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2009.04.21
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大阪の部落史通信・44号(2009.03
 

『大阪の部落史』第十巻(本文編)近世の概要


寺木 伸明(大阪の部落史委員会企画委員・近世担当)


六章 近世封建社会の成立と被差別民

(寺木伸明執筆)

1 近世前期における領主の支配政策と被差別民

 豊臣政権のもとで、とくに太閤検地を通じて兵農分離、町在の分離(町人と百姓の分離)が行なわれ、近世の基本的な身分が編成されていく過程で、中世に存在していたキヨメにかかわる仕事をしていた人びとを原基として、「かわた」が被差別身分(皮多身分、「穢多」身分)として固められていった。たとえば河内国更(さら)池(いけ)村内の「かわた」の場合は、太閤検地時に既に「かわた屋敷」の西側に「河(かわ)田(た)骨塚」のあったことを推測させる絵図の存在により、また和泉国島村(皮多村)の場合、近辺から一五世紀ごろと推定される集落の痕跡と牛などの骨を放り込んだ土穴の発見により、死牛馬処理・皮革業に従事していた人びとと社会的系譜がつながっているとみられる。

2 皮多の役負担・生業と信仰・寺院

 ここではまず、岸和田藩における皮多の役儀(城中掃除役、絆(は)綱(づな)上納役、拷(ごう)問(もん)・断(だん)罪(ざい)補助役)や渡辺村の役務の内容が示され、次に近世前期における皮多の死牛馬処理の実態について、河内国新堂村皮多の事例に基づいて叙述されている。これは天和三(一六八三)年一月『牛 大福帳』および貞享三(一六八六)年一二月『馬 大福帳』(竹田家文書)によって明らかになったものである。それによれば死牛馬を取得できるテリトリーである草場の範囲は、同国石川郡・錦部郡などに及んでいた。取得した死牛は、年間平均約八〇頭、死馬が同じく約一五頭であった。

3 四ヶ所「非人」と村方非人番の形成

 元禄一一年三月の『天王寺悲田院中(なか)間(ま)宗旨御改帳』(四天王寺所蔵)によれば、悲田院垣(かい)外(と)(天王寺「非人」)は、「悲田院中間」一二二軒四〇一人、「新屋敷手下非人」三七軒・一〇〇人、「手下新非人」三〇軒・九九人で、総計一八九軒六〇〇人であった。

 在方非人番について、大阪府域での初見が貞享四年八月付の和泉国豊田村居住非人番長次郎とその妻の宗旨請状であること、和泉国では貞享-元禄期から次第に在方非人番が定住し始めていったことが明らかにされている。

4 多様な被差別民とその実態

 三(さん)昧(まい)聖(ひじり)(隠(おん)亡(ぼう)とも称された)も、中世以来、耕地獲得に努めていたようで、太閤検地帳に「おんほう」(隠亡)の肩書を有する名請人が少なからず記載されている。岸和田藩では、貞享元(一六八四)年に「皮多高引」などと並んで「聖(ひじり)高引」を記載した史料が残されているが、この背景には、延宝検地に向けて屋敷地などを除(じょ)地(ち)(年貢免除地)とすることを要求するとともに、所持田畑にかかる百姓役の免除を求める広域運動があったとみられる。

七章 転換期賤民法制と被差別民

(臼井寿光執筆)

1 畿内被差別民の支配と御用

 四ヶ所垣外の本来的御用は、「非人」(野(の)非(ひ)人(にん))制道であった。時代が下るにつれ、警察実務全般に従事させられるようになっていく。

 皮多村に対しては、河内国更池村・同国向野村さらには和泉国島村などのように本村庄屋による皮多支配の権限強化、平人と紛れないように監視する体制の強化、身分内仕(し)置(おき)の強化などが行なわれた。

 岸和田藩では、独自の非人番制をとっており、和泉国全体の非人番を支配しようとしていた堺長吏との確執がみられた。

 平野郷町の「非人」は、非人堂に居住し、世襲の頭がいた。彼らの役務は、月六回の町廻り・昼夜廻り・町警固・聞き込み御用などであった。近世中期を通じて、平野郷限りの垣外であった彼らが大坂四ヶ所の支配に組み込まれていった。また、平野郷町では、郷内限りで皮多が仕置を担っていたことが明らかにされている。

2 地域社会の変貌と賤民排除

 ここでは、被差別民共通の勧(かん)進(じん)場(ば)(旦(だん)那(な)場(ば)。排他的に所有していた縄張り空間・場所)について叙述されている。河内国丹南村では、三昧聖は毎年、米麦収穫期には初穂あるいは野貰いの名目で一定の米麦・銭を家々を回って受け取ったという。こうした勧進場は、時代の推移とともに動揺・解体していく。なかでも皮多村が所持していた芝場権が崩壊に向かっていく。芝場権とは、祭礼空間の管理権などをいう。享保元(一七一六)年、竹田筑後の芝居で、渡辺村の住人が従来通り木戸銭御免で入ろうとして制止されたうえ打(ちょう)擲(ちゃく)された。すぐさま渡辺村の者たちが押しかけ、上演中の国(こく)姓(せん)爺(や)合(かっ)戦(せん)の舞台に敷畳を投げるなどの行為に及んだ。結果、渡辺村の二人の年寄が管理責任を問われた。

 延享五(一七四八)年行基菩千年忌の芝居興行の際、和泉国水(みず)間(ま)村は、橋より内側は水間寺の聖地であり、布村(皮多)の権限は及ばない、芝居興行の十分一銭、店銭徴収は許さないという態度をとった。宝暦二(一七五二)年に和談となったが、結局、皮多村は銭一〇貫文を手切れ金として、以降、一切、苦情を申し立てないということになった。

3 被差別民の人口動態と生活・信仰

 近世中・後期においては、日本の人口は停滞ないし減少傾向にあったが、皮多の人口は、増加傾向にあった。大阪府域の皮多の人口動態も同様の傾向を示す。舳(への)松(まつ)村皮多村をはじめ一〇地区の皮多村の人口動態がグラフで示されている。摂津国富田村皮多村を除けばすべて増加傾向にあった。

 「真宗寺院と皮多寺」の項目では、安永五(一七七六)年一一月、堺御坊御堂で行なわれた報恩講に更池村内の皮多寺称名寺看(かん)坊(ぼう)が外(げ)陣(じん)に詰めようとして法中より非難されたこと、また、大坂本町浄照寺坊で行なわれた法話のなかで「穢多は仏法の非器であるから往生は成り難い」と説いたことなど、真宗内の差別について明らかにしている。

4 皮多村の生業構造と皮革業

 皮多村の人びとは、死牛馬処理・皮革業だけではなく、農林水産業その他、さまざまな生業に就いていた。皮革業についてのみ触れておくと、渡辺村の皮革取扱量は、輸入原皮が圧倒的に多かった。正徳四(一七一四)年で国内各地から大坂へ入津した和牛皮が五〇〇〇枚弱であったのに対して、輸入皮は二万一〇〇〇枚だった。しかし、享保期には途絶状態となり、渡辺村皮商人たちは、西日本、とくに九州地方に原皮集積網を展開することになった。

八章 弛緩する社会秩序と台頭する被差別民

(臼井寿光執筆)

1 後期都市大坂・堺の賤民法制

 近世後期には、博(ばく)打(ち)が横行したり、町規制や村規制を軽々と逸脱する者が続出した。領主側は、取締まりのための法規制を強化する。被差別民の取締りに関しては、大坂では文化一一(一八一四)年四月五日付の「手先の取締り」が基本的な法令とされる。四ヶ所と「穢多村」が規制対象の基本にされていた。

 大坂の髪(かみ)結(ゆい)床(どこ)は、牢番を担い、近世中期までは与力・同心の供廻りにも随行していた。やがて在方髪結も仲間に入れたが、これが天保一三(一八四二)年の株仲間廃止に抵触し、解散を命じられ、牢番役も免じられた。嘉永六(一八五三)年、再興されたという。

 渡辺村の御用は、断罪役が中心であった。出張仕置もあった。行(ぎょう)刑(けい)については小頭という役職を置いていた。また、皮多身分の者が追放刑以下の量刑を科された場合、量刑相当の仕置を渡辺村が独自に行なった。

2 後期地域社会のなかの被差別民

 近世後期になると、雑芸能者・勧進宗教者・都市下層民の総数と境界・周辺が曖昧なまま拡大されていくという特徴がみられるという。渡辺村や河内国富田新田が、本村や近村の警戒や反対にあいながらも土地を拡大していく様子も詳述されている。

3 被差別民の多様な生業

 まず被差別民集落の農業実態について、近世中後期の摂河泉一四の皮多村と一つの夙村の詳細な所持高分布一覧が示される。その特徴は、無高の比率の高さ、高持のなかでの一石以下層の多さなどである。しかし、多くの皮多が様々な不利な条件を乗り越え、努力と才覚で、農業に励んできたことを明らかにしている。たとえば農雇いと小作・又作への大規模進出である。

 その他、皮革関連業として雪(せっ)駄(た)作り・綱(つな)貫(ぬき)靴(皮(かわ)沓(くつ))作り・太鼓作りなどがあった。渡辺村の牛馬骨交易(肥料として摩藩へ売っていた)・筆作り・牛(ぎゅう)?(ろう)(?(ろう)燭(そく)の原料とされた)についても触れられている。

 安政五(一八五八)年には、河内国更池村内皮多村や同国向野村内皮多村は、「屠者村」と称され、同年の別の史料でも、「向野殺生方」と呼ばれていた。また、皮多博(ばく)労(ろう)(牛馬などを売買・斡旋する人)が多数存在していたことが表で詳細に示されている。

4 被差別民抑圧「国訴」体制の構築

 ここでは、皮多村の既得権であった草場権に対する、百姓村による侵害行為の事例が取り上げられ、また、皮多村内で先に見た博労層が力を持ち、村支配を行なおうとする動きが、摂津国下田村を例に叙述されている。

 摂河泉地域は、近世後期、経済的要求を掲げた広域運動(国(こく)訴(そ)・くにそともいう)が展開されたことで知られているが、実はこの運動に先行して被差別民を規制しようとした広域運動があって、経済要求の国訴は、この経験の上に立って行なわれたという。

 最後に、近代的地域社会の形成は、同時に「国民」の形成であり、それらは皮多を含む多様な被差別民を排除することによって達成されたのではないか、と近代への見通しが述べられ、締めくくられている。