収されず,販売が続けられた)この2年4カ月の間に全国で約5000人いるといわれる血友病患者のうち,4割にあたる約2000人がHIVに感染するという大規模な薬害被害を引き起こす結果となった。危険性が指摘された時期に加熱製剤を導入するか,クリオ(血液中の血漿成分から凝固因子だけを抽出した血液製剤)の販売に切り替えていれば感染はくい止められていた。その意味で,この大規模な薬害被害は国・製薬会社・医師の責任が大きい。

 この論点に立って89年5月8日,赤瀬範保【あかせのりやす】が<歴史にこの悲劇を記録するため>として,日本で初めて実名で大阪地裁に薬害HIV訴訟【やくがいえっちあいぶいそしょう】を起こした。しかし,国は予測できない事故だったとして過失を隠ぺいし,医薬品副作用被害救済制度の適用を拒み続けていたが,96年2月21日,菅直人厚相がこれまで<見当たらない>とされてきた厚生省エイズ研究班の「エイズ問題の検討資料」(1983)の<発見>を発表した。そして国の責任を認め,原告に直接謝罪したことから薬害HIV訴訟は急展開し,同年3月29日に大阪,東京両地裁で和解が成立した。

 また<血友病以外のHIV感染>の被害についても,新生児出血症に<止血用>として非加熱製剤が投与され,HIVに感染させられていた症例が95年6月に初めて報告された。その後も,婦人科系疾患,肝臓病や胃の疾患の治療・手術などにも非加熱製剤が幅広く使用され,HIVに感染させられていた被害の実態が次々と報告されている。

 日本における薬害HIVの問題は,血友病治療等に欠かせない血液製剤の多くが外国からの売血を原料(そこにHIVが混入)にしていたという国の血液行政の問題点を明らかにした。この問題以後,血友病治療に使う凝固因子製剤の原料は大半が国内血に切り替えられたが,通常の製剤がきかない患者は輸入にしか頼れないため,新たな薬害が引き起こされる危険性は消えていない。

〈感染者の人権〉

 日本におけるHIV感染症の問題は,輸入血液製剤によって血友病患者の多くが感染しているという事実を国が隠し続けたことにある。この事実は,85年3月<日本人AIDS患者第1号が男性同性愛者である>と発表されるまで公表されなかった。当時HIV感染症は,男性同性愛者や麻薬等による薬物中毒者などの<特別な人>がかかる病気というイメージが強かったため,身近な問題としては考えられていなかった。しかし86年に松本市,87年には神戸市と高知市で,女性のAIDS患者の存在がマスコミを通して発表されたことにより,<女性,性風俗,外国人からうつる〉可能性があるという誇張されたイメージがつくられ,全国のいたるところでパニックが起こった。このパニックは総称して<日本のAIDSパニック>と呼ばれている。その結果,神戸事件では,患者の写真が無断で週刊誌に掲載,報道されたほか,出稼ぎのアジア人女性をはじめ,血友病患者,同性愛者【どうせいあいしゃ】,外国人が職場や地域から排除されたり,また、診察拒否や無断血液検査も行なわれるなど,プライバシーと人権に対する侵害が各地でみられた。

 神戸市で初めて日本人女性患者が死亡したことで,兵庫県エイズ対策本部は87年1月,<後天性免疫不全症候群(エイズ)問題に関する緊急要望書>を厚生大臣に提出した。そして,88年3月,厚生省は<後天性免疫不全症候群の予防に関する法律【こうてんせいめんえきふぜんしょうこうぐんのよぼうにかんするほうりつ】>(以下エイズ予防法)案を発表した。パニックの中でつくられた予防法案はきわめて社会防衛的な性格が強く,医師が感染者を診断したときに都道府県知事に感染者の年齢・性別・感染経路を報告する義務などがあり,血友病患者団体から<感染者を危険なものとみており,人権侵害の危険がある>と,反対の声があがった。さらに公衆衛生学会,弁護士会,同性愛者の団体,女性をはじめとする市民団体からも反対の声があがった。また,このエイズ予防法は予防のみで感染者保護の規定がほとんどない<らい予防法>(1996年廃止)に酷似していることから,ハンセン病患者の団体からも反対の声があがった。

 この法律への批判が集中したにもかかわらず,88年12月<血友病患者は医師の報告義務の対象から除外する>という修正(これについては新たな偏見や差別を助長するものとして批判がある)が加えられ,エイズ予防法が制定された。HIV感染者の多いアメリカでは,これと同様の法律は否決され,<全米障害者差別禁止法〉(ADA)のように感染者や患者を守る法律がある。98年9月、感染症予防法【かんせんしょうよぼうほう】(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律)の成立に伴い、エイズ予防法は廃止になった。

 一方,国はHIV訴訟の和解後,拠点病院制度の拡大を進めてきたが,プライバシーの保護,インフォームド・コンセント(十分な説明に基づく同意),服薬等の指導,精神的なサポートなどの医療体制づくりはまだまだ不十分である。また,98年4月からはHIV感染症を<内部障害の免疫機能障害>ととらえ,HIV感染者を身体障害者に認定する制度をスタートさせた。しかし,この制度を利用するには,<身体障害者手帳>を市町村に申請する必要があるため,プライバシーの保護の対策がどれだけとれるかが課題である。

〈HIVとともに生きる〉

 WHO(世界保健機関)は,20世紀末には世界のHIV感染者の累計は3000万〜4000万人,AIDS患者は1000万人以上に達すると予測しているが,実数は予測を上回る傾向にある。とくに,HIV感染者を地域別にみると,感染率が高い地域の大半を世界でもっとも貧しい国々(アジア・アフリカ・中南米等)が占めているという現実がある。これは,それぞれの地域が抱える貧困や売買春,教育水準の低さなどの社会問題と複雑にからみあい,拍車をかけていることを表している。

 これらの事実を踏まえ,83年に初めての国際AIDS専門家会議(のちのAIDS国際会議)がジュネーブで開かれ,以後HIV問題の解決に向けて地球規模で取り組まれている。また,WHOによって定められた<World AIDS Day〉(12月1日)には,世界各地でさまざまな立場の人たちやNGOによって大きなイベントやキャンペーンが行なわれ,HIVとともに生きるための取り組みが行なわれている。87年アメリカの団体<The NAME Project>から始まった<メモリアル・キルト運動>や,ヨーロッパで古くから伝わる<レッドリボン>も,AIDSで亡くなった人を追悼し,AIDSに対して差別や偏見をもっていないというメッセージを伝えている。そして,感染者や患者に<ともに生きる希望>を与えることができるという大きな意味がある。

 日本では,血友病患者や同性愛者の団体が,感染経路に関係なく<同じ一つの病気である〉と位置づけ、この問題に取り組み,医療機関,学校,企業などでの受け入れ体制の確立に取り組んできた。日本で最初に設立された感染者や患者支援を目的とした団体〈HIVと人権・情報センター〉(1988設立)は全国の数カ所に支部を置き,電話相談や救援活動,国・自治体への働きかけ,イベントや講演会の企画など,多彩な活動に取り組んでいる。

参考文献

  • HIVと人権・情報センター『AIDS VOLUNTEER TEXTBOOK』(1995)
  • 五島真理為『AIDSをどう教えるか』(解放出版社、1995)
  • 世界保健機関『AIDS――エイズその実像』(エイズ予防財団監訳、笹川記念保健協力財団、1994)
  • 池田恵理子『エイズと生きる時代』(岩波新書、1993)
(尾藤りつ子)

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Last-modified: 2015-12-03 (木) 21:09:28 (1411d)